1. 概要
エルンスト・デイビッド・バーグマンは、イスラエルが国家として存立する上で不可欠であった科学技術基盤の確立、特にその後の国家防衛戦略の中核となるイスラエル核開発計画の推進において、極めて重要な指導的役割を担った人物である。彼の生涯は、ドイツにおける幼少期と初期の学術的貢献から始まり、ナチスの台頭によるパレスチナへの移住、そしてイスラエル建国後の国防科学の確立へと続く。イスラエル国防省の主要な役職を歴任し、初代イスラエル原子力委員会委員長として、同国の核能力開発を主導した功績は特に大きい。また、有機化学やフッ素化学における500報を超える査読付き論文の発表は、彼の卓越した学術的才能と研究への貢献を示すものである。
2. 生涯
エルンスト・デイビッド・バーグマンの生涯は、ドイツでの幼少期から始まり、学術的な成功、ナチス政権からの逃亡、そしてイスラエルの科学技術および国防の確立への貢献へと続く。
2.1. 幼少期と教育
バーグマンは1903年にドイツで生まれた。彼の父ジュダ・バーグマンはラビであった。バーグマンはベルリン大学で化学を専攻し、ヴィルヘルム・シュレンク教授の指導の下で研究を行った。1927年には博士号を取得した。博士号取得後もベルリン大学に留まり、シュレンク教授と共同で『有機化学総合教本』(Ausführliches Lehrbuch der Organischen Chemieドイツ語)を執筆した。この教本は2巻から成り、それぞれ1932年と1939年に出版されたが、彼がユダヤ人であったため、第2巻の表紙から彼の名前が削除されるという経緯があった。
2.2. 移住と初期のキャリア
1933年、ナチスが政権を掌握した後、バーグマンはロンドンへ移住した。そこで化学者であり著名なシオニスト指導者であるハイム・ワイツマンと共に研究を開始した。彼はロバート・ロビンソン卿からオックスフォード大学の職の申し出を受けたが、これを断った。ロビンソンはこの出来事を後年、怒りをもって回想したという。その後1年も経たないうちにヨーロッパを離れ、1934年1月1日にはイギリス委任統治領パレスチナへ移民し、レホヴォトのダニエル・シーフ研究所で働き始めた。第二次世界大戦中には、フランス、イギリス、アメリカ合衆国の防衛プロジェクトにも貢献した。終戦の1年後、バーグマンはダニエル・シーフ研究所に戻った。この研究所は後にワイツマン科学研究所となった。
2.3. 私生活
バーグマンは化学者のオッティリー・ブルームと結婚した。
2.4. 死去
エルンスト・デイビッド・バーグマンは1975年4月6日に71歳で死去した。
3. 主要な活動と業績
イスラエル建国後、バーグマンは国防および科学分野において数々の要職に就き、同国の安全保障と科学技術の発展に不可欠な貢献を果たした。
3.1. 公職と科学的指導者としての役割
長年にわたりダビッド・ベン=グリオンと親交を深めたバーグマンは、イスラエル政府の重要な公職に任命された。1948年8月にはイスラエル国防軍科学部門の長に就任し、1951年7月15日には国防大臣の科学顧問、1952年初頭には国防省研究・インフラ部門の研究部長を務めた。これらの職務を通じて、彼はイスラエルの科学政策の方向性を定め、その基盤を構築する上で中心的役割を担った。1952年には、ワイツマン科学研究所を離れてヘブライ大学の有機化学科長に就任し、さらにその後の2年間はハイファのテクニオンで大学院生の指導にあたった。1964年6月、ベン=グリオンの後任としてレヴィ・エシュコルが首相に就任した後、バーグマンは辞任を申し出たが、さらに2年間留まるよう説得された。最終的に、彼は1966年4月1日にイスラエル原子力委員会委員長および国防省の2つの役職を辞任した。
3.2. イスラエル核開発計画における役割
