1. 生涯
ムスタファ・ダースタンルルは、その人生を通じてレスリング選手としてだけでなく、政治家や実業家としても影響を与えた。
1.1. 出生と幼少期
ムスタファ・ダースタンルルは、1931年4月11日にトルコのサムスン県スウィトプナル(Söğütpınarスウィトプナルトルコ語)で生まれた。彼の幼少期の詳細については情報が少ないものの、トルコの地方で育ち、後に伝統的な油レスリングに親しむことになる環境であった。
1.2. レスリング入門と初期活動
ダースタンルルは18歳で本格的にレスリングを始めた。それ以前から長年にわたりトルコの伝統的な油レスリングに携わっていた経験が、彼のレスリングの基礎を築いた。1950年代には世界最高のフリースタイルレスラーの一人へと成長し、グレコローマンレスリングにおいてもその才能を発揮した。1952年のヘルシンキオリンピックでは惜しくも出場を逃したが、1953年にはすでにトルコ代表チームの一員としてスウェーデンでの国際試合に出場。そこでバンタム級においてエドウィン・ヴェステルビーやヨーテ・ペルソンといった強豪からポイント勝ちを収め、国際舞台での活躍の片鱗を見せた。
2. レスリングキャリア
ムスタファ・ダースタンルルは、1950年代から1960年代初頭にかけて世界のレスリング界を席巻した。
2.1. トルコ代表と国際大会デビュー
1953年にトルコ代表に選出されたダースタンルルは、1954年に東京で開催された世界レスリング選手権で国際選手権デビューを果たした。バンタム級フリースタイルで出場した彼は、3度のフォール勝ちと2度のポイント勝ちを収め、ハンガリーのラヨシュ・ベンツェやフィンランドのタウノ・ヤスカリを抑え、デビュー戦でいきなり世界タイトルを獲得した。
2.2. オリンピックでの活躍

ダースタンルルはオリンピックでもその実力を遺憾なく発揮した。
- 1956年メルボルンオリンピック**: バンタム級フリースタイルに出場し、5試合すべてで勝利を収め、圧倒的な強さで金メダルを獲得した。
- 1960年ローマオリンピック**: フェザー級フリースタイルに階級を上げて出場。この大会では6試合に勝利し、日本の佐藤多美治との7試合目の引き分けがあったものの、彼の優勝を阻むことはなく、2大会連続となる金メダルを手にした。
2.3. 世界選手権とその他の主要大会
彼はオリンピック以外でも数々の国際大会で優れた成績を収めた。
- 世界選手権**:
- 1954年東京: バンタム級(57 kg級)金メダル
- 1957年イスタンブール: フェザー級(62 kg級)金メダル。この大会では全試合で勝利した。
- 1959年テヘラン: フェザー級(62 kg級)金メダル。パキスタンのムハンマド・アクバルとの引き分けがあった。
- ワールドカップ**:
- 1956年イスタンブール: バンタム級(57 kg級)金メダル
- 1958年ソフィア: フェザー級(62 kg級)銀メダル。ソ連のヌリク・ムシェギヤンに次ぐ2位となり、この大会では2度の引き分けがあったため優勝を逃した。
- バルカン選手権**:
- 1960年ブルガス: フェザー級(62 kg級)金メダル
- 地中海競技大会**:
- 1955年バルセロナ: グレコローマン57 kg級金メダル。フリースタイルだけでなく、グレコローマンでも国際タイトルを獲得した。
- 親善試合**:
- 1958年にはトルコレスリングチームの一員として西ドイツを訪れ、クラウス・ロスト、エルヴィン・シュスター、ヨハン・アルグシュタッター、ガウリンスキーといった選手たちを相手に4試合全てでフォール勝ちを収めた。
2.4. 試合記録とレスリングスタイル
ダースタンルルの選手としてのキャリアは驚異的な数字に裏打ちされている。総試合数393試合のうち、389勝4引き分けという記録を残し、そのほとんどの試合で勝利を収めた。彼は主にフリースタイルレスリングで活躍したが、グレコローマンレスリングでも優れた成績を収めるなど、その技術の幅広さを示した。
2.5. 現役引退
ムスタファ・ダースタンルルは、1960年のローマオリンピックを最後に現役のレスリング選手としてのキャリアを終えた。1954年から1960年の間、彼はバンタム級およびフェザー級のフリースタイルレスリングにおいて世界最高の選手の一人として君臨した。出場した主要な選手権やトーナメントでは、1958年のソフィア・ワールドカップでの銀メダルを除き、全てで優勝を飾った。
3. レスリング引退後の活動
レスリング選手としての現役生活を終えた後も、ムスタファ・ダースタンルルは社会の様々な分野でその才能を発揮した。
3.1. コーチおよびレスリング連盟での活動
現役引退後、彼はレスリングのコーチとして後進の指導にあたり、その経験と知識を伝えた。また、トルコレースリング連盟の活動にも参加し、国内のレスリング界の発展に貢献した。
3.2. 政治活動
1973年から1980年までの間、ダースタンルルは政治の世界に進出し、故郷であるサムスン県の国会議員を務めた。彼は当時の正義党に所属し、政治家として社会に貢献した。
3.3. 事業活動
政治活動と並行して、ムスタファ・ダースタンルルは実業家としても手腕を発揮した。彼はアンカラで、自身の姓とオリンピックリングをロゴにした長距離バス事業を経営していた。この事業は、彼がレスリング界で築き上げた名声と、引退後も社会貢献を目指す姿勢を象徴するものとなった。
4. 死去
ムスタファ・ダースタンルルは、その波乱に富んだ生涯の幕を閉じた。
4.1. 死去の経緯と葬儀
ムスタファ・ダースタンルルは、2022年9月18日に91歳で死去した。彼の葬儀は9月20日にアンカラのコジャテペ・モスク(Kocatepe Camiiコジャテペ・モスクトルコ語)で執り行われた後、カルシュヤカ墓地(Karşıyaka Mezarlığıカルシュヤカ墓地トルコ語)に埋葬された。
5. 評価と遺産
ムスタファ・ダースタンルルは、トルコのレスリング界における伝説的な人物として記憶されており、その功績は現代にも大きな遺産として残されている。
5.1. 主要な業績と肯定的評価
ダースタンルルは、2度のオリンピック金メダルと3度の世界選手権金メダルという輝かしい実績を残し、トルコを代表するレスリング選手としての地位を確立した。彼の技術と精神力は、1954年から1960年の間、バンタム級およびフェザー級のフリースタイルレスラーとして世界最高の一人であると広く評価されている。彼のレスリング界への多大な貢献が認められ、2009年9月にはFILA国際レスリング殿堂入りを果たした。
5.2. 批判と論争
彼の行動や決定、思想に関して、ソースからは特筆すべき批判的な見解や論争は確認されていない。