1. 生涯と背景
エリック・ドフランドルはベルギーのリエージュ州ロクールで生まれた。身長は181 cm、体重は80 kgであった。
1.1. 幼少期とユースキャリア
ドフランドルは幼少期に弟と共にワンドル・ユニオンでサッカーキャリアをスタートさせた。1年後、彼はテストを経て、かつて父が在籍していたRFCリエージュの下部組織に入団した。当初、彼は守備的ミッドフィルダーとしてプレーしていたが、1991年に同クラブとプロ契約を結んだ後、エリック・ゲレツ監督の助言により右サイドバックに転向した。
1.2. 家族
ドフランドルの家族はサッカーに深く関わっており、父のマルセルと弟のジャン・マルクも元サッカー選手である。しかし、2014年1月には、弟のジャン・マルクが交通事故によりこの世を去るという悲劇に見舞われた。
2. クラブ経歴
エリック・ドフランドルのクラブ経歴は、ベルギーとフランスの複数クラブにわたり、初期のプロキャリアから晩年まで多岐にわたる。

2.1. ユース時代と初期プロキャリア
RFCリエージュでプロキャリアを開始したドフランドルは、17歳から21歳までの4年間で約100試合の公式戦に出場した。しかし、クラブが破産危機に陥ったため、彼は移籍を決意した。当時、フランス2部リーグのFCマルティーグとスタッド・ラヴァルの2クラブから好条件のオファーがあったが、代理人から若くして国外へ渡ることに難色を示されたため、最終的には国内にとどまることになった。彼は、同僚のベルナール・ウィグリアとクリストフ・キネットと共に、1995-96シーズンにKFCジェルミナル・エケレンと契約した。ジェルミナル・エケレンでは、チームのリーグ3位に貢献する活躍を見せた。
2.2. クラブ・ブルッヘ
ジェルミナル・エケレンでの活躍が評価され、1996年に当時のリーグ王者であったクラブ・ブルッヘに引き抜かれた。加入初年度の1996-97シーズンには、最終節でかつての恩師であるエリック・ゲレツ監督率いるリールセSKにタイトルを奪われ、惜しくも2位に終わった。しかし、翌1997-98シーズンには、再びゲレツ監督に率いられてキャリアで初のリーグ優勝を果たした。この時期、彼は合計118試合に出場し、1得点を記録している。また、1998年にはベルギー・スーパーカップも獲得した。
シーズン | リーグ戦出場 | リーグ戦得点 |
---|---|---|
1996-97 | 30 | 0 |
1997-98 | 32 | 1 |
1998-99 | 31 | 0 |
1999-00 | 25 | 0 |
通算 | 118 | 1 |
2.3. オリンピック・リヨン
2000年7月5日、ドフランドルは推定移籍金90.00 万 BEFから120.00 万 BEFで、フランス1部リーグのオリンピック・リヨンと4年契約を締結した。リヨンでは、クラブ史上初のリーグ優勝を含め、2001-02シーズン、2002-03シーズン、2003-04シーズンと3連覇達成に貢献し、最終的に7連覇へと続くクラブ黄金期の礎を築いた。2000-01シーズンにはクープ・ドゥ・ラ・リーグも獲得し、2003年にはトロフェ・デ・シャンピオンも獲得した。
一方で、UEFAチャンピオンズリーグ 2002-03のローゼンボリBK戦では、相手選手を引っ張り倒してペナルティーキックを与えてしまう場面もあったが、同試合ではピンポイントクロスでペギー・リュインドゥラの得点をアシストしている。リヨンでは、ポール・ル・グエン監督からの信頼をなかなか勝ち取ることができず、守備的なジャン=マルク・シャネレや本職がセンターバックのパトリック・ミュラーと右サイドバックのポジションを争った。リヨンでの最終年となった2003-04シーズンには、新加入のアントニー・レヴェイエールの存在によって定位置を脅かされ、レヴェイエールの前所属クラブであるスタッド・レンヌへの移籍も噂された。契約満了に伴い、このシーズン終了をもって退団を決意した。リヨンでの公式戦出場は合計91試合で、得点は記録されなかった。
