1. 概要

コルッチョ・サルターティ(1331年2月16日 - 1406年5月4日)は、ルネサンス期イタリアの重要な人文主義者であり政治家、公証人であった。フィレンツェ共和国の書記官長を1375年から1406年に死去するまで務め、メディチ家の台頭以前の世代において、事実上の常任国務長官として、フィレンツェの政治と文化を主導した。彼はペトラルカの影響を受け、古典学の復興に尽力し、マヌエル・クリュソロラスを招聘してギリシア語教育を開始するなど、フィレンツェを人文主義運動の中心地へと発展させた。その洗練された古典ラテン語の書簡は「キケロの猿」(Scimmia di Ciceroneシムミア・ディ・チチェローネイタリア語)と称され、ライバルであったミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティをして「サルターティの筆は、1000人の騎兵に等しい」と言わしめるほどであった。初期は熱心な共和主義者として市民的自由と市民的徳を擁護したが、晩年には君主制を是認する見解も示すようになり、その政治哲学はニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に影響を与えた。
2. 生涯と教育
サルターティの出自、成長過程、学問的基盤を形成した初期の経験について解説する。
2.1. 出生と家族背景
コルッチョ・サルターティは1331年2月16日、トスカーナ州ピストイア県のブッジャーノ近郊にある小さなコミューン、スティニャーノで生まれた。一部の学者は、サルターティ自身が記した書簡に基づいて1332年生まれであると主張している。彼の父は、ブッジャーノでギベリン(皇帝派)によるクーデターが起きた後、ボローニャに亡命しており、サルターティは父の亡命先で学んだ。その後、ブッジャーノがより確実にフィレンツェ共和国の一部となり安全になったため、家族はブッジャーノに戻った。
2.2. 教育と初期の影響
サルターティはボローニャで学業を修め、この時期に後にフィレンツェの人文主義者となるボッカッチョやフランチェスコ・ネッリと交流を持つようになった。彼は公証人として働きながら文学研究に没頭し、その洗練された見事な古典ラテン語の書簡は、フィレンツェの学者たちから「キケロの猿」という賞賛の異名を得た。また、彼はペトラルカを敬愛する文通相手でもあり、その思想形成に大きな影響を受けた。
3. 経歴
サルターティの職業的な歩みと、主要な公職での活動を時系列で記述する。
3.1. 初期官職
サルターティはフィレンツェ共和国の公証人として務め、多くのイタリアの都市を巡った。1367年には教皇領のトーディで書記官長に任命された。翌1368年から1370年にかけては、教皇秘書であったフランチェスコ・ブルーニ(Francesco Bruniフランチェスコ・ブルーニイタリア語)と共にローマへ赴き、アヴィニョン捕囚からローマに戻ったばかりのローマ教皇ウルバヌス5世の教皇庁で助手として働いた。1370年には教皇庁とのつながりを通じて強力なルッカ共和国の書記官長に任命されたが、ルッカ内部の紛争によりすぐにその職を失った。
3.2. フィレンツェ共和国書記官長
1374年、サルターティはフィレンツェ共和国政府に仕えることになり、翌1375年にはフィレンツェ共和国の書記官長に任命された。これはフィレンツェ共和国の官僚制において最も重要な地位であった。
3.2.1. 役割と責任
書記官長として、サルターティは他の国家との間で広く流通する公文書の作成、大使への機密指示の起草、外交交渉、条約締結といった職務に責任を負った。彼は「法律知識、政治的狡猾さ、外交的手腕だけでなく、心理的洞察力、広報の才、そして並外れた文学的技術をも兼ね備えた、まさに並外れた人物」と評された。
3.2.2. 外交および政治的課題
サルターティの政治家としての能力は、就任直後にフィレンツェがローマ教皇庁との戦争に直面したことで試されることとなった。彼は教皇グレゴリウス11世に対し、フィレンツェが依然としてグエルフィ党の忠実な一員であることを保証するよう求められたが、戦争を防ぐことはできなかった。しかし、サルターティはすぐにイタリア全土で最も著名な書記官長となり、公式書簡の達人として名を馳せた。
彼の在任中、フィレンツェの主要な宿敵であったミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは、かつてサルターティの書簡について「千人のフィレンツェ騎兵よりも大きな損害を与えることができる」と述べたことがある。フィレンツェはサルターティの在任中に、強力な北方のライバルであるジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと二度にわたって戦争を行った。1400年に発表された彼の論文『専制君主論』(De tyrannoデ・テュランノラテン語)は、おそらくヴィスコンティをモデルにしているが、サルターティは(共和主義者であるにもかかわらず)ダンテが提唱した摂理的な普遍的君主の支持者であり続けた。