バーグマンは、イスラエルの核開発計画において極めて重要な役割を担った。1952年6月、当時の首相ダビッド・ベン=グリオンによって、彼はイスラエル原子力委員会(IAEC)の初代委員長に任命された。彼はベン=グリオン首相、そして当時の国防大臣であったシモン・ペレスと共に、イスラエル核開発計画の基礎を築き、その進展を主導した。
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イスラエル建国直後の1948年には、初代首相ベン=グリオンが核兵器開発を推進し、当時30歳で国防省局長に任命されたペレスがその実務を主導した。バーグマンが委員長を務めたIAECの活動は当初、厳重な秘密のベールに包まれており、その存在は1954年にバーグマン自身が明らかにするまで公には知られていなかった。
フランスはイスラエルの核開発において初期の重要な協力国であった。1960年2月13日、フランスがアルジェリアのサハラ砂漠地下で65キロトン規模の初の核実験に成功した際、専門家の間ではイスラエルもこの核実験に参加したか、少なくともその結果を共有したと考えられている。同年、ベン=グリオン首相はフランスを訪問し、当時のシャルル・ド・ゴール大統領と協議を行った。この協議により、フランス政府はイスラエル核兵器開発への直接的な関与から撤退する一方で、フランス企業はディモナにおける原子炉建設を引き続き支援することで合意が成立した。こうして、フランス企業がディモナにディモナ原子炉を建設し、その後撤退した。イスラエルは核開発予算を国家予算に含めず、アメリカ合衆国の裕福なユダヤ系慈善家からの資金調達によって、この極秘計画を推進した。ディモナ計画を通じてフランスの核技術を習得し、イスラエルは核武装に成功した。
3.3. 学術活動と出版物
バーグマンは、ヘブライ大学やテクニオンでの学術活動に加え、精力的な研究活動を行った。彼は有機化学およびフッ素化学の分野で重要な貢献をなし、国際的な学術誌に500報を超える査読付き論文を発表した。これらの論文は、彼の深い学識と広範な研究能力を裏付けるものである。
4. 受賞と栄誉
バーグマンは、その卓越した科学的貢献に対して、生涯にわたり複数の重要な賞を受賞した。
- ワイツマン賞(1956年)**:有機化学分野での彼の業績、およびイスラエルにおける理論科学と応用科学の振興に対する貢献が評価され、この賞が贈られた。
- イスラエル賞(1968年)**:生命科学分野における彼の功績が認められ、イスラエルの最高栄誉の一つであるこの賞を受賞した。
5. 遺産と歴史的評価
エルンスト・デイビッド・バーグマンの遺産は、イスラエルの科学技術発展と国家安全保障の基盤確立に深く根ざしている。
5.1. 肯定的評価
バーグマンは、イスラエルの科学技術発展、特にその核プログラムの確立に決定的な貢献をした人物として高く評価されている。彼は、イスラエル国防省の科学部門の初代責任者として、同国の防衛能力の基礎を築いた。また、初代イスラエル原子力委員会委員長として、ダビッド・ベン=グリオンやシモン・ペレスといった政治的指導者たちと共に、秘密裏に進められた核開発計画を主導し、国家の存立を保障する抑止力としての中核能力構築に不可欠な役割を果たした。彼の学術的な業績、特に有機化学やフッ素化学における研究もまた、イスラエルの科学界に多大な影響を与えた。
5.2. 批判と論争
エルンスト・デイビッド・バーグマンの活動や決定、あるいは彼が関与した核開発計画について、彼の個人的な行動に直接的な批判や社会的な論争点が存在するという具体的な記述は、参照された情報源には見られない。しかし、彼が主導したイスラエル核開発計画は、その性質上、初期段階から厳重な秘密主義の下で進められ、その存在自体が1954年にバーグマンによって明らかにされるまで公には知られていなかったという歴史的経緯がある。このような秘密裏の開発プロセスは、国際的な核不拡散条約体制との関係において、後年様々な議論の対象となる側面を有している。