1. 概要

イングア・ストイベア(Inger Støjbergデンマーク語、1973年3月16日生まれ)は、デンマークの政治家であり、実業家、元ジャーナリスト、そして過去に有罪判決を受けた経歴を持つ人物です。彼女はデンマークの国会議員を務め、複数の大臣職を歴任しました。2009年から2010年まで男女平等担当大臣を、2010年から2011年まで雇用担当大臣を、そして2015年6月から2019年6月までは移民・統合・住宅担当大臣を務めました。
2001年の総選挙で初当選して以来、彼女はヴェンスタ党の議員として活動していましたが、移民・統合担当大臣時代に出した違法な指示が原因で弾劾訴追され、2021年2月4日に党を離党しました。同年12月13日には、配偶者の少なくとも一方が18歳未満の亡命申請者カップルを分離させたとして有罪判決を受け、60日間の禁固刑が言い渡されました。この判決を受け、同年12月21日には国会で国会議員としての資格剥奪が決定され、直ちに議席を失いました。2022年6月には、自身の名を冠した新党「デンマーク民主党 - イングア・ストイベア」を設立しました。
彼女のキャリアは、特に移民・難民政策における強硬な姿勢と、それが人権に与えた影響を巡る数々の論争によって特徴づけられます。これらの政策は、デンマーク社会における人権と社会的弱者の保護に関する重要な議論を提起しました。
2. 幼少期と初期の経歴
イングア・ストイベアは、サルリングのイェルク村近郊で、主婦と農民の娘として育ちました。
2.1. 学歴と職歴
彼女は1993年にニュクービン・モーアスのモースー・ギムナジウムを卒業しました。1995年にはヴィボーにあるヴィボー商科学校で1年間の高等商業試験を修了し、その翌年には同校で1年間の経済コミュニケーション研究コースを開始しました。1999年には、当時存在した情報アカデミー(InformationsAkademietデンマーク語)でコミュニケーションマネジメントの学位を取得しました。
同年、彼女はヴィボーの新聞社『Viborg Bladetデンマーク語』に研修記者として入社し、2001年には編集者になりました。その後この職を辞し、自身のコミュニケーションコンサルタント会社「ストイベア・コミュニケーション(Støjberg Kommunikationデンマーク語)」を設立しました。2013年にはオールボー大学でMBAの学位を取得しています。
3. 政治家としての経歴
イングア・ストイベアは1994年にヴィボー市議会の議員として初当選し、2002年までその職を務めました。これに加えて、1996年から1999年まで自由啓蒙連盟(Liberalt Oplysnings Forbundデンマーク語、LOF)の議長を務めました。
3.1. 初期政治活動
1999年に初めて国会議員選挙に出馬しましたが、この時は落選しました。しかし、2001年の総選挙で彼女の所属するヴェンスタ党が勝利し、当時の党首であったアナース・フォー・ラスムセンが首相に就任するとともに、彼女も国会入りを果たしました。
3.2. 国会議員および党指導部での活動
2005年以来、ストイベアはヴェンスタ党の党運営メンバーとして活動しています。2005年から2007年までは国会でヴェンスタ党の副院内総務を務めました。2007年から2022年まで、西ユトランド選挙区の代表を務めました。2007年から2009年まではヴェンスタ党の報道官も務めました。
3.3. 大臣職歴任
2009年4月、当時の首相アナース・フォー・ラスムセンがNATO事務総長に転身し、ラース・ルッケ・ラスムセン内閣が発足すると、ストイベアはクラウス・ヒョルト・フレデリクセンの後任として雇用担当大臣および男女平等担当大臣に就任しました。2010年には省庁再編が行われ、ストイベアは2011年に右派陣営が総選挙で敗北するまで、雇用担当大臣のみを務めました。
野党時代には、ストイベアはヴェンスタ党の主要な公的な発言者の一人となり、2014年から2015年の総選挙勝利までヴェンスタ党の報道官の職を占めました。2015年6月から2019年6月にかけては、移民・統合・住宅担当大臣を務めました。
2020年12月、彼女は党首ヤコブ・エレマン=イェンセンの要請を受けてヴェンスタ党副党首を辞任しました。ヴェンスタ党は以前から、2016年の彼女の省による「難民センターでの若いカップル分離命令」を巡る弾劾を支持していました。ストイベアが自身の弾劾手続きに反対する姿勢を示したため、エレマン=イェンセンは彼女に辞任を求めました。さらに、彼はストイベアが以前から党の方針に不忠実であったと主張しました。2021年2月、ストイベアはヴェンスタ党を離党しました。その後、2022年6月に彼女は「デンマーク民主党」を設立しました。
