1. 概要

オットー3世(Otto IIIオットー3世ドイツ語、1261年2月11日 - 1312年11月9日)は、ヴィッテルスバッハ家の一員として、1290年から1312年まで下バイエルン公を務め、また1305年から1307年にかけてはハンガリーおよびクロアチアの国王(Ottóオットーハンガリー語またはV. Bélaベーラ5世ハンガリー語)でもあった。彼のハンガリー王としての統治は、アンジュー=シチリア家のカーロイ・ロベルトによって異議を唱えられ、その地位は常に不安定であった。オットー3世は、オーストリアやハンガリーの複雑な政治情勢に深く関与した結果、バイエルンにおける自身の地位を弱体化させ、最終的には財政問題によってその統治は失敗に終わった。ハンガリー史においては、1301年から1310年までの空位時代における「対立王」として特筆される存在であり、その行動は当時の社会や政治に大きな混乱をもたらした。
2. 家系と出生
オットー3世は、1261年2月11日にブルクハウゼンで生まれた。父は下バイエルン公ハインリヒ13世、母はハンガリー王ベーラ4世の娘であるエリーザベトであった。この母方の血筋は、後にオットー3世がハンガリー王位を主張する上で重要な根拠となった。彼はヴィッテルスバッハ家の出身であり、その家系はバイエルンの有力な貴族として知られていた。
3. バイエルン公としての統治
1290年、オットー3世は父ハインリヒ13世の死後、弟のルートヴィヒ3世とシュテファン1世と共に下バイエルン公の地位を継承した。彼の統治期間中、オットー3世はハプスブルク家との対立を深めた。特に、1180年にバイエルンが失ったシュタイアーマルクの奪還を目指し、ローマ王アドルフを支援してハプスブルク家のアルブレヒト1世に対抗した。この対立は1298年のゲルハイムの戦いにも発展し、オットー3世もこの戦いに参加した。
しかし、オーストリアやハンガリーの情勢への過度な関与は、バイエルンにおける彼の地位を弱体化させる結果となった。特に、ハンガリー王位を巡る争いは多大な費用を要し、財政問題を引き起こした。彼のハンガリー滞在中の1305年から1308年の間、下バイエルンは弟シュテファン1世が統治していた。1310年には、ハプスブルク家との新たな戦争が勃発し、彼の出生地であるブルクハウゼンが壊滅的な被害を受けた。
オットー3世の死後、下バイエルン公位は彼の息子ハインリヒ15世、そして弟シュテファン1世の息子であるハインリヒ14世とオットー4世に継承された。最終的に、ハインリヒ14世の息子ヨハン1世が下バイエルン公の最後の統治者となり、1340年には神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世によってバイエルン公国が再統合された。
4. ハンガリーおよびクロアチア王としての統治
オットー3世のハンガリーおよびクロアチア王としての統治は、その即位から退位に至るまで、常に複雑な政治的対立と不安定さを伴った。彼はハンガリー王位の正当な継承者とされるカーロイ・ロベルトとの激しい争いを繰り広げ、その短い治世は混乱に満ちたものとなった。
4.1. ハンガリー王位継承の背景
1301年にアールパード朝の男系が断絶した後、ハンガリー王位は空位となり、複数の有力貴族が王位を主張する混乱期に入った。オットー3世は、母がハンガリー王ベーラ4世の娘であったことから、ハンガリー貴族によって王位継承の候補者として浮上した。彼は1301年にハンガリー王位の要請を受けたが、当初はこれを受諾しなかった。
しかし、1305年8月、オットー3世と対立していたボヘミア王ヴァーツラフ3世が、ハンガリーの領有権をオットー3世のために放棄したことで、彼の王位継承への道が開かれた。
4.2. 即位と統治
