1. 概要
エルベール2世(Herbert II de Vermandoisエルベール・ド・ヴェルマンドワフランス語、880年ごろ - 943年2月23日)は、10世紀のフランク王国における有力貴族であり、ヴェルマンドワ伯、モー伯、ソワソン伯の爵位を保持した。彼は後にシャンパーニュ地方となる領域に実質的な権力を確立した最初の領主として知られる。
エルベール2世は、当時の複雑な政治状況下で、王権と対立し、自らの影響力拡大のために大胆な行動をとった。特に、西フランク王シャルル3世を捕らえ監禁した事件は、彼の権力志向を象徴する出来事である。彼はこの捕虜を政治的交渉の道具として利用し、西フランク王ラウルやルイ4世といった歴代の王たちと激しい権力闘争を繰り広げた。また、息子をランス大司教に任命するなど、教会権力をも掌握しようと試みた。彼の生涯は、カロリング朝末期の西フランク王国における地方貴族の台頭と、王権の弱体化を示す典型的な例として評価される。
2. 生涯と出自
エルベール2世の生涯は、彼の出自と家系の影響を強く受け、その後の爵位と領土の獲得に繋がった。
2.1. 出自と家系
エルベール2世は880年ごろ、ノルマンディーのヴェルマンドワで生まれた。彼はヴェルマンドワ伯エルベール1世の息子であり、サンリス伯ピピン2世の孫にあたる。彼の母親はモラヴィアのベルタ(Bertha of Moraviaモラヴィアのベルタ英語)またはリウートガルト(Liutgardリウートガルト英語)で、トロワ伯アダルレムの娘であった。
エルベール2世の家系であるエルベール家は、カール大帝の次男ピピン・カールマンの庶子ベルンハルトの庶子であるサンリス伯ピピン2世の子孫であり、カロリング家の分家にあたる。この家系は、818年にピピン・カールマンの息子ベルンハルトが敬虔王ルートヴィヒ1世によって両目を潰され、その結果病死した事件以来、敬虔王ルートヴィヒ1世の子孫たちに対して長年の怨恨を抱いていたとされる。エルベール2世の父エルベール1世は、西フランク王シャルル2世禿頭王に忠誠を誓い、その封臣となっていた。
エルベール2世の姉妹ベアトリクスは西フランク王ロベール1世と結婚しており、この婚姻関係は後にエルベール2世がロベール1世の娘アデルと結婚する上で重要な意味を持った。また、エルベール2世の叔母にあたるヴァロワのポッパは、ノルマンディーの指導者であるロロと結婚しており、この婚姻関係は後にエルベール2世がノルマンディー公ギヨーム1世と同盟を結ぶ上で重要な意味を持った。
2.2. 爵位と領土の獲得

907年11月6日に父エルベール1世がフランドル伯ボードゥアン2世に暗殺されると、エルベール2世はヴェルマンドワ伯の爵位を継承し、さらにソワソン伯の地位も手に入れた。彼はまた、ソワソンのサン=メダール修道院の在俗修道院長の地位も継承し、これにより修道院の広大な財産からの収入を得ることができた。
907年以前に、エルベール2世は西フランク王ロベール1世の娘アデル(Adèle de Franceアデル・ド・フランスフランス語、別名リエガルド)と結婚した。この結婚により、彼は持参金としてモー伯領を獲得した。918年にはメゼレーとヴェクサンの伯爵職も兼ねたが、ヴェクサンは後にラウル1世に奪還された。
また、エルベール2世の親族であるボーヴェ伯ベルナール(Bernard de Beauvaisベルナール・ド・ボーヴェフランス語)が死去すると、ボーヴェ伯領も獲得した。これにより、エルベール2世とベルナールは、当時の西フランク王国北西部において、パリの北部から東部にかけて最も強力な貴族の一団を形成した。彼はシャトー=ティエリに城郭を築き、要塞化した。
3. 主な活動と権力闘争
エルベール2世の生涯は、当時の王権との複雑な関係、権力基盤の拡大、そして外部勢力との交渉によって特徴づけられる。
3.1. 王権との関係
エルベール2世は、当時の西フランク王国の王たちと激しい権力闘争を繰り広げた。
922年、ロベール1世が西フランク王国の貴族たちに推戴されて王位に就くと、エルベール2世は積極的にロベール1世を支持した。彼はロベール1世の義弟にあたるユーグ大公と共に、シャルル3世単純王の軍と戦い続けた。923年6月15日、エルベール2世はシャルル3世を捕らえ、当初はシャトー=ティエリの監獄に、後にソムのペロンヌ城の監獄に幽閉した。これは、エルベール2世の息子の一人の代父であったシャルル3世に対する裏切り行為とも言われている。シャルル3世は929年に捕囚の身のまま死去した。