彼の書簡は時として意図せぬ結果を招くこともあった。1376年、彼はアンコーナの人々に、彼らの自由の名の下に教皇が課した総督に対する反乱を扇動する書簡を送り、イタリアがフランスのために被った悪を想起させた。この辛辣な内容がフランス国王に伝わると、サルターティはフランス国王に対し、害意はなくフィレンツェは常にフランスの友であると保証する、非常に融和的な書簡を送らざるを得なくなった。
1380年代初頭に黒死病がフィレンツェを襲い、市民が避難を急ぐなど都市全体が大きな混乱に陥った際、サルターティは市民的責任感を強調し、「危機の瞬間に祖国を捨てる」ことは「正当でも、勇気ある行動でも、節制された行動でも、思慮深い行動でもない」と厳しく叱責した。彼はフィレンツェ市民に対し、ミラノ王政と戦うよう訴え、フィレンツェ共和国の大義を専制主義に対抗する自由民の闘争として正当化した。彼の主張は、自由こそが真の徳の教師であり法の母であり、自由を通してのみ人間の徳と能力が完全に高揚され、自由を保障する法の下でのみ公益が保存されるというものであった。彼はフィレンツェがローマ共和国時代のルキウス・スルラの末裔であると主張し、自由は「先祖から受け継いだ遺産」であり、フィレンツェは「小さなローマ」であると自負した。そして、「自らを支配者だと信じる者は誰でも」その信念ゆえに「自らが大きな犯罪を犯していることを認めるに等しい」と主張した。この主張が大きな反響を呼び、ミラノの専制君主ジャン・ガレアッツォ・ビスコンティは嘆息し、彼に対する暗殺を企図したこともあった。
4. 人文主義と文化への貢献
ルネサンス期の人文主義運動への寄与と、文化的な業績を明らかにする。
4.1. 古典学習の復興
コルッチョ・サルターティの文化的業績は、おそらく彼の政治的業績を上回るものであった。彼は熟練した作家であり雄弁家であり、古典的伝統を深く活用し、ウェルギリウスやキケロのラテン語に基づいた力強い散文スタイルを発展させた。サルターティは「私は常に信じてきた。古代を単に再現するのではなく、何か新しいものを生み出すために古代を模倣しなければならない」と記している。この意味で、彼自身の人文主義に対する見解は、彼が育成した世代の人文主義者の骨董趣味よりも広範な基盤を持っていた。
彼は給料の多くを費やして800冊の蔵書を築き上げた。これは同時代のニッコロ・デ・ニッコリよりわずかに少ない数であった。彼はまた古典写本の探索にも尽力し、多くの重要な発見を成し遂げた。最も重要な発見は、キケロの失われた『友人への手紙』(Epistulae ad Familiaresエピストゥラエ・アド・ファミリアーレスラテン語)であった。これは1392年にイタリアのパドヴァの教会で写本として発見されたもので、キケロが共和主義的自由の擁護者であったことを示していた。サルターティはこれを読み、キケロが擁護した市民的生き方を称賛し、カエサルを市民的生き方を破壊した独裁者であり反逆者と非難した。この主張はレオナルド・ブルーニに引き継がれ、フィレンツェに共和主義的な人間観と歴史観が定着するのに大きな影響を与えた。彼はまた歴史に関する重要な研究を行い、フィレンツェの起源をローマ帝国ではなくローマ共和国に結びつけた。公文書の記述に古典ラテン語の修辞法を導入したのも彼の功績である。
4.2. 学術および教育の振興
サルターティは、ジャン・フランチェスコ・ポッジョ・ブラッチョリーニ、ニッコロ・デ・ニッコリ、レオナルド・ブルーニ、ピエル・パオロ・ヴェルジェリオといった若手人文主義者の活動を積極的に支援した。
彼はまた、ビザンツの学者マヌエル・クリュソロラスを1397年にフィレンツェに招き、ローマ帝国の終焉以来初めてのギリシア語講座の一つを開講させた。ボエティウス以降、西洋でギリシア語を話したり読んだりできる者はほとんどいなかった。多くの古代ギリシアの科学書や哲学書はラテン語訳が利用できなかった。サルターティの時代には、アリストテレスのいくつかのラテン語文献がイスラムのスペインやシチリア島を経由してヨーロッパに到達していたが、これらの文献はギリシア語原典からではなく、アラビア語から翻訳されたものであった。クリュソロラスをフィレンツェに招くことで、サルターティは(ブルーニやヴェルジェリオを含む)選ばれた学者たちがアリストテレスやプラトンを古代ギリシア語原典で読むことを可能にした。彼はこのように30年にわたりギリシアとローマの古典精神の復興に尽力した。彼の時代には、古代世界の復活というルネサンス本来の理想が取り返しのつかない時代の価値として定着し、フィレンツェは名実ともにルネサンスの知的首都へと変貌した。イタリア各地から集まった若者たちは彼を「精神的師匠」と呼び、当時のある人物は彼を「古代のあらゆる天才的詩人たちを復活させた雄弁の達人」と呼んだ。彼の思想はレオナルド・ブルーニ、ポジョなどの弟子たちを通じてイタリア各地に根付いた。