4. 主要な論争と法的措置
イングア・ストイベアの大臣在任中、彼女の移民・難民政策はデンマーク国内外で多くの論争を引き起こしました。特に人権と社会的弱者に対する彼女の政策は、批判の的となりました。
4.1. 移民・難民政策を巡る論争
ストイベアは2015年9月1日に発効したデンマークの亡命法厳格化を主導し、これにより亡命申請者への社会サービスの提供が制限されることになりました。ストイベアによれば、この措置は亡命希望者がデンマークに入国することを「魅力のないもの」にするためのものでした。彼女は、デンマークへの亡命申請を警告する広告キャンペーンを開始し、レバノンの新聞に広告を掲載したほか、亡命申請者の自宅に10言語で配布し、ソーシャルメディアを通じて拡散する計画も立てました。この政策は、亡命希望者への威嚇とみなされ、人権団体から強い反発を受けました。
特に英語圏では、ストイベアの下で導入された「宝飾品法」が批判的に報じられました。この法律は、亡命申請者が国境で将来のサービス費用として貴重品の一部を引き渡すことを義務付けるものでした。一部の評論家は、この法律をナチズムになぞらえる比較を行い、その非人道性を強調しました。
2017年3月には、ストイベアが移民担当大臣として在任中に50回目の移民法厳格化を記念するケーキを撮影し、Facebookに公開したことで再び国際的なメディアの注目を集めました。この行動は、移民政策の強化を祝うという行為自体が、国際的な人権基準に反するという批判を招きました。
また、彼女は外国人法(Aliens Act英語)の適用を巡る論争にも直接関与しました。これは、デンマーク以外の国籍を持つ教授が公に発言または執筆した場合、その行為が就労ビザの違反と解釈され、刑事罰の対象となる可能性を示唆するものでした。この政策は、表現の自由を制限し、学術の自由を侵害するものとして、学術界から強い批判を受けました。
2018年5月には、デンマークのタブロイド紙『BT』に「ラマダン期間中に断食するムスリムは、デンマーク社会の残りの部分に負の結果をもたらさないよう、仕事を休むべきだ」という投稿を寄稿しました。彼女は、断食によってパフォーマンスが低下する可能性のある労働者の例として、バスの運転手を挙げました。この発言は、他のデンマークの政治家から強い反発を招き、デンマーク政府の報道官は、ストイベアの発言は彼女個人の見解であり、政府の意見を代表するものではないとの声明を発表しました。バス会社もストイベアの発言から距離を置き、デンマークで多くのバス路線を運営するアリバ社(Arriva英語)は、断食中の運転手が事故を起こしたことは一度もないと報告しました。この発言は、宗教的少数者に対する偏見を助長するものとして、広範な批判を受けました。
4.2. 未成年亡命申請カップル分離命令
ストイベアは、2016年に彼女が難民センターで未成年者を含むカップル(一部は子供もいた)を分離させた命令について、繰り返し追及されました。この命令は、違法であり、児童の権利に関する条約に違反していました。さらに、ストイベアはデンマーク議会においてこの件について虚偽の説明を行い、その後、関連する詳細を議会オンブズマンに報告しなかったことが明らかになりました。
この問題に関する議会委員会による調査が2020年1月に開始されました。この委員会は、ストイベアがデンマークが批准している児童の権利に関する条約または欧州人権条約に違反したかどうかを調査しました。この命令は、未成年者の権利と家族の結合権を侵害するものであり、深刻な人権問題として認識されました。
4.2.1. 2021年弾劾裁判
2021年2月2日、デンマーク議会(Folketingetデンマーク語)は、イングア・ストイベアに対するデンマーク弾劾裁判所での弾劾裁判開始を賛成141票、反対30票(可決には90票が必要)で可決しました。ストイベアは、難民センターで配偶者の少なくとも一方が未成年者であるカップル(一部は子供もいた)を違法に分離させたことにより、大臣責任法および欧州人権条約(第8条)に基づく公務上の違法行為および行政怠慢の罪で正式に告発されました。
彼女は2021年12月13日に有罪判決を受け、60日間の禁固刑が言い渡されました。この判決の結果、彼女は国会議員の議席を失い、後任にはギッテ・ヴィルムセンが就任しました。この弾劾裁判は、大臣の職務遂行における人権および法的原則の遵守の重要性を強く示した歴史的な事例となりました。
