1. 出自と初期の経歴
ウードの出自や民族については不明瞭な点が多く、様々な説が存在します。一説には、彼はローマ系の血を引いていたとされ、同時代のフランクの年代記には彼の父が「敵対するローマ人」と記されているものもあります。ウードの父については、ボギス、ベルトラン、あるいはルプス1世など、複数のアキテーヌ公が候補として挙げられています。特に、偽書とされる『アラオン特許状』(Charte d'Alaonシャルテ・ダラオンフランス語)には、聖Hubertusウベルトゥスラテン語がウードの兄弟であるとの記述があります。
また、別の説では、ウードはメロヴィング朝の傍系出身とされており、カリベルト2世の庶子であるアキテーヌ公ボギスの孫にあたるとされます。彼の母オダは、クロタール2世の娘、あるいはメロヴィング朝の王族と関連があるとされ、これによりウードはメロヴィング朝の血筋に連なることになります。
ウードがアキテーヌ公位を継承した時期についても諸説あります。ルプス1世が死去したとされる679年、あるいは688年という早い時期に公位を継承した可能性が指摘されています。また、692年という説もありますが、遅くとも700年にはアキテーヌ公として確固たる支配権を確立していたと考えられています。
2. アキテーヌ公としての統治
ウードが統治したアキテーヌ公国は、ガリア南西部のヴァスコニア(現在のガスコーニュ)を含む広大な領域に及び、その領土はロワール川からピレネー山脈に至るものでした。公国の首都はトゥールーズに置かれました。彼は中央集権体制の確立を目指し、行政官を通じて直接裁決を行うことで、公国内の統治を強化しました。また、城郭の改修や不必要な浪費の削減、物資の備蓄を行うなど、来るべき戦いに備えて公国の体制を再編しました。
711年にはパンプローナで西ゴートのロデリックと戦ったとされます。715年、ガリアで内乱が激化する中で、ウードはフランク王国からの独立を宣言しました。しかし、彼は「王」の称号を名乗ることはなかったと考えられています。
718年には、ネウストリア王キルペリク2世とその宮宰Ragenfridラガンフリドフランス語と同盟を結び、バスク人の軍隊を招集してアウストラシア宮宰カール・マルテルと戦いました。この時、ラガンフリドはウードのアキテーヌにおける支配権を承認することを提案した可能性があります。しかし、同年、ソワソンにおけるキルペリクの敗北後、ウードはネウストリア王と宝物をカール・マルテルに引き渡すことで和睦しました。
719年には、ネウストリアのラガンフリドを支援してカール・マルテルに対抗しましたが、ネリーのサン=リスとソワソンで再び大敗を喫し、残存兵を率いてロワール川を越えて敗走しました。この敗北にもかかわらず、ウードはその後もバイエルンの部族長たちと同盟を結ぶなど、フランク王国に対抗するための外交努力を続けました。
ウードは735年までその領土を支配しましたが、その統治期間を通じて、フランク王国とウマイヤ朝という二つの強力な勢力との間で、アキテーヌの独立と安全を確保するための複雑な関係を築き上げました。
2.1. フランク王国との関係
ウードとフランク王国との関係は、独立志向と現実的な協力の間で揺れ動く複雑なものでした。715年、フランク王国が内乱に陥る中で、ウードはアキテーヌの独立を宣言しました。718年には、ネウストリア王キルペリク2世と宮宰ラガンフリドの同盟者として、バスク軍を率いてアウストラシア宮宰カール・マルテルと戦いました。この際、ラガンフリドはウードのアキテーヌにおける支配権を承認する姿勢を見せました。しかし、ソワソンの戦いでキルペリクが敗北すると、ウードは現実的な判断を下し、キルペリクと彼の財宝をカール・マルテルに引き渡すことで和睦しました。
731年、カール・マルテルはザクセン人を破った後、アキテーヌへと目を向けました。彼はウードがウスマン・イブン・ナイッサと同盟を結んだことを非難し、ロワール川を越えてアキテーヌに侵攻し、ウードとの和平を破棄しました。カール・マルテルは二度にわたりアキテーヌを略奪し、ブールジュを占領しました。ウードはフランク軍と交戦しましたが敗北し、カール・マルテルはフランクへと引き返しました。
しかし、732年にウマイヤ朝軍がアキテーヌに侵攻すると、ウードは一転して長年の宿敵であるカール・マルテルに助けを求めました。彼は差し迫った脅威についてカール・マルテルに警告し、アラブ=ベルベル軍との戦いへの支援を要請しました。この支援の見返りとして、ウードは正式にフランク王国の宗主権を受け入れることとなりました。
2.2. ウマイヤ朝との関係
ウードは、フランク王国からの独立を維持するために、時にイスラム勢力であるウマイヤ朝との関係も模索しました。ウマイヤ朝との国境を安定させるため、彼は娘ランペギアを、フランク人からは「Munuzaムヌザラテン語」と呼ばれたイスラム教徒のベルベル人反乱領主ウスマン・イブン・ナイッサと結婚させました。ウスマンは後にカタルーニャの代官となる人物でした。この婚姻は、ウマイヤ朝の勢力圏との間に緩衝地帯を設けるための政治的同盟でした。
しかし、この同盟は長続きしませんでした。731年、ウマイヤ朝は、ピレネー山脈地域(おそらくはサルダーニャまたはカタルーニャ)にいたウードの同盟者ウスマン・イブン・ナイッサを攻撃するため軍を集めました。Abdul Rahman Al Ghafiqiアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーアラビア語率いる遠征軍によってウスマンは敗北し、殺害されました。この際、ウードの娘ランペギアは捕縛され、捕虜としてダマスカスのハーレムに送られてしまいました。ウードは、カール・マルテルとの戦いに忙殺されていたため、ウスマンを助けることができませんでした。この出来事は、ウードがウマイヤ朝との関係において直面した困難と、その同盟が不安定なものであったことを示しています。