ハプスブルク家のアルブレヒト1世がオーストリアを通る道を妨害していたため、オットー3世は商人に変装して1305年11月にブダに到着した。そして、1305年12月6日にセーケシュフェヘールヴァールにおいて、ヴェスプレーム司教ベネディクト・ラドとチャナード司教アンタルによって聖イシュトヴァーンの王冠を戴冠され、ハンガリー王に即位した。
しかし、彼は自身の統治を強化することができなかった。1306年には、対立王であるアンジュー=シチリア家のカーロイ・ロベルトがエステルゴム、セペシュ城、ズヴォレン、その他王国北部のいくつかの要塞を次々と占領した。さらに翌1307年には、カーロイ・ロベルトはブダも占領し、オットー3世の支配領域は著しく縮小された。
4.3. 統治の終結
1307年6月、オットー3世は、当時のトランシルヴァニアの有力なヴォイヴォダであったカン・ラースローを訪問したが、カン・ラースローは彼を投獄した。この出来事は、オットー3世がハンガリー国内でいかに権力基盤を確立できていなかったかを明確に示した。
1307年10月10日、ラーコシュの議会に出席した有力者たちは、カーロイ・ロベルトをハンガリー王と宣言した。しかし、最も強力な貴族たち、すなわちチャク・マテ、アバ・アマデ、そしてカン・ラースローは、カーロイ・ロベルトの宣言を依然として無視し、ハンガリーの政治状況は依然として混沌としていた。
年末にカン・ラースローはオットー3世を釈放し、オットー3世はハンガリーを去った。しかし、カン・ラースローは聖イシュトヴァーンの王冠をカーロイ・ロベルトに引き渡すことを拒否し続けたため、王冠による戴冠式が行われない限り、カーロイ・ロベルトの王位の正当性は依然として疑問視される可能性があった。最終的に、オットー3世は1308年にハンガリー王位を退位した。彼のハンガリー王としての統治は、権力闘争と財政的負担によって特徴づけられ、ハンガリーの政治的安定に寄与することはなかった。
5. 結婚と子女
オットー3世は生涯で2度結婚し、子孫を残した。
最初の結婚は1279年1月で、ローマ王ルドルフ1世の娘であるカタリーナと結ばれた。この結婚から、1280年に双子の息子ハインリヒとルドルフが生まれたが、彼らは同年に夭折した。カタリーナ自身も1282年4月4日に死去したため、オットー3世はその後23年間、再婚することなく独身であった。
2度目の結婚は1309年5月18日で、グウォグフ公ヘンリク3世とブラウンシュヴァイク=リューネブルクのマティルデの娘であるアグネスと再婚した。この結婚により、彼らは2人の子供をもうけた。
- アグネス(1310年 - 1360年) - オルテンブルク伯ハインリヒ4世と結婚。
- ハインリヒ15世(1312年8月28日 - 1333年6月18日) - 父の死後、下バイエルン公を継承。
6. 死去
オットー3世は1312年11月9日にランツフートで死去した。彼の死は、バイエルンにおける彼の統治と、ハンガリー王位を巡る争いの終結を意味した。彼の晩年は、ハンガリーでの失敗とそれに伴う財政問題によって特徴づけられていた。
7. 評価と遺産
オットー3世の歴史的評価は、彼の治世の二つの側面、すなわちバイエルン公としての役割とハンガリー王としての短い期間に焦点を当てて行われる。ハンガリー史においては、彼は1301年から1310年の空位時代における「対立王」として位置づけられている。これは、彼の王位がカーロイ・ロベルトによって常に異議を唱えられ、国内の有力貴族の支持を完全に得られなかったことに起因する。彼のハンガリーでの統治は、王権の強化に失敗し、むしろ国内の混乱を助長したと評価される。
また、オットー3世がオーストリアやハンガリーの情勢に深く関与したことは、結果としてバイエルンにおける彼の地位を弱体化させた。特に、ハンガリー王位を巡る莫大な費用は、下バイエルン公国の財政に深刻な負担をかけ、彼の統治の失