1. 生涯と背景
1.1. 幼少期と教育
エミール・ムペンザは1978年7月4日にベルギーのゼリックで、薬剤師の父アルセーヌと母ロザリーの下に5人兄弟の1人として生まれた。サッカーキャリアはKVコルトレイクのユースで1989年から1995年まで過ごし、同クラブで1995年にプロデビューを果たした。
1.2. 家族関係
エミールには兄のムボ・ムペンザがおり、彼もまたサッカー選手としてベルギー代表の経験を持つ。エミールはキャリアの初期において、KVコルトレイク、REムスクロン、スタンダール・リエージュの3つのクラブで兄のムボと共にプレーし、兄弟で攻撃の要として活躍した。彼らの共演はチームの成績に大きく貢献し、特にREムスクロンではジョルジュ・レーケンス監督の下でコンビを組み、1996-97シーズンにはエミールがベルギー年間最優秀若手選手賞とエボニー・シューを獲得するきっかけとなった。
2. クラブ経歴
ムペンザはベルギー、ドイツ、カタール、イングランド、スイス、アゼルバイジャンと様々な国のクラブでプレーし、それぞれの地で経験を積んだ。
2.1. ベルギーでの初期
ムペンザはベルギー2部リーグのKVコルトレイクでプロキャリアを開始し、32試合に出場して5得点を記録した。その後、兄のムボと共にREムスクロンへと移籍し、1部リーグで活躍。ジョルジュ・レーケンス監督の下でムボと強力なコンビを組み、31試合で12得点を挙げた。この活躍が評価され、1996-97シーズン終了後には年間最優秀若手選手賞とエボニー・シューを受賞した。これらの実績を引っ提げて、兄ムボと共にスタンダール・リエージュへ移籍し、1997年から1999年の間に46試合で20得点を記録した。
2.2. ドイツ・ブンデスリーガ
2000年1月2日、ムペンザは同胞のミカエル・グーセンスと入れ替わる形で、クラブ史上最高額となる1700.00 万 DEMの移籍金でドイツ1部のFCシャルケ04と契約した。2月5日のアルミニア・ビーレフェルト戦でデビューし、同日のヴェルダー・ブレーメン戦(3-1)で初得点を記録。さらに18日のVfBシュトゥットガルト戦(3-0)では2得点を挙げるなど、9試合で6得点を記録し、「マジック」と称賛された。2000-01シーズンには、エッベ・サンドと前線を組み、クラブの往年の名FWクラウス・フィッシャーから「クラブ史上最高のコンビ」と称賛されるほどの活躍を見せた。しかし、チームは最終的に勝ち点差1で優勝を逃し、その後もリーグ優勝を経験することはなかった。ムペンザ自身も負傷に悩まされたほか、ルディ・アサウアーゼネラルマネージャーとの衝突も経験し、厳しい時期を過ごした。
2003年8月30日、ムペンザは移籍金150.00 万 EURで古巣のスタンダール・リエージュと3年契約を締結し復帰した。ドミニク・ドノフリオ監督の下、アルマニ・モレイラやモハメド・アリュー・ダッティらと共に攻撃を牽引し、28試合で21得点という好成績を収めた。この活躍により、2004年5月18日には移籍金250.00 万 EURでハンブルガーSVと4年契約を締結し、再びドイツへ渡った。しかし、ハンブルガーSVでは36試合で5得点と期待されたほどの地位を確立できず、2006年1月9日に移籍金150.00 万 EURでカタール1部のアル・ラーヤンSCへの移籍に合意し、翌日には1年半契約を締結した。
2.3. カタール・スターズリーグ
アル・ラーヤンSCへの突然の移籍は多くの批判を浴びたが、ムペンザはベルギーのラジオ局に対し「自分はまだ終わっていないことをマンチェスターで証明したい」「カタールでプレーすることを選択した際に批判した全ての人たちを見返してやりたい」と語り、自らの決断に対する強い意欲を示した。アル・ラーヤンでは19試合に出場し9得点を挙げ、サッカー選手としての最高の活躍を見せた。
2.4. イングランド・プレミアリーグ
アル・ラーヤンSCを退団し自由契約選手となったムペンザは、前線の選手層に問題を抱えていたマンチェスター・シティFCのトライアルに参加した。シティ・オブ・マンチェスター・スタジアムで行われたブラックプールFCとの練習試合で2得点を挙げ、力を示したことで2007年2月16日に2006-07シーズン終了までの契約を締結した。3月3日のウィガン・アスレティックFC戦で後半から途中出場でデビューを飾った。3月17日のミドルズブラFC戦(2-0)で初得点を挙げ、3月30日のニューカッスル・ユナイテッドFC戦(1-0)では決勝点を決めた。精彩を欠いていたゲオルギオス・サマラスやベルナルド・コッラーディに代わってチームを支え、2007年5月5日には契約を2007-08シーズン終了までの1年延長した。シーズン最終日のトッテナム・ホットスパーFC戦(1-2)でも得点を挙げ、シーズン合計3得点を記録した。

