1. 生涯
フェリクス・モリソ=ルロワの生涯は、ハイチの激動の時代と深く結びつき、彼の文学的・言語的活動に大きな影響を与えた。
1.1. 幼少期と教育
モリソ=ルロワは1912年にハイチ南東県グラン・ゴジェの裕福で教養ある家庭に生まれた。彼は近隣の都市ジャクメルで教育を受け、そこでフランス語と英語を習得した。その後、アメリカ合衆国のコロンビア大学大学院で文学を専攻し、深い学識を身につけた。
1.2. 結婚と家族
モリソ=ルロワはジャクメルで後に妻となるルネと出会った。ルネは彼の馬術の腕前を称賛し、モリソ=ルロワ自身も彼女が自身の詩作のインスピレーション源であったと常に語っていた。二人は結婚し、二人の息子と一人の娘をもうけた。
2. 経歴と活動
モリソ=ルロワは教育者、作家、ジャーナリストとして多岐にわたる活動を展開し、特にハイチ語の振興にその生涯を捧げた。
2.1. 教育者・作家としての活動
アメリカ合衆国からハイチに帰国後、モリソ=ルロワは首都ポルトープランスで教職に就いた。彼は文学と演劇を教える傍ら、作家やジャーナリストとしても精力的に活動した。また、ハイチ政府の公職にも任命され、公教育省の局長や国民教育総局長などを歴任した。この時期に、彼は街中で話されるハイチ語(クレオール語)に注目し、それが書き言葉としてハイチを統合する力を持つと考え始めた。当時のハイチでは、フランス語が知識階級の言語であり、クレオール語は一般民衆の言語であった。
2.2. ハイチ語振興とクレオール・ルネサンス
「モリソ」の愛称で親しまれたモリソ=ルロワは、「クレオール・ルネサンス」の父として知られている。彼はハイチ語の使用を促進し、文学や文化におけるその正当性を確立するための運動を主導した。ハイチの大多数の人々、特に農村部の住民にとってクレオール語が唯一の言語であったため、モリソ=ルロワはクレオール語を国家統合の手段として用いることに強く賛同した。
2.2.1. ハイチ語の公用語化と文学的地位向上
モリソ=ルロワは、ハイチ語が学校教育や文学創作において広く使用されるよう、その地位向上に尽力した。彼の努力が実り、1961年にはハイチ語がハイチの公用語として正式に認められた。これは、長らくフランス語が支配的であったハイチにおいて、クレオール語が持つ文化的・社会的価値が公的に認知された画期的な出来事であった。
2.2.2. 主要な創作活動
モリソ=ルロワはハイチ語で詩や戯曲を創作した先駆者である。彼の最も注目すべき業績の一つは、古代ギリシャの悲劇作家ソポクレスの『アンティゴネー』をハイチ語に翻訳・翻案した戯曲『Wa Kreyon』(『クレヨン王』)である。この作品では、登場人物や背景がハイチ文化に合わせて変更され、ブードゥー教の司祭が登場するなど、ハイチ独自の要素が取り入れられている。
2.3. 亡命と国際的な貢献
フランソワ・デュヴァリエによる独裁政権の台頭は、多くの有望な作家たちの活動を抑圧し、自由な表現が脅かされた。モリソ=ルロワもその一人であり、彼の作品がデュヴァリエの不興を買ったため、武装した兵士に空港まで護送され、強制的に亡命させられたという逸話も残っている。彼とデュヴァリエがかつての学友であったことが、彼の命を救ったとも言われている。
パリでは、『Wa Kreyon』の上演に招かれ、そこで彼はエメ・セゼールやレオポール・セダール・サンゴールといったネグリチュード運動の主要人物たちと出会い、彼らの作品に影響を受け、また自身の活動も奨励された。この交流は、彼が後にアフリカ諸国やアメリカ合衆国で教育活動を行う上での基盤となった。
その後、モリソ=ルロワはガーナに移り、植民地主義が終焉を迎える中で、教鞭を執り、国立劇場を率いた。彼はガーナで7年間活動した後、セネガルに移り、1979年まで教職に就いた。セネガルには、ジャン・ブリエール、ジェラール・シュネ、ロジェ・ドルサンヴィルなど、デュヴァリエ政権によって亡命を余儀なくされた他のハイチ人作家たちも滞在していた。
2.4. マイアミでの活動
1981年、モリソ=ルロワは最後にアメリカ合衆国フロリダ州マイアミに移住した。マイアミには大規模なハイチ系コミュニティが存在しており、彼は残りの生涯を家族とともにそこで過ごした。彼はハイチ語と文学を教えることを通じて、移民とその子孫たちが自身の文化遺産を中心に団結するのを助けた。また、週刊誌『Haïti en Marche』に毎週コラムを寄稿した。晩年には、白髪のアフロヘアが彼のトレードマークとなり、そのユーモアのセンスも広く知られるようになった。