5. デンマーク民主党の結党
2021年2月にヴェンスタ党を離党した後、イングア・ストイベアは新たな政治政党である「デンマーク民主党 - イングア・ストイベア」を2022年6月に結党しました。この党の結党は、彼女が長年所属していた主要政党を離れ、自身の政治的立場と政策を実現するための新たな基盤を築く動きとして注目されました。デンマーク民主党は、彼女の強硬な移民政策の思想を基盤とし、デンマーク社会における国家主義的で保守的な価値観を強調する路線を打ち出しています。
6. その他の活動と慈善事業
2004年、ストイベアは北ユトランド地方のポップデュオ「スッシ・オ・レオ」の公式伝記を出版しました。
また、彼女は「私たちはダルフールを忘れない(We remember Darfur英語)」というチャリティー募金イベントの主催者でもありました。このイベントでは、ダルフールの女性と子供たちのために30.00 万 DKK以上が集められました。集められた資金は、2007年4月19日に証券取引所で行われた募金コンサートで、ノルウェー教会援助に引き渡されました。
7. 私生活
2006年、彼女は長年『ベルリンスケ』紙の編集者を務め、2016年からはデンマーク財務省のコンサルタントとして雇用されているイェスパー・ベイノフと結婚しました。二人の間に子供はいませんでしたが、2012年に離婚しました。彼女は現在、ハススンに居住しています。
8. 著書
- スッシ・オ・レオの公式伝記
- 『イスラムの生き方は問題である』 (原題: Den islamiske levevis er problemetデンマーク語)
9. 評価と影響
イングア・ストイベアの政治キャリアと行動は、デンマーク社会と政治に大きな影響を与え、その評価は多岐にわたります。彼女は特に移民・難民政策において強硬な姿勢を取り続け、その是非を巡って激しい議論が巻き起こりました。
9.1. 政治的業績と貢献
ストイベアは、ヴェンスタ党が野党であった時期に、党の主要な公的発言者の一人としてその存在感を示しました。彼女は、党の政策を明確に打ち出し、その保守的かつ強硬な姿勢は、特定の有権者層からの支持を集めることに貢献しました。特に、雇用担当大臣としては、労働市場の柔軟性を高める政策を推進し、経済活動の活発化に寄与したと評価する声もあります。彼女の直接的なコミュニケーションスタイルと、政治的な立場を明確に主張する姿勢は、国民に強い印象を与えました。
9.2. 批判と論争
ストイベアの政策、決定、そしてイデオロギーは、人権と社会正義の観点から厳しい批判に晒されてきました。特に、移民・統合担当大臣としての彼女の政策は、国際的な人権基準との整合性が問題視されました。
亡命申請者からの貴重品没収を義務付ける「宝飾品法」や、難民センターにおける未成年者カップルの分離命令は、個人の尊厳と家族の結合を侵害するものとして、国内および国際的な人権団体から猛烈な批判を受けました。これらの政策は、デンマークを「亡命者にとって魅力のない国」にするという彼女の意図の表れであり、社会的弱者を排除する姿勢として非難されました。
また、ラマダン期間中のムスリム労働者に関する発言や、外国人教授に対する「外国人法」の適用推進は、宗教的少数者や外国人に対する差別的、あるいは排他的な態度であるとして、表現の自由や宗教の自由の侵害であるとの批判が上がりました。彼女の行動は、国民の間に分断を生み、デンマーク社会における寛容性と多文化主義の精神に対する挑戦とみなされました。
9.3. 政治的影響と遺産
イングア・ストイベアは、デンマークの政治情勢に具体的な影響を与え、その遺産は今後も議論の対象となるでしょう。彼女の強硬な移民政策は、デンマークの移民・統合政策の方向性を大きく変え、その後数年間の政治的議論の中心となりました。彼女の政策は、他の中道右派政党にも影響を与え、より厳格な移民政策の採用を促しました。
2021年の弾劾裁判での有罪判決と国会議員資格の喪失は、デンマークの政治史における画期的な出来事でした。これは、大臣が違法な命令を下した場合、その行為に対して責任を負うべきであるという法の支配の原則を再確認するものであり、将来の政治家に対する強い警告となりました。
彼女が設立したデンマーク民主党は、既存の政治システムへの不満を抱く有権者層を惹きつけ、デンマーク政治の右傾化傾向をさらに加速させる可能性があります。ストイベアの遺産は、厳格な移民管理と国家主義的な価値観の象徴として、デンマーク社会において長く記憶されることでしょう。同時に、彼女の行動が人権に与えた負の影響についても、継続的な批判と検証が行われることになります。