2007-08シーズンは、開幕前のブリストル・ローヴァーズFC戦で得点を挙げるなど好調なスタートを切った。しかし、その後は膝とハムストリングの負傷に悩まされ、さらに2007年夏に就任したスヴェン=ゴラン・エリクソン新監督の下で獲得されたロランド・ビアンキ、ヴァレリ・ボジノフ、ジェオヴァンニ、エラーノ・ブルメルといった選手たちとの定位置争いに苦戦し、出場機会は限定された。冬の移籍市場ではベンジャミン・ムワルワリ、ネリー・カスティージョ、フェリペ・カイセドの加入により状況はさらに悪化。複数のクラブから期限付き移籍のオファーがあったものの残留を決意したが、状況は好転せず、9月以降は得点を挙げることができなかったため、2008年7月に放出された。
その後、2008年9月2日にはイングランド2部のプリマス・アーガイルFCと1年契約を締結した。9月13日のノリッジ・シティFC戦(1-2)で70分から途中出場でデビューを飾り、チャールトン・アスレティックFC戦(2-2)で移籍後初得点、カーディフ・シティFC戦(2-1)で2得点目を記録した。しかし、ここでも定期的な負傷に悩まされ、チーム最高額となる週給1.00 万 GBPを受け取りながらも、先発3試合を含む9試合の出場で2得点という厳しい結果に終わり、新契約は提示されなかった。
2.5. スイス・スーパーリーグおよびアゼルバイジャン・プレミアリーグ
プリマスとの契約満了後、ムペンザは2009年7月8日にスイス1部のFCシオンと1年延長オプション付きの2年契約を締結した。シオンでは長年悩まされてきた負傷の影響もなく、キャリアを再興させた。最終節のFCザンクト・ガレン戦(5-1)ではハットトリックを達成し、クリスティアン・イアヌやマルコ・シュトレラーに並んで得点ランキング2位となる21得点を記録した。
シオンでの活躍により、オランダ1部のアヤックス・アムステルダムからマルコ・パンテリッチの後釜としてのオファーがあったが、シオン側が入札内容を不十分と判断したため交渉はまとまらなかった。最終的に2010年8月3日、ムペンザはアゼルバイジャン1部のネフチ・バクーと3年半契約を締結した。加入1年目は、冬の中断期間中の合宿で膝を負傷し手術を受けることになり、最大半年の離脱と診断されたものの、6得点を記録してチームのリーグ優勝に貢献した。しかし、翌2011-12シーズンは、バハディール・ナシモフとフラヴィーニョのコンビの台頭により、ボユカグハ・ハジエフ新監督の構想外となった。出場機会が限定されたため(8試合出場で合計165分)、シーズン終了後に退団となった。また、2015年6月にはFIFAがネフチ・バクーに対し、ムペンザに未払い賃金として100.00 万 EURを支払うよう命じた。これは、クラブ側が選手に対する義務を怠ったケースとして注目された。
2.6. ベルギー2部リーグへの復帰
ネフチ・バクーを退団し母国ベルギーに戻ったムペンザは、2012年7月にワースラント=ベフェレンの練習に参加したのを皮切りに、11月にはKVCウェステルロー、2013年8月にはホーフストラーテンVV、9月にはロイヤル・アントワープFCと様々なクラブと接触したが、契約には至らなかった。1年以上の無所属状態が続いた後、最終的に2013年10月1日、ベルギー2部リーグのSCエーントラハト・アールストとシーズン終了までの契約を勝ち取った。
3. 代表経歴
3.1. 主要国際大会出場
ムペンザは1997年から2009年までベルギー代表としてプレーしたが、国際試合招集時に頻繁に負傷に見舞われた。1997年の北アイルランド戦(0-3)で代表デビューを飾り、同年にはサッカーサンマリノ代表戦(6-0)で2得点を挙げ、代表初得点を記録した。
1998 FIFAワールドカップとUEFA EURO 2000には兄のムボと共に参加した。1998 FIFAワールドカップではグループリーグ3試合全てに途中出場し、UEFA EURO 2000ではブランコ・ストルパールやルク・ニリスとコンビを組みながらグループリーグ3試合に先発出場し、スウェーデンとの初戦(2-1)で得点を挙げた。しかし、両大会ともグループリーグで敗退した。2002 FIFAワールドカップは鼠径部の負傷により欠場した。