5. 著述と知的な貢献
サルターティの主要な著作と、その中に込められた哲学・政治思想を分析する。
5.1. 主要著作
サルターティの代表的な著作には以下のものがある。
- 1381年: 『De saeculo et religioneデ・サエクロ・エト・レリギオーネラテン語』(「世俗と宗教について」)
- 1393年 - 1399年: 『De fato, fortuna et casuデ・ファート・フォルトゥナ・エト・カースーラテン語』(「運命、幸運、偶然について」)
- 1399年: 『De nobilitate legum et medicinaeデ・ノビリターテ・レグム・エト・メディキナエラテン語』(「法律と医学の貴さについて」)
- 1400年頃: 『専制君主論』(De tyrannoデ・テュランノラテン語)。日本語では『暴君論』『僭主論』とも訳される。この著作は、後にニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』を先駆けた作品として名高い。
- 1403年: 『Invectivaインヴェクティーヴァラテン語』(「弾劾」)
- 絶筆: 『ヘラクレスの功業について』(De laboribus Herculisデ・ラボリブス・ヘールクリスラテン語)
5.2. 政治哲学と思想
サルターティは書記官長として指導権を握った当初は、熱心な共和主義者として共和制的な理想を抱き、市民的自由と市民的徳を擁護した。彼は人間は決して単独で存在することはできず、市民精神を通じてすべての人間が一つに結ばれるときに初めて人間らしくなれると主張した。また、自由こそが真の徳の教師であり法の母であり、自由を通してのみ人間の徳と能力が完全に高揚され、自由を保障する法の下でのみ公益が保存されると説いた。
しかし、晩年になるにつれて、特にミラノとの戦争で敗色が濃かった1400年頃からは、当時の政治現実を受け入れ、君主制の考えを一部是認する立場を取るようになった。彼は「より良い者が政府を統治すべきであるというのは自然の理」であると述べ、キケロに対し「おお、キケロよ、もしあなたの時代に君主が一人存在したなら、おそらくあなたは内戦とそれほど大きな無秩序を経験しなかっただろう」と語りかけるような主張を展開した。これは、共同体の安寧を脅かすほど対立と分裂が深刻になったとき、カエサルが内乱を終結させたおかげでローマ共和国が平和と安息を得られたという見解に基づいていた。彼は公共の安寧と平和、そして共同体の秩序という名分のもと、カエサルを復権させるような論を展開し、「征服者[カエサル]の慈悲と正義を除けば、末期のローマ共和国で「良い結果をもたらすいかなる希望も頭の中に描くことはできないだろう」とまで述べた。この政治哲学の変遷は、後のニッコロ・マキャヴェッリの思想にも大きな影響を与えた。
6. 私生活
コルッチョ・サルターティは、彼の給料の多くを費やして800冊もの書籍を収集し、その蔵書は同時代のニッコロ・デ・ニッコリのそれにわずかに及ばない程度であった。
7. 死没
コルッチョ・サルターティは1406年5月4日に死去した。彼の死後、フィレンツェ政府は彼の葬儀費用として250フローリンを支払った。
8. 遺産と評価
サルターティの生前の評価、後世への影響、記念される事柄について記述する。
8.1. 同時代の評価
サルターティは、その洗練された古典ラテン語の書簡によって、同時代の学者たちから「キケロの猿」(Scimmia di Ciceroneシムミア・ディ・チチェローネイタリア語)という賞賛の異名を得た。また、フィレンツェの主要な宿敵であったミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは、彼の筆致を高く評価し「サルターティの筆は、1000人の騎兵に等しい」と評した。イタリア各地から集まった若者たちは彼を「精神的師匠」と呼び、当時のある人物は彼を「古代のあらゆる天才的詩人たちを復活させた雄弁の達人」と呼んだ。
8.2. 後世への影響
サルターティの著作、特に『専制君主論』は、後のニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に大きな影響を与えた作品として名高い。また、キケロが擁護した市民的生き方を称賛し、カエサルを独裁者と非難した彼の主張は、レオナルド・ブルーニに引き継がれ、フィレンツェに共和主義的な人間観と歴史観が定着するのに大きな影響を与えた。彼の思想は、レオナルド・ブルーニやポッジョといった弟子たちを通じてイタリア各地に根付き、フィレンツェを名実ともにルネサンスの知的首都へと変貌させる上で決定的な役割を果たした。
8.3. 記念
コルッチョ・サルターティの死後、フィレンツェ政府は彼の葬儀費用として250フローリンを支払い、その功績を称えた。