1991年には、彼の作品がジェフリー・ナップ、マリー・マルセル・ブトー・ラシーヌ、マリー・エレーヌ・ララク、スージ・バロンらによる英訳集『Haitiad and Oddities』としてマイアミで出版された。この詩集には、元々フランス語で書かれた「Natif Natal」と、ハイチ語で書かれた「Boat People」、「Thank You Dessalines」、「Water」など12編の詩が収録されている。1995年には、彼が誇りとしたハイチを舞台にした最後の長編小説『Les Djons d'Haiti Tom』(『勇気あるハイチの人々』)を発表した。この作品は、1915年のアメリカ海兵隊によるハイチ侵攻から1991年のジャン=ベルトラン・アリスティドに対する最初のクーデターまでの故郷ジャクメルの人々の物語を描いている。
3. 思想と理念
モリソ=ルロワの思想の核心は、言語を通じた国家統合と文化的なアイデンティティの確立にあった。彼は、ハイチの大多数の人々が話すクレオール語こそが、国民を結びつけ、共通の文化的基盤を築くための最も強力な手段であると固く信じていた。フランス語が知識階級の言語として支配的であった時代に、彼はクレオール語を単なる口語ではなく、文学的表現と学術研究に値する正式な言語として昇華させることに尽力した。彼の活動は、言語の多様性を尊重し、抑圧された文化がその固有の声を獲得することの重要性を訴えるものであった。
4. 影響力と遺産
フェリクス・モリソ=ルロワは、ハイチ文学、言語、文化、そしてディアスポラ共同体に計り知れない影響と功績を残した。
4.1. ハイチ文学・言語への影響
モリソ=ルロワの作品と活動は、ハイチ文学の発展とハイチ語の地位確立に決定的な影響を与えた。彼の詩集『Dyakout I』(『ディアクートI』)などのクレオール語作品は、6カ国語に翻訳され、国際的な注目を集めた。また、彼はクレオール語、ハイチ・フランス語、フランス国民文学に関する批評作品も発表し、ハイチ語の学術的基盤を築いた。彼の先駆的な取り組みにより、ハイチ語は単なる口語から、豊かな文学的表現が可能な言語へと昇華され、多くの後続作家に道を開いた。
4.2. 国際的な影響
モリソ=ルロワは、ハイチ国外においてもその影響力を発揮した。彼の教育と指導は、植民地支配から解放されたガーナやセネガルといったアフリカ諸国における国民文学や演劇の発展に貢献した。彼はこれらの国々で、自国の文化と言語に基づいた芸術形式を育成することの重要性を説き、具体的な支援を行った。
4.3. ディアスポラ共同体への役割
マイアミに定住した後、モリソ=ルロワは、現地のハイチ系移民コミュニティの団結と文化的絆の形成に重要な役割を果たした。彼はハイチ語と文学を教えることを通じて、移民とその子孫が自身の文化遺産を再認識し、誇りを持つことを奨励した。彼の活動は、アメリカ合衆国におけるハイチ語の学術研究の普及にも繋がり、ディアスポラにおけるハイチ文化の維持・発展に大きく貢献した。
5. 受賞と顕彰
モリソ=ルロワの功績を称える様々な活動や顕彰が行われている。
- 多くの作家がモリソ=ルロワに戯曲や詩集を捧げている。
- フロリダ州マイアミのリトル・ハイチ地区には、彼の名を冠した通りが存在する。
- 1991年、モリソ=ルロワはジャン=ベルトラン・アリスティド大統領の就任式に主賓としてハイチに招かれた。この式典において、アリスティド大統領はクレオール語を公用語として再確認した。
- カナダの雑誌『Étincelles』は、モリソ=ルロワを年間最優秀作家に選出した。
- 1992年3月13日にニューヨークで発行された雑誌『Finesse』は、モリソ=ルロワの80歳の誕生日を記念した特集号を組んだ。
- 1994年には、フランスの雑誌『Sapriphage』が、彼の作品に焦点を当てた特別号『Haiti's Presence』を刊行した。
6. 主要作品
- 『Plénitudes』(『豊穣』)(1940年)、詩集
- 『Natif-natal, conte en vers』(『生まれ故郷、韻文物語』)(1948年)、韻文短編
- 『Dyakout』(『ディアクート』)(1951年)、詩集
- 『Wa Kreyon』(『クレヨン王』)(1953年)、ハイチ語による戯曲(『アンティゴネー』翻案版)
- 『Haitiad and Oddities』(『ハイチ詩選と奇妙なものたち』)(1991年)、詩集
- 『Les Djons d'Haiti Tom』(『勇気あるハイチの人々』)(1995年)、長編小説
7. 死
フェリクス・モリソ=ルロワは1998年9月5日にマイアミで死去した。