1. 概要
モハマド・シャヒド(मोहम्मद शाहिदヒンディー語、1960年4月14日 - 2016年7月20日)は、インドのフィールドホッケー選手であり、特にその卓越したドリブルスキルで知られるフォワードであった。彼はインド史上最高のホッケー選手の一人と広く評価されており、1980年のモスクワオリンピックにおけるインド代表チームの金メダル獲得に多大な貢献を果たした。シャヒドのキャリアは、その革新的なプレースタイルと、インドのスポーツ遺産における揺るぎない地位によって特徴づけられる。彼の存在は、ホッケーがインドで国民的スポーツとして愛される上で重要な役割を担い、多くの若手選手にインスピレーションを与えた。この記事では、彼の生涯、主な業績、そしてインドホッケー界に与える深い影響について、彼のスポーツにおける貢献と社会的意義を強調する視点から詳述する。
2. 生い立ちと背景
モハマド・シャヒドは、インドのウッタル・プラデーシュ州ヴァーラーナシーで生まれ育ち、彼の個人的な背景は、彼のホッケー人生の基盤を築いた。
2.1. 出生と家族
モハマド・シャヒドは、1960年4月14日にインドのウッタル・プラデーシュ州ヴァーラーナシーで生まれた。彼は6人兄弟と3人姉妹の末弟であり、彼の父親はヴァーラーナシーのアルダリ・バザール地区で小さなホテルを経営していた。この質素な家庭環境が、後にインドを代表するホッケー選手となるシャヒドの初期の人生を形成した。
3. 選手としてのキャリア
モハマド・シャヒドの選手としてのキャリアは、彼の類まれなる才能と献身によって築かれ、数々の輝かしい功績を残した。彼は特に、その驚異的なドリブル技術と革新的なプレースタイルで知られ、インドホッケー界に大きな影響を与えた。
3.1. 初期キャリアとデビュー
シャヒドは1979年、フランスで開催されたホッケー・ジュニア・ワールドカップにインドのジュニアチームの一員として初出場した。同年、彼はアガ・カーン・カップでの印象的な活躍が認められ、クアラルンプールでの4カ国対抗トーナメントでヴァスデヴァン・バースカラン主将率いるシニア代表チームに選出され、国際舞台でのデビューを果たした。この早期のデビューは、彼の非凡な才能を物語っている。
3.2. プレースタイルと主要な貢献
選手時代のシャヒドは、その類まれなるランニング能力と、相手選手を翻弄するボールのドリブル技術で広く知られていた。彼のプッシュは、まるで力強いヒットであるかのように高速であり、そのプレースタイルは観客を魅了した。特に、ザファル・イクバルとの攻撃的連携は非常に有名で、イクバルは「シャヒドと私が左アウトと右インのポジションで、優れた連携とパスワークで世界中の最高の守備陣を突破した」と語っている。また、イクバルは1980年のオリンピックで金メダルを獲得できたのは、シャヒドが極めて重要な役割を果たしたからだと指摘している。シャヒドの最大の貢献は、彼が考案し完成させた「ハーフプッシュ・ハーフヒット」と呼ばれる独自のショットであった。これは、ボールをドリブルする際に使用するのと同じグリップ(左手をスティックの上部に置き、右手はスティックの中心あたりに低く構える)を用いる打法で、最小限のバックリフトでボールを力強く打ち出し、チームメイトに早期かつ正確なパスを送ることを可能にした。この革新的なストロークは、彼の後継者であるダンラージ・ピレイによっても採用され、ピレイはシャヒドの熱心なファンであった。シャヒドはラックナウのスポーツ大学の出身であり、この大学からは1980年のモスクワオリンピックでチームメイトであったラヴィンダー・パル・シンや、1984年のロサンゼルスオリンピックでゴールキーパーを務めたラジンダー・シン・ラワットなど、1980年代の多くのスター選手が輩出された。このスポーツ大学とホステルは、1950年代の著名なスター選手であるクンワル・ディグヴィジャイ・シン(「バブー」として知られる)の発案によるものであった。
3.3. 主要国際大会と功績
シャヒドは数々の主要な国際大会でインド代表チームに貢献し、輝かしい功績を残した。彼は1980年のモスクワオリンピックで金メダルを獲得したチームの一員であった。
また、1980年にカラチで開催されたホッケー・チャンピオンズトロフィーでは「ベストフォワード選手」に選出され、その攻撃力が国際的に認められた。アジア競技大会では、1982年のニューデリー大会で銀メダルを、1986年のソウル大会で銅メダルを獲得した。1986年のソウルアジア競技大会での彼の技術と能力は高く評価され、アジアオールスターチームに選出された。彼はまた、1981年から1982年にかけてムンバイで開催されたホッケー・ワールドカップ、1984年のロサンゼルスオリンピック、そして1988年のソウルオリンピックにも出場し、インドホッケー界の中心選手として活躍し続けた。
3.4. 主将としての役割と引退
シャヒドは1985年から1986年にかけてインド代表チームの主将を務め、チームを牽引した。その後、1989年1月には国際ホッケーからの引退を発表した。彼の引退は、インドホッケー界にとって一つの時代の終わりを告げるものであった。
4. 引退後の活動
国際ホッケーからの引退後、モハマド・シャヒドは故郷のヴァーラーナシーにあるインド鉄道でスポーツ担当官として社会活動を継続した。
5. 私生活
モハマド・シャヒドは1990年にパルヴィンと結婚し、サイフ(息子)とヒナ(娘)という双子の子供を授かった。
6. 死去
2016年6月、シャヒドは深刻な肝臓病を患い、グルグラムのメダンタ病院に入院した。彼は黄疸の発作を無視していたため、ヴァーラーナシーから緊急空輸されたものの、肝臓と腎臓の機能が低下し、病状は悪化の一途をたどった。そして、2016年7月20日にグルグラムで56歳で死去した。彼の葬儀は翌日、故郷のヴァーラーナシーで行われた。葬儀には、ザファル・イクバル、アショク・クマール、スジット・クマール、RP・シン、シャキール・アーメド、サルダール・シンといった多くの元オリンピック選手や、市当局者、地元政治家らが参列し、インドホッケー界の偉大な損失を悼んだ。
7. 受賞と栄誉
モハマド・シャヒドは、その傑出した功績に対して数々の栄誉ある賞を受賞した。
- アルジュナ賞(1980年 - 1981年)
- パドマ・シュリー勲章(1986年)
- 1986年ホッケー・ワールドカップベストプレイヤー
8. レガシーと影響
モハマド・シャヒドは、その独特なプレースタイル、特に「ハーフプッシュ・ハーフヒット」技術によって、後世のフィールドホッケー選手たちに計り知れない影響を与えた。彼のドリブル能力は、インドホッケーの代名詞となり、彼の技術を熱心に学んだダンラージ・ピレイのような後継者たちによって受け継がれた。シャヒドは、インドのスポーツの歴史において、単なるホッケー選手以上の存在であった。彼は1980年代のインドホッケーの黄金期を象徴する選手であり、彼の卓越した技術とチームへの貢献は、インドホッケーの発展に不可欠なものであった。彼は、自身の功績と情熱を通じて、多くの若者にホッケーへの関心を促し、インドにおけるフィールドホッケーの人気向上に大きく貢献した。彼の残した遺産は、インドのスポーツ史に深く刻まれており、今後も語り継がれていくだろう。