3.2. 代表引退と復帰
2004年4月のトルコ戦を前に、個人的な理由から代表引退を表明したが、同年10月には代表に復帰した。
2007年6月6日のフィンランドとのUEFA EURO 2008予選を最後に、クラブでのプレーに集中するため再び代表引退を表明した。しかし、フランキー・ベルコーテレン監督の度重なる説得に応じ、2009年8月6日に代表招集を受諾。12日のチェコとの親善試合で復帰を果たした。同年10月10日のトルコとの2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では2得点を挙げ、2005年8月17日のギリシャとの2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選以来の得点を記録した。この試合が彼の代表での最後の得点となり、ベルギー代表としては1997年から2009年までの間に57試合に出場し、19得点を記録した。
3.3. 国際試合記録
ムペンザのベルギー代表における国際試合得点記録は以下の通り。
| 順位 | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1997年6月7日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | サンマリノ | 3-0 | 6-0 | 1998 FIFAワールドカップ予選 |
| 2 | ||||||
| 3 | 1999年2月3日 | ツィリオン・スタジアム (リマソール) | キプロス | 0-1 | 0-1 | 親善試合 |
| 4 | 1999年8月18日 | ヤン・ブレイデルスタディオン (ブルッヘ) | フィンランド | 3-4 | 3-4 | 親善試合 |
| 5 | 1999年9月4日 | フェイエノールト・スタディオン (ロッテルダム) | オランダ | 5-5 | 5-5 | 親善試合 |
| 6 | 1999年9月7日 | スタッド・モーリス・デュフラン (リエージュ) | モロッコ | 3-0 | 4-0 | 親善試合 |
| 7 | 2000年3月29日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | オランダ | 2-0 | 2-2 | 親善試合 |
| 8 | 2000年6月10日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | スウェーデン | 2-0 | 2-1 | UEFA EURO 2000 |
| 9 | 2000年8月16日 | ゲオルギ・アスパルホフ・スタジアム (ソフィア) | ブルガリア | 0-2 | 1-3 | 親善試合 |
| 10 | 2001年2月28日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | サンマリノ | 2-0 | 10-1 | 2002 FIFAワールドカップ予選 |
| 11 | 2001年4月25日 | レトナ・スタジアム (プラハ) | チェコ | 0-1 | 1-1 | 親善試合 |
| 12 | 2001年6月2日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | ラトビア | 2-0 | 3-1 | 2002 FIFAワールドカップ予選 |
| 13 | 2003年2月12日 | 1956年5月19日スタジアム (アンナバ) | アルジェリア | 0-1 | 1-3 | 親善試合 |
| 14 | 0-3 | |||||
| 15 | 2005年3月26日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | ボスニア・ヘルツェゴビナ | 1-1 | 4-1 | 2006 FIFAワールドカップ予選 |
| 16 | 4-1 | |||||
| 17 | 2005年8月17日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | ギリシャ | 1-0 | 2-0 | 親善試合 |