シーズン | リーグ戦出場 | リーグ戦得点 |
---|---|---|
2000-01 | 29 | 0 |
2001-02 | 35 | 0 |
2002-03 | 26 | 0 |
2003-04 | 1 | 0 |
通算 | 91 | 0 |
2.4. スタンダール・リエージュ
2004年4月27日、ドフランドルはスタンダール・リエージュと2年間の延長オプション付き3年契約を締結し、ベルギーリーグに復帰した。加入初年度ながら、イヴィツァ・ドラグティノヴィッチの後任として主将を任され、すぐにチーム内で重要な地位を確立してチームを牽引した。しかし、同年12月のアスレティック・ビルバオとのUEFAカップ2004-05では、本拠地で1対7という大敗を経験した。
翌2005-06シーズンは、ミシェル・プロドーム新監督の意向により新加入のセルジオ・コンセイソンに主将の座を譲ったが、自身は副主将としてチームを支え続けた。チームはリーグ優勝目前まで迫ったが、最終節手前のKSVルーセラーレ戦で相手GKワウテル・ビーバウの奮闘により0対0の引き分けに抑えこまれたことで自力優勝の可能性が潰え、最終的に2位でシーズンを終えた。それまでの2シーズンは右サイドバックの主力としてプレーしていたものの、最終年の2006-07シーズンは開幕から3試合を先発した後、フレデリック・デュプレにポジションを奪われるなど、出場機会が減少した。シーズン終了に伴って満了となる契約は、当初2年間の延長オプションで一度は合意に達していたが、休暇後になると条件が1年間の延長に変更され、自身の望む給与と開きがあったため、退団を決意した。スタンダール・リエージュでは合計76試合に出場し、1得点を記録した。
シーズン | リーグ戦出場 | リーグ戦得点 |
---|---|---|
2004-05 | 32 | 0 |
2005-06 | 33 | 1 |
2006-07 | 11 | 0 |
通算 | 76 | 1 |
2.5. 晩年と引退
2007年6月14日、ドフランドルはFCブリュッセルと2年契約を締結した。右サイドバックで安定したプレーを見せていたが、ヨハン・ヴェルメルシュ会長とのビジョンの違いから、わずか半年後の2008年1月18日に同1部のFCVデンデルEHと1年半契約を結んだ。FCブリュッセルでは14試合に出場し、得点はなかった。
FCVデンデルEHでは、ブリュッセルと同様に降格の危機に瀕していたが、チームの雰囲気は良く、1部残留への意識が高かった。ヨハン・ボスカンプ監督に率いられてチームは1部残留を達成し、一方、前所属のFCブリュッセルは最下位で降格した。しかし、次の2008-09シーズンは、来季のチーム数が18から2チーム減らされる影響により、15位ながらも昇降格プレーオフに回った末に2部降格が決定した。FCVデンデルEHでは合計34試合に出場し、得点はなかった。
デンデルからは残留を慰留されていたものの、財政難により契約条件が下方修正されて提示されたため、ドフランドルはこれを受け入れることができず、退団した。当時在住していたリンブルフ州ランアーケンから遠方を拠点とするRFCトゥルネーやKSVルーセラーレからの接触も断り、最終的に2009年6月25日に2部リーグのリールセSKと1年契約を締結した。リールセでは、2部で優勝し1部昇格を果たしたが、年齢的な懸念から再契約を勝ち取ることはできなかった。リールセでは合計21試合に出場し、得点はなかった。
2010年8月9日、37歳となったドフランドルは、プロキャリアを開始した古巣のRFCリエージュに復帰した。2度目となったリエージュでは、かつての同僚クリストフ・キネットと再会し、主将として奮闘したが、チーム状況は好転しなかった。2011年1月14日には、クラブ首脳陣からセルジュ・キモイ監督の後任として、キネットと共に監督に任命された。キネットが監督となり、ドフランドル自身は選手を続けながらアシスタントコーチに就任したが、最終的にチームは3部リーグから4部リーグへ降格した。RFCリエージュでの2度目の在籍期間では、合計52試合に出場し、得点はなかった。
