1. 生涯
アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリの生涯は、リエージュでの貧しい少年時代から、イタリアでの修業、そしてフランスでの輝かしい成功、さらにはフランス革命という激動の時代を経て、その最期まで、音楽家としての成長と、社会変革への対応が色濃く反映されている。
1.1. 出生と背景
グレトリは1741年2月11日にリエージュ(当時はリエージュ司教領)で洗礼を受けた。彼の出生日は正確には不明だが、一部の資料では2月8日とされている。父は貧しい音楽家ジャン=ジョゼフ(またはフランソワ)で、母はマリー=ジャンヌ・デフォッセであった。夫妻にはすでに息子ジャン=ジョゼフがいた。アンドレは幼少期から音楽の才能の片鱗を見せ、リエージュのサン・ドニ教会で聖歌隊員を務めた。
1.2. 教育と初期の活動
リエージュでは、ジャン=パンタレオン・ルクレールに師事し、後にサン=ピエール・ド・リエージュ教会のオルガニストであったニコラ・ルネキンから鍵盤楽器と作曲を、サン・ポール参事会教会の楽長アンリ・モローから音楽を学んだ。しかし、グレトリに最も大きな影響を与えたのは、イタリアのオペラ団の公演に出席した際に受けた実践的な指導であった。この時、彼はバルダッサーレ・ガルッピやジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージといった巨匠たちのオペラを耳にし、すぐにイタリアで自身の音楽研究を完成させたいという強い願望を抱いた。

必要な資金を稼ぐため、グレトリは1759年にリエージュ大聖堂の司教たちに献呈するミサ曲を作曲した。ユルレ司教の個人的な支援により、彼は同年3月にイタリアへと渡った。ローマに到着したグレトリは、リエージュ・コレージュに滞在し、ジョヴァンニ・バッティスタ・カザーリに師事して5年間を過ごし、音楽教育を修めた。しかし、彼自身の告白によれば、和声や対位法の習熟度は常に控えめなものであったという。
グレトリの最初の大きな成功は、ローマのアリベルティ劇場のために作曲されたイタリア語の幕間劇またはオペレッタ『ラ・ヴェンデンミアトリーチェ』(La vendemmiatrice)によってもたらされ、普遍的な喝采を浴びた。ローマのフランス大使館の書記官が彼に貸し与えたピエール=アレクサンドル・モンシニーのオペラの楽譜を研究したことが、グレトリがフランスのオペラ・コミックに専念するきっかけとなったと言われている。こうして、1767年の元日にローマを離れ、短期間ジュネーヴに滞在した後(この地でヴォルテールと知り合い、別のオペレッタを制作している)、パリへと向かった。
1.3. フランスでの活動と成功
パリでの最初の2年間、グレトリは貧困と無名という困難に直面した。しかし、彼には友人がおり、スウェーデン大使グスタフ・フィリップ・クロイツ伯爵の仲介もあって、グレトリはジャン=フランソワ・マルモンテルからリブレットを手に入れた。彼は6週間足らずでそれに音楽をつけ、1768年8月に上演されたこのオペラ『ル・ユロン』(Le Huron)は、比類なき成功を収めた。その後すぐに『リュシール』(Lucile)と『語るテーブル』(Le Tableau parlant)の2作が続き、これ以降、グレトリはオペラ・コミックの主要な作曲家としての地位を確固たるものとした。彼は生涯で約50作から60作のオペラを作曲した。
1.4. フランス革命期の活動
グレトリ自身も、彼が目撃したフランス革命という大きな出来事の影響を受けないわけにはいかなかった。彼のオペラの中には、『共和主義者ロジエール』(La Rosière républicaine)や『理性の饗宴』(La Fête de la raison)といった、その時代を明確に示す題名を持つ作品がある。しかし、これらの作品は単なる「機会音楽」(pièces de circonstance)に過ぎず、作品中に示された共和主義者の熱狂は、真に純粋なものではなかったと評されている。古典的な主題を扱った作品では、もはやほとんど成功を収めることはできなかった。

フランス革命の間に、グレトリは財産の大半を失った。しかし、フランスの歴代政府は、政治的相違にもかかわらず、グレトリを厚遇することを競い合った。旧宮廷からはあらゆる種類の栄誉と報酬を受け、共和国からはパリ音楽院の監学官に任命され、ナポレオンは彼にレジオンドヌール勲章と年金を与えた。
2. 音楽世界と作品
グレトリの音楽は、その明確な表現と叙情的なメロディによって特徴づけられる。彼はフランス語歌唱劇に大きな影響を与え、その作品は当時の社会の進歩的な思想と美学を反映していた。
2.1. 音楽的特徴とスタイル
グレトリは、メロディの叙情性、表現の明快さ、そしてフランス語歌唱劇への影響で知られている。彼はしばしば「フランスのペルゴレージ」と称された。彼の作品は、当時のフランスの進歩的な社会思想と美学を反映しており、オペラにおける歌唱パートに多くの話し言葉の抑揚を取り入れ、フランスの朗唱劇の要素を適用した。
グレトリは、ヴォルテールの葬儀のために作曲した音楽で「トゥーバ・クルヴァ」(ローマ時代から存在したコルヌの一種)という楽器を初めて使用した。また、彼はマンドリンも自身の作曲に取り入れた。例えば、オペラ『嫉妬深い愛人』(L'amant jaloux)のセレナーデ「皆が眠る間に」(While all are sleeping)では、2つのマンドリンによる繊細な伴奏が用いられている。