ロベール1世が923年6月15日の戦闘中に戦死すると、その後継者としてロベール1世の義理の息子であるブルゴーニュ公ラウルが王に推戴された。エルベール2世は、シャルル3世を捕虜として抱えていることを利用し、ラウルに対して様々な権益を要求した。ラウルはエルベール2世の要求に嫌悪感を抱き、彼を遠ざけた。ローマ教皇ヨハネス10世はシャルル3世の監禁を非難し、即時解放を要求したが、エルベール2世はこれを無視した。
926年にラオン伯ロジェ1世(Roger I de Laonラオンのロジェ1世フランス語)が死去すると、エルベール2世は自身の長男ウードのためにラオン伯領を要求したが、ラウルはこれを拒否した。エルベール2世はラウルの意向に反してラオンを占領し、要塞を築いたため、927年に両者の間で衝突が発生した。エルベール2世はシャルル3世を解放すると脅し、4年間ラオンを支配し続けた。しかし、シャルル3世が929年に死去すると、ラウルは931年に再びラオンを攻撃し、エルベール2世を打ち破った。同年、ラウルはランスに入城し、エルベール2世の息子である大司教ユーグを追放し、アルトーが新たなランス大司教となった。この3年間で、エルベール2世はヴィトリ=アン=ペルトワ、ラオン、シャトー=ティエリ、ソワソンといった重要な領地を失った。
934年、エルベール2世の同盟者であるドイツ王ハインリヒ1世の介入により、エルベール2世はラウルに服従することを条件に、ランスとラオンを除く失われた領地を回復することができた。936年1月にラウルが急死すると、エルベール2世は失っていたシャトー=ティエリの要塞を取り戻した。
その後、エルベール2世は西フランク王ルイ4世に対抗するため、ユーグ大公やノルマンディー公ギヨーム1世長剣公と同盟を結んだ。ルイ4世が941年にラオン伯領をロジェ1世の息子ロジェ2世に与えると、エルベール2世とユーグ大公はランスを奪還し、アルトーを捕らえ、エルベール2世の息子ユーグを再びランス大司教に復位させた。942年にはドイツ王オットー1世がリエージュ近郊のヴィゼで仲介に入り、事態は正常化した。
しかし、939年から940年にかけて、エルベール2世とユーグ大公は再びルイ4世に反抗し、ランスを占領してルイ4世を脅かした。この時、エルベール2世は歴史家フロドアルドを投獄し、息子ユーグをランス大司教に任命しようとした。これに対し、ローマ教皇ステファノ8世が介入し、パリに特使を派遣して、ルイ4世を国王と認めない者には破門を警告した。これにより、ユーグ大公やエルベール2世を支持していた貴族たちは一時的に支持を撤回した。
3.2. 権力基盤の拡大
エルベール2世は、その権力を拡大するために様々な手段を講じた。彼は父から継承したサン=メダール修道院の在俗修道院長の地位を利用して、修道院の莫大な収入を自らの財源とした。
また、彼は教会権力の掌握にも積極的であった。922年にランス大司教に就任したスールフ(Seulf of Reimsランスのスールフ英語)は、エルベール2世を懐柔するため、自身の後継者をエルベール2世が指名できると約束した。スールフが925年に死去すると、エルベール2世はラウルの支援を得て、当時わずか5歳であった次男ユーグをランス大司教の座に就けた。さらに、彼はローマ教皇ヨハネス10世に使者を送り、926年にその承認を得た。この任命後、幼いユーグは学問のためにオセールへ送られ、実際の職務はソワソン司教アボ(Abbo de Soissonsソワソンのアボフランス語)が代行した。
エルベール2世は、927年にサン=カンタンに、929年にはペロンヌに要塞を建設し、アミアンにも城郭を築くなど、軍事的な基盤も強化した。
3.3. 外部勢力との交渉
エルベール2世は、西フランク王国内の権力闘争において、外部の有力者との交渉や同盟を積極的に利用した。
934年には、ラウルとの対立で領地を失った際、ドイツ王ハインリヒ1世に介入を要請し、彼の仲介によってランスとラオンを除く領地を回復することができた。
また、927年にはノルマンディー公ロロに兵力支援を要請し、その条件として息子ウードを人質として送っている。
939年から942年にかけて、ルイ4世との対立が激化すると、エルベール2世はドイツ王オットー1世に協力を求め、オットー1世はリエージュ近郊のヴィゼでルイ4世との仲介を行った。これらの交渉は、エルベール2世がフランク王国の内外に広範な影響力を持っていたことを示している。
4. 死去
エルベール2世は、その権勢を誇った生涯の終焉を迎えた。
4.1. 時期と場所
エルベール2世は943年2月23日に、自身の領地であるヴェルマンドワ伯領の首都サン=カンタン(現在のエーヌ県)で死去した。
4.2. 死因

