1. 概要
ハンス・カルム(Hans Kalmエストニア語、1889年4月21日 - 1981年2月1日)は、エストニア出身の軍人、医師である。彼はロシア帝国、フィンランド、そしてエストニアの軍隊で勤務し、特にフィンランド内戦中の残虐行為や、その後のナチ組織との関わりで悪名高い人物である。生涯を通じて軍事活動と並行して医療分野にも従事したが、特に代替医療への関心が高かった。カルムの行動は、特にフィンランド内戦における捕虜、とりわけ女性捕虜に対する即決処刑を含む戦争犯罪によって、人権や民主主義に深刻な負の影響を与えたと評価されている。
2. 幼少期と第一次世界大戦
ハンス・カルムは1889年4月21日、リヴォニア県(現在のエストニア、ポヒャ=サカラ教区内の村)にあるクフモイネン村の農家に生まれた。彼の姓「カルム」は、フィン・ウゴル語派の古語で「死」を意味する「kalmaフィン・ウゴル語派」に由来するとされる。家族の伝説によれば、カルムの祖先の一人が黒死病の際に人里離れた墓地の島に隠れて生き延びたため、姓を改めたという。1914年、彼はロシア帝国軍に徴兵され、第一次世界大戦のリガ湾方面で戦った。1917年のロシア革命後、彼はフィンランドへ逃れ、フィンランド白衛隊に参加した。
3. フィンランド内戦と戦争犯罪
1918年に勃発したフィンランド内戦において、ハンス・カルムは主にエーリヤルヴィとエヴォの森林監視員育成学校の学生から成る大隊を率いた。この大隊は、その残虐行為により悪名を馳せることとなる。
3.1. 白衛隊への参加とハルモイネン事件
カルムの大隊は、内戦中の1918年3月、クフモイネンのハルモイネン村にあるフィンランド赤衛隊のサナトリウムを攻撃した際、その残虐性で特に悪名が高まった。この攻撃により、負傷兵11名と看護師2名が殺害された。この事件は、カルム部隊による最初期の戦争犯罪の一つとして記録されている。
3.2. ヘンナラ収容所での即決処刑
ラハティの戦いで白衛隊が勝利した後、カルムの大隊はヘンナラ収容所の管理を担当した。1918年5月の短期間に、この収容所では500人以上の赤衛隊捕虜が即決処刑された。その中には約200人の女性戦闘員が含まれており、最も若い被害者はわずか14歳であった。これらの女性捕虜は処刑される前に強姦されたと報告されており、カルムの部隊が関与した行為は、人権に対する極めて重大な侵害として非難されている。また、カルム自身が赤衛隊の指導者であるアリ・アルトネンを射殺した可能性が高いとも言われている。
4. エストニア独立戦争
1918年7月、ハンス・カルムはフィンランド白衛隊を辞任し、故郷エストニアへと渡った。そこで彼はエストニア独立戦争に参戦するフィンランド義勇軍「ポフヤン・ポヤト」連隊の指揮官に就任した。この部隊はフィンランド人義勇兵で構成されていた。1919年5月にポフヤン・ポヤトが解隊されると、カルムはフィンランドに戻った。
5. アメリカでの生活と医療活動
フィンランドに戻った後、ハンス・カルムは1923年から1933年にかけてアメリカ合衆国で生活した。この期間、彼は医学を学び、医師としてのキャリアを築いた。
5.1. 医学研究と開業
アメリカ滞在中に医学を修めたカルムは、ニュージャージー州およびニューヨーク州で医師として活動した。1930年にはアメリカ合衆国の市民権を取得している。その後、1934年にフィンランドへ帰国し、西フィンランドのラウマに居を構えた。
5.2. 代替医療への関心
フィンランド帰国後、カルムは自然療法、オソパシー(整骨療法)、ホメオパシー(同種療法)といった代替医療の分野に強い関心を示した。彼は自らスパを経営するなど、代替医療の実践にも力を入れた。
6. 第二次世界大戦と戦後
ハンス・カルムは第二次世界大戦中、短期間ではあるがフィンランドの捕虜収容所長を務め、戦後には職業上の問題に直面した。
6.1. 捕虜収容所司令官とナチ組織活動
フィンランドが第二次世界大戦に参戦すると、カルムは一時的にピエクサマキの捕虜収容所長を務めた。しかし、1941年10月には職を解かれ、フィンランド軍の軍事衛生問題研究のためにドイツへ派遣された。この戦争中、カルムはフィンランド国内のナチス組織であるフィンランド国民社会主義労働機構(KTJ)でも積極的に活動していた。彼の思想的背景とこれらの行動は、第二次世界大戦における彼の関与に批判的な視点をもたらしている。
6.2. 戦後の逃亡と医師免許の取消
ピエクサマキの捕虜収容所での不適切な行為により逮捕されることを避けるため、カルムは1946年にスウェーデン経由でアメリカ合衆国へ逃亡した。彼はサウスカロライナ州エイケン郡で医師として働き、その後、メキシコで外科を学んだ。1957年、彼は同種療法の医師として活動するためにフィンランドに帰国した。しかし、彼が1933年に卒業したミッドウェスト医科大学がアメリカ医師会に認定されていないことがフィンランド当局に発覚し、1974年に彼の医師免許は最終的に取り消された。
7. 死去
ハンス・カルムは晩年をユヴァスキュラにある息子の家族と共に過ごした。彼は1981年2月1日に死去した。享年91歳であった。
8. 主要著作
ハンス・カルムが出版した主要な著書は以下の通りである。
- 『Organotropia as a Basis of Therapy英語』(1969年)
9. 歴史的評価と論争
ハンス・カルムの生涯と行動は、その軍事的キャリアと医療活動の両面で、歴史的に大きな論争の対象となっている。特にフィンランド内戦中の彼の役割は、彼の負の遺産として最も批判的に評価されている。ハルモイネンでの負傷兵および看護師の殺害、そしてヘンナラ収容所での大規模な即決処刑、特に女性捕虜に対する残虐行為は、彼が関与した深刻な戦争犯罪として認識されている。これらの行為は、基本的な人権を著しく侵害するものであり、国際法上の重大な違反と見なされている。
また、第二次世界大戦中のフィンランド国民社会主義労働機構における活動は、彼が極右思想、特にナチズムに傾倒していたことを示しており、その思想的背景と行為は民主主義的価値観に反するものとして批判されている。戦後の医師免許取り消しは、彼の医療従事者としての信頼性にも影を落とした。ハンス・カルムは、その行動が社会にもたらした負の影響により、現在も歴史的議論の的となっている人物である。