彼本来の持ち味は、登場人物の描写や、甘美で典型的にフランス的な情緒の表現にあった。一方で、彼の演奏会用作品の構成はしばしば浅薄で、楽器法は非常に貧弱であったため、他の作曲家が現代の聴衆に受け入れられるよう、いくつかのパートを書き直さなければならないこともあった。
2.2. 主要オペラと作品
グレトリは生涯で約50作から60作のオペラを作曲し、その多くがオペラ・コミックのジャンルに属する。彼の代表作は以下の通りである。
- 『ゼミールとアゾール』(Zémire et Azor、1771年初演)
- 『獅子心王リシャール』(Richard Cœur-de-lion、1784年初演) - この作品は、大きな歴史的事件と間接的に結びついている。劇中には、1789年10月3日にヴェルサイユ駐屯地の将校たちに近衛兵が贈った晩餐会で歌われた、有名なロマンス「おおリチャードよ、おお我が王よ、世界はあなたを捨てる」(O Richard, O mon Roi, l'univers t'abandonne)が登場する。トーマス・カーライルはこれを「テュエステスのそれと同じほどに破滅的である」と評した。このグレトリのオペラから借用された忠誠の表現に対し、間もなくラ・マルセイエーズが人々の返答となった。『獅子心王リシャール』はジョン・バーゴインによってイギリス向けに改作された。
- 『カイロの隊商』(La caravane du Caire、1783年フォンテーヌブロー宮殿で初演) - ハープとトライアングルの伴奏による控えめなトルコ風の異国情緒を持つ、モーツァルトの『後宮からの誘拐』のような救出冒険劇である。この作品は50年間にわたってフランスのレパートリーに残った。
- 『嫉妬深い愛人』(L'amant jaloux、1778年)
グレトリのその他の作品には、以下のものがある。
- 6つの交響曲
- フルートのための協奏曲
- レクイエム
- モテット
- ソナタ
- 6つの弦楽四重奏曲
- 多数のロマンス
主要オペラ作品一覧:
- 『ラ・ヴェンデンミアトリーチェ』(La Vendemmiatrice、1765年)
- Isabelle et Gertrude ou Les Sylphes supposés (1766年)
- Les Mariages samnites (1768年)
- Le Connaisseur (1768年)
- 『ル・ユロン』(Le Huron、1768年)
- 『リュシール』(Lucile、1769年)
- 『語るテーブル』(Le Tableau parlant、1769年)
- Momus sur la terre (1769年)
- 『シルヴァン』(Silvain、1770年)
- Les Deux Avares (1770年)
- L'Amitié à l'épreuve (1770年)
- L'Ami de la maison (1771年)
- 『ゼミールとアゾール』(Zémire et Azor、1771年)
- Le Magnifique (1773年)
- La Rosière de Salency (1773年)
- 『セファールとプロクリス』(Céphale et Procris ou L'Amour conjugal、1773年)
- La Fausse Magie (1775年)
- 『サムニウム人の結婚』(Les Mariages samnites [rev]、1776年)
- 『ピグマリオン』(Pygmalion、1776年)
- Amour pour amour (1777年)
- Matroco (1777年)
- 『ミダスの審判』(Le Jugement de Midas、1778年)
- Les Trois Âges de l'opéra (1778年)
- 『嫉妬深い愛人』(Les Fausses apparences ou L'Amant jaloux、1778年)
- Les Statues (1778年)
- Les Événements imprévus (1779年)
- Aucassin et Nicolette ou Les Mœurs du bon vieux temps (1779年)
- 『アンドロマック』(Andromaque、1780年)
- Emilie ou La Belle Esclave (1781年)
- Colinette à la cour ou La Double Épreuve (1782年)
- L'Embarras des richesses (1782年)
- 『エレクトラ』(Électre、1782年)
- Les Colonnes d'Alcide (1782年)
- Thalie au nouveau théâtre (1783年)
- 『カイロの隊商』(La Caravane du Caire、1783年)
- Théodore et Paulin (1784年)
- 『獅子心王リシャール』(Richard Cœur-de-lion、1784年)
- Panurge dans l'île des lanternes (1785年)