2012年5月16日、彼はスタンダール・リエージュのユース監督に就任することが決定し、監督業に専念するため、翌17日に選手としての公式な引退を発表した。
3. 代表経歴
エリック・ドフランドルは、長きにわたりベルギー代表として活躍し、主要な国際大会にも複数回出場した。
3.1. 代表デビューと主要な出場
ドフランドルは1996年12月、1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のオランダ代表戦(0対3で敗戦)でベルギー代表として先発出場し、代表デビューを飾った。その後、彼はレジス・ジュノー、ベルトラン・クラッソン、ジャッキー・ピータースらと右サイドバックのポジションを争いながら、代表での地位を確立していった。
特に、1998 FIFAワールドカップの初戦であるオランダ代表戦(0対0の引き分け)では、ベルトラン・クラッソンが相手のマルク・オーフェルマルスに苦戦していたため、前半20分過ぎにクラッソンに代わって途中出場した。
3.2. 主要国際大会
ドフランドルは、以下の主要な国際大会にベルギー代表として参加している。
- 1998 FIFAワールドカップ
- UEFA EURO 2000
- 2002 FIFAワールドカップ
UEFA EURO 2000では、グループリーグの3試合全てに先発出場した。トルコ代表戦では、GKのフィリップ・デ・ヴィルデがレッドカードにより退場すると、急遽GKを務めるという珍しい経験もしている。
2002 FIFAワールドカップでは、グループリーグのチュニジア代表戦で先発出場した。この大会でベルギー代表はFIFAフェアプレー賞を受賞している。
3.3. 代表出場記録
ドフランドルは、1996年から2005年までの期間で、ベルギー代表として合計57試合に出場し、得点は記録されていない。
年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|
1996 | 1 | 0 |
1997 | 2 | 0 |
1998 | 9 | 0 |
1999 | 6 | 0 |
2000 | 9 | 0 |
2001 | 8 | 0 |
2002 | 7 | 0 |
2003 | 6 | 0 |
2004 | 7 | 0 |
2005 | 2 | 0 |
通算 | 57 | 0 |
4. 引退後のキャリア
選手引退後、エリック・ドフランドルはサッカー指導者の道に進んだ。2012年5月16日には、自身が選手時代を過ごしたスタンダール・リエージュのユース監督に就任することが発表され、現役引退後は若手選手の育成に携わっている。
5. 栄誉
エリック・ドフランドルが選手キャリア中に獲得した主な栄誉は以下の通りである。
;クラブ
- クラブ・ブルッヘ
- ベルギーリーグ:1997-98
- ベルギー・スーパーカップ:1998
- オリンピック・リヨン
- リーグ・アン:2001-02、2002-03、2003-04
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ:2000-01
- トロフェ・デ・シャンピオン:2003
;ベルギー代表
- ベルギー
- FIFAワールドカップ フェアプレー賞:2002
6. 評価と遺産
エリック・ドフランドルは、その長きにわたるキャリアを通じて、ベルギーとフランスのサッカー界に足跡を残した。特に、オリンピック・リヨンにおける3連覇達成への貢献は、クラブの黄金期を築く上で不可欠なものであり、彼の堅実な右サイドバックとしてのプレーは高く評価された。また、ベルギー代表としての57試合出場という実績は、彼が国内でトップレベルの選手であったことを示している。引退後もスタンダール・リエージュのユース指導者として、次世代の選手育成に尽力しており、ベルギーサッカー界における彼の遺産は今後も受け継がれていくだろう。