エルベール2世の死因については、歴史的な記述に異同がある。一部の文献、特に14世紀の作者不詳の絵画などでは、西フランク王ルイ4世によってサン=カンタンで絞首刑に処されたと描かれているものがある。しかし、現代の歴史学では、この絞首刑の物語は虚偽であるとされている。
同時代の信頼できる年代記作家であるランスのフロドアルドの記録には、ルイ4世がエルベール2世の死に関与したという記述はなく、エルベール2世は自然死であったとされている。この絞首刑の物語は、960年ごろに書かれたフォルクウィン(Folcwinフォルクウィン英語)の『サン=ベルタン修道院長行伝』(Deeds of the Abbots of St. Bertinディーズ・オブ・ジ・アボッツ・オブ・セント・ベルタン英語)に由来すると考えられており、ルイ4世の息子ロテール3世の治世中に創作されたものである。
彼の遺体はサン=カンタンの聖クロワ教会(Collégiale de Saint-Quentinサン=カンタン聖クロワ教会フランス語)のクリプトに安置されたが、1917年8月にドイツ軍がフランスを侵攻した際にサン=カンタン教会堂が焼失し、彼の墓も破壊された。
5. 遺産と評価
エルベール2世の死後、彼の築き上げた広大な領地は息子たちの間で分割され、その家系は複雑な継承の道を辿った。
5.1. 遺産分割
エルベール2世の死後、彼の広大な領土は息子たちの間で分割相続された。当初、遺産分割を巡って3年間の対立があったが、ユーグ大公の仲介により分割が確定した。
- 長男ウードはアミアン伯領とヴィエンヌ伯領を継承した。
- 次男ユーグはランス大司教の地位と周辺地域を継承した。
- 三男アルベール1世はヴェルマンドワ伯領を継承した。
- 四男エルベール3世はオモワ伯領を継承した。
- 五男ロベールはモー伯領とシャロン伯領を継承した。
- 末子ギー1世はソワソン伯領を継承した。
ロベールの死後、彼の領地はエルベール3世が一時的に継承したが、最終的にはロベールの息子であるエルベール4世がシャンパーニュ地方の全ての領地を継承した。
5.2. 家系の継承と断絶
エルベール2世の男系子孫は、エルベール4世の唯一の息子エティエンヌ(またはスティーヴン)が1019年から1020年の間に男子なく死去したことで断絶した。これにより、エルベール2世の直系の男系は途絶えた。
しかし、他の息子であるアルベール1世の息子チニー伯オットー1世の子孫は、13世紀まで家系を存続させた。また、エルベール2世の娘リュートガルドの子孫は後にシャンパーニュ伯領を継承することになった。
エルベール2世が生前支配しようと努めたラオン伯領は、ロジェ2世が938年に復帰した後、西フランク王国および後代のフランス国王の直轄領に編入された。
5.3. 歴史的評価
エルベール2世は、10世紀のフランク王国において、王権が弱体化する中で地方貴族がいかにして権力を拡大し、王権に対抗したかを示す典型的な例とされる。彼は、自らの血統(カロリング家との繋がり)と婚姻関係、そして軍事力と教会権力への介入を通じて、広大な領地と影響力を獲得した。
彼の行動は、シャルル3世を監禁したように、王権に対する明確な挑戦であり、その権力志向は当時の政治情勢を大きく左右した。彼の死後、広大な領地が分割されたことは、彼の築き上げた権力基盤が、彼個人の強力な指導力に依存していたことを示唆している。
なお、エルベール2世が存命中の彼の正式な称号は「comtis」であり、「count」や「comte」ではなかったとされている。
6. 子女
エルベール2世は907年以前に西フランク王ロベール1世の娘アデルと結婚し、以下の子女をもうけた。
| 氏名 | 生没年 | 主要な役職・結婚相手 |
|---|---|---|
| ウード | 910年ごろ - 946年 | アミアン伯、ヴィエンヌ伯 |
| アデル | 910年 - 960年 | 934年にフランドル伯アルヌール1世と結婚 |
| アルベール1世 | 915年ごろ - 987年 | ヴェルマンドワ伯。ロレーヌのゲルベルガと結婚。 |
| エルベール3世(長老エルベール) | 910年ごろ - 980年 | オモワ伯、モー伯、トロワ伯。951年にイングランド王エドワード長兄王の娘でシャルル3世の寡婦エドギフと結婚。 |
| ロベール | 不明 - 967年 | モー伯、シャロン伯。アデライード・ド・トロワと結婚。 |
| リュートガルド | 914年ごろ - 978年 | 940年にノルマンディー公ギヨーム1世長剣公と結婚。943年/944年にブロワ伯ティボー1世と再婚。 |
| ユーグ | 920年 - 962年 | ランス大司教 |
| ギー1世 | 919年ごろ - 986年 | ソワソン伯 |