1. 生い立ちと経歴
エルヴィン・ラハウゼンは、貴族の家系に生まれたオーストリア人として、軍人としての道を歩み、最終的にドイツ国防軍の情報機関であるアプヴェーアに合流しました。
1.1. 生い立ちと初期
エルヴィン・ラハウゼンは1897年10月25日に貴族の家系に生まれました。彼のフルネームはエルヴィン・ハインリヒ・ルネ・ラハウゼン・フォン・ヴィヴレモントです。「エドラー(Edlerドイツ語)」は貴族の階級を示す称号であり、名ではありません。
1.2. 初期軍歴
ラハウゼンは第一次世界大戦中、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍に勤務しました。戦後、彼はオーストリアの防諜活動に携わりました。しかし、1938年のアンシュルス(オーストリアのドイツへの併合)後、オーストリアの情報機関はドイツの情報機関に吸収され、ラハウゼンはヴィルヘルム・カナリス提督が率いるアプヴェーアに加わりました。
2. 第二次世界大戦中の活動
第二次世界大戦中、エルヴィン・ラハウゼンはアプヴェーア内で重要な役割を担い、その立場を利用してナチス政権に対する抵抗運動に深く関与しました。
2.1. 反ナチス姿勢と情報活動
ラハウゼンとカナリス提督は、共に反ナチズムの感情を共有しており、互いに深い信頼関係を築きました。カナリスはラハウゼンをアプヴェーア第II部部長に任命しました。この部署は主に特殊部隊であるブランデンブルク部隊の指揮やサボタージュ作戦を担当していました。ラハウゼンはヒトラーに反対する精鋭の将校たちで構成された情報機関内の秘密組織の一員となりました。
2.2. サボタージュ作戦
ラハウゼンは1939年9月のポーランド侵攻におけるサボタージュ活動を成功裏に指揮しました。しかし、カナリスがサボタージュよりもスパイ活動を優先したため、ラハウゼンはイギリスに派遣される工作員を主にスパイ活動に重点を置くよう命じましたが、これは壊滅的な結果を招きました。また、1942年6月にアメリカ合衆国に上陸したパストリアス作戦のサボタージュ工作員たちは、仲間の一人によってFBIに裏切られ、逮捕され、軍事法廷で裁かれ処刑されました。
2.3. ヒトラー暗殺計画への関与
ラハウゼンは、アドルフ・ヒトラーの暗殺計画に深く関与しました。彼はスモレンスク陰謀(1943年3月13日のヒトラー暗殺計画)で使用された爆弾を提供したと後に証言しています。この暗殺未遂はファビアン・フォン・シュラーブレンドルフによって実行されましたが、失敗に終わりました。1944年の7月20日事件による暗殺未遂とそれに続くクーデターの失敗後、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクやカナリスを含む数千人の陰謀に関与したとされた人々が処刑されました。
2.4. 大戦後期の軍務と負傷
1943年に東部戦線に配属されたラハウゼンは、カナリスと共に不評を買っていたアプヴェーアの最終的な粛清から免れることができました。前線での勤務により彼の関与は露見しなかったため、7月20日事件後の広範囲な粛清から逃れることができました。しかし、1944年7月19日、彼は砲撃を受け重傷を負いました。
3. 戦後の活動とニュルンベルク裁判
終戦後、エルヴィン・ラハウゼンはナチスの残虐行為の責任追及において極めて重要な役割を果たしました。特に、ニュルンベルク国際軍事裁判での彼の証言は、戦争犯罪の事実を明らかにする上で決定的なものとなりました。
3.1. ニュルンベルク裁判での証言

第二次世界大戦終結後、ラハウゼンは1945年から1946年にかけて行われたニュルンベルク国際軍事裁判において、ヘルマン・ゲーリングら21人の被告人に対して自発的に証言を行いました。彼は「アプヴェーア抵抗運動」の中で唯一の生き残りであったため、検察側の最初の証人としてその証言は大きな注目を集めました。
彼は、数十万人に上るソ連軍捕虜の大量虐殺、およびソビエト連邦、ポーランド、ウクライナの占領地域で100万人以上のユダヤ人を殺害したアインザッツグルッペン(特別行動部隊)の残虐行為について詳細な証拠を提供しました。ラハウゼンの証言は、主要なナチス戦犯の罪状を立証する上で決定的な役割を果たし、戦争犯罪の責任追及と正義の実現に大きく貢献しました。
4. レガシーと評価
エルヴィン・ラハウゼンは、ナチズムに対する勇気ある抵抗運動家として、そして戦後、ニュルンベルク裁判においてナチスの残虐行為を世界に暴露する上で決定的な役割を果たした人物として、歴史的に高く評価されています。彼の証言は、ナチス政権下の陰惨な真実を明らかにし、正義を追求する上で不可欠なものでした。
5. 関連項目
- ナチス・ドイツに対する抵抗運動
- 黒いオーケストラ
- ヴィルヘルム・カナリス