3. 主要な軍事活動
ウード大公の生涯は、フランク王国とウマイヤ朝という二つの強力な勢力との間で、アキテーヌの独立を守るための軍事活動に彩られています。彼は数々の重要な戦いを経験し、その結果はアキテーヌ公国の運命を大きく左右しました。
3.1. 721年 トゥールーズの戦い
721年6月9日、ウードはAl-Samh ibn Malik al-Khawlaniアル=サムフ・イブン・マーリク・アル=ハウラニーアラビア語率いるウマイヤ朝軍に対して、トゥールーズの戦いで決定的な勝利を収めました。この戦いは、ウマイヤ朝が北方への軍事遠征で喫した最初の大きな敗北であり、数千ものウマイヤ朝兵士の命が失われました。
この歴史的な勝利は、ローマ教皇グレゴリウス2世から贈り物とともに称賛され、教皇はウードを「ローマ・キリスト教の擁護者」と宣言し、彼の独立性を確固たるものとしました。この功績により、ウードは「大公」(le Grand)という称号を得ることになります。この勝利は、西ヨーロッパにおいてイスラム勢力を決定的に打ち破った最初の例として、彼の名声を高めました。
3.2. 732年 ガロンヌ川の戦い
732年、Abdul Rahman Al Ghafiqiアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーアラビア語率いるウマイヤ朝軍は、ヴァスコニアを襲撃し、ボルドーへと軍を進めて都市を略奪しました。ウードはウマイヤ朝軍と交戦しましたが、ボルドー近郊のガロンヌ川の戦いで敗北を喫しました。この敗戦により、ウードは四散した軍を再編し、差し迫ったアラブ=ベルベル軍の脅威について警告するため、急ぎ北へと向かい、ネウストリアおよびアウストラシアの宮宰カール・マルテルに援軍を要請しました。この支援の見返りとして、ウードは正式にフランク王国の宗主権を受け入れることとなりました。
3.3. 732年 トゥール・ポワティエ間の戦い
ガロンヌ川での敗北後、ウードはカール・マルテルに助けを求め、フランク王国の宗主権を受け入れることで援軍を得ました。732年(または733年)、ウードは80歳近い高齢でありながら、カール・マルテルの軍に加わり、ヴィエンヌとポワティエの北にあるクラン川の間のどこかで、いわゆるトゥール・ポワティエ間の戦いに臨みました。
この戦いにおいて、ウードはフランク軍の左翼を形成しました。彼は軍を率いてウマイヤ軍の本陣に侵入し、火を放つことで敵の後方部隊を大混乱に陥れ、ウマイヤ軍を破る上で重要な役割を果たしました。このフランクとアキテーヌの連合軍はウマイヤ軍に勝利し、彼らをアキテーヌから追い出すことに成功しました。
戦いの後、カール・マルテルはフランク王国へと戻り、ウードは引き続きアキテーヌおよびヴァスコニアの支配者の地位にとどまりました。この戦いは、西ヨーロッパにおけるイスラム勢力の進出を食い止めた歴史的な転換点として評価されています。
4. 私生活と後継
ウードの私生活については、特に彼の娘ランペギアの結婚が政治的に重要な意味を持ちました。ランペギアは、ウマイヤ朝のベルベル人領主ウスマン・イブン・ナイッサ(フランク人からはムヌザと呼ばれた)と結婚しました。この結婚は、ウードがウマイヤ朝との国境を安定させるための戦略的な同盟の一環でした。しかし、この同盟は悲劇的な結末を迎え、ウスマンがアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーによって討たれた際、ランペギアは捕縛され、捕虜としてダマスカスのハーレムに送られたとされています。
ウードは735年に退位したか、あるいは死去したとされています。彼の死後、アキテーヌ公位は息子のフナルド1世に継承されました。しかし、彼が隠棲した修道院で、740年という比較的遅い時期に死去した可能性も指摘されています。
5. 歴史的評価と遺産
アキテーヌ公ウードは、その軍事的功績とアキテーヌの独立維持への貢献から、後世に「大公」(le Grand)という称号で記憶されています。特に、721年のトゥールーズの戦いにおけるウマイヤ朝に対する決定的な勝利は、彼にこの称号をもたらし、西ヨーロッパにおけるキリスト教世界の擁護者としての名声を与えました。
彼の統治は、フランク王国とイスラム勢力という二つの大国の狭間で、アキテーヌの自治を守るための困難な道のりでした。時にフランク王国と対立し、時にイスラム勢力と同盟を結ぶなど、その外交政策は非常に現実的かつ柔軟でした。最終的には、トゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルと共闘し、イスラム勢力の侵攻を食い止める上で重要な役割を果たしました。
ウードのアキテーヌにおける人気は、『パルドゥルフス伝』(Vita Pardulfiヴィタ・パルドゥルフィラテン語)によっても裏付けられています。彼の名は、12世紀の物語『エイモン四兄弟』(Les Quatre Fils Aymonレ・キャトル・フィス・エイモンフランス語)に登場するガスコーニュの王ヨン(Yon de Gascogneヨン・ド・ガスコーニュフランス語)の名の由来になった可能性も指摘されており、彼の存在が後世の文化にも影響を与えたことがうかがえます。ウードは、アキテーヌの歴史において、その独立性とアイデンティティを守ろうとした象徴的な人物として評価されています。