| 18 | 2009年10月10日 | ボードゥアン国王競技場 (ブリュッセル) | トルコ | 2-0 | 2-0 | 2010 FIFAワールドカップ予選 |
| 19 | 2-0 |
- 国際Aマッチ 57試合19得点(1997年-2009年)
| 年 | 出場 | 得点 |
|---|---|---|
| 1997 | 5 | 2 |
| 1998 | 8 | 0 |
| 1999 | 9 | 4 |
| 2000 | 7 | 3 |
| 2001 | 6 | 3 |
| 2002 | 2 | 0 |
| 2003 | 4 | 2 |
| 2004 | 1 | 0 |
| 2005 | 7 | 3 |
| 2006 | 3 | 0 |
| 2007 | 2 | 0 |
| 2008 | 0 | 0 |
| 2009 | 3 | 2 |
| 通算 | 57 | 19 |
4. 私生活
2002年にはドミニク・スタンデール監督によるコメディ映画『Hop』に出演している。
5. 獲得タイトルと実績
5.1. クラブタイトル
- DFBポカール
- FCシャルケ04: 2000-01, 2001-02
- UEFAインタートトカップ
- ハンブルガーSV: 2005
- アゼルバイジャン・プレミアリーグ
- ネフチ・バクー: 2010-11
5.2. 個人タイトル
- ベルギー・プロフェッショナル・フットボール・アワード年間最優秀若手選手部門: 1996-97
- エボニー・シュー: 1997
- ベルギー年間最優秀国外サッカー選手: 2000
- キッカー ドイツサッカーランキング - インターナショナルクラス選手: 2000-01
- スタンダール・リエージュ 年間最優秀選手: 2003-04
6. 評価と遺産
6.1. 肯定的な評価
ムペンザは、そのキャリアを通じて優れた技術と得点能力を高く評価された。特にFCシャルケ04時代には、エッベ・サンドとのコンビで「マジック」と称されるほどの決定力を見せ、クラブの攻撃を牽引した。また、FCシオンでは、長年の負傷に悩まされながらも、シーズン21得点という驚異的な成績を収め、キャリアを再興させたことで、その回復力とプロ意識が賞賛された。
6.2. 批判と論争
ムペンザの選手生活は、頻繁な負傷がキャリア全体に影を落とし、安定したパフォーマンスを維持することが困難であった。また、FCシャルケ04時代には、ゼネラルマネージャーのルディ・アサウアーとの衝突が報じられ、チーム内での人間関係の問題も浮上した。2006年のアル・ラーヤンSCへの移籍は、当時まだ若く欧州トップリーグでプレーできると考えられていた彼にとって、キャリアの早期終焉を意味するとの批判を浴びた。しかし、彼はこれを「批判した人々への復讐」と位置づけ、カタールでのプレーに集中した。さらに、ネフチ・バクー退団時には未払い賃金を巡る問題が発生し、FIFAがクラブにムペンザへの100.00 万 EURの支払いを命じる事態となった。これらの論争や困難にもかかわらず、ムペンザは自身のキャリアを通じて挑戦を続け、最終的にはアゼルバイジャンでのリーグ優勝に貢献するなど、一定の成果を残した。
7. 外部リンク
- [https://www.soccerbase.com/players/player.sd?player_id=13970 エミール・ムペンザ - Soccerbase]
- [https://www.national-football-teams.com/player/695.html エミール・ムペンザ - National-Football-Teams.com]
- [https://www.rbfa.be/en/international/13970/career エミール・ムペンザ - ベルギーサッカー協会]
- [https://web.archive.org/web/20090708133941/http://www.pafc.co.uk/page/ProfilesDetail/0,,10364~35426,00.html エミール・ムペンザのプロフィール(プリマス・アーガイル公式サイト、アーカイブ)]
- [http://www.fussballdaten.de/spieler/mpenzaemile/2012/ fussballdaten]