- Œedipe à Colonne (1785年)
- 『アンフィトリオン』(Amphitryon、1786年)
- 『アントニーの結婚』(Le Mariage d'Antonio、1786年)
- Les Méprises par ressemblance (1786年)
- Le Comte d'Albert (1786年)
- Toinette et Louis (1787年)
- Le Prisonnier anglais (1787年)
- Le Rival confident (1788年)
- 『青ひげラウル』(Raoul Barbe-bleue、1789年)
- Aspasie (1789年)
- 『ピョートル大帝』(Pierre le Grand、1790年)
- Roger et Olivier (1790年)
- 『ギヨーム・テル』(Guillaume Tell、1791年)
- Cécile et Ermancé ou Les Deux Couvents (1792年)
- Basile ou À trompeur, trompeur et demi (1792年)
- Séraphine ou Absente et présente (1792年)
- Le Congrès des rois (1794年)
- Joseph Barra (1794年)
- Denys le tyran, maître d'école à Corinthe (1794年)
- La fête de la raison (1794年)
- Callias ou Nature et patrie (1794年)
- Diogène et Alexandre (1794年)
- Lisbeth (1797年)
- Anacréon chez Polycrate (1797年)
- Le Barbier du village ou Le Revenant (1797年)
- Elisca ou L'Amour maternel (1799年)
- Le Casque et les colombes (1801年)
- Zelmar ou L'Asile (1801年)
- Le Ménage (1803年)
- Les Filles pourvues (1803年)
管弦楽曲:
- チェファルとプロクリス (Céphal et Procris)4楽章形式の組曲
- ジグ (Gigue)
- メヌエット (Menuet)
- ガヴォット (Gavotte)
- タンブーラン (Tambourin)
- 平和の木の植樹に寄せる円舞曲 (Ronde pour la Plantation de l'Arbre de la Liberte)
3. 影響と評価
グレトリは、その革新的な音楽スタイルと多作な活動を通じて、後世の作曲家やフランスのオペラに多大な影響を与えた。
3.1. 音楽的影響
グレトリは、特にオペラ・コミックの発展に大きな影響を与えた。彼の音楽は、モーツァルトやベートーヴェンといった後世の偉大な作曲家にも影響を与え、彼らはグレトリの作品に基づいた変奏曲を創作している。彼の作品は、フランスのオペラ・コミックの発展に重要な役割を果たし、その後のフランス音楽の方向性を形作る一助となった。
3.2. 評価と批評
同時代および後世の音楽家や批評家たちは、グレトリの作品に対して様々な評価を下した。彼の真の力は、登場人物の描写と、優しく典型的にフランス的な感情の表現にあるとされた。しかし、彼の演奏会用作品の構成はしばしば浅薄であり、楽器法は貧弱であると批判されることもあった。そのため、彼の作品の一部は、現代の聴衆に受け入れられるよう、他の作曲家によって管弦楽パートが書き直される必要があった。それでもなお、グレトリはフランスのオペラ史において重要な位置を占め、その革新性と影響力は高く評価されている。
4. 後半生と死
グレトリは、自身の娘であるリュシール・グレトリやキャロライン・ウィエを含む多くの学生にオペラの作曲を教えた。彼は画家ジャンヌ=マリー・グランダンと結婚していた。

1813年9月24日、グレトリはヴァル=ドワーズ県モンモランシーにある、かつてジャン=ジャック・ルソーが暮らしていた隠棲地で死去した。彼の死から15年後、長期間にわたる訴訟を経て許可が下り、グレトリの心臓は故郷のリエージュへと移された。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている。
5. 遺産と記念
グレトリの功績を称え、様々な記念物が建立された。

1842年には、グレトリの巨大な青銅像がリエージュに建立された。この像の中には、彼の心臓が納められている。
彼が生前に制作された記念像もある。ジャン=バティスト・ストゥフによる大理石製のグレトリ像は、1804年にイポリット・ド・リヴリー伯爵によって依頼され、1809年にオペラ・コミック座に設置された。この像は現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている。また、ジュネーヴのグラン・リュー29-31番地には、グレトリを記念する銘板が設置されている。
グレトリの名は、小惑星の一つである「グレトリ (小惑星)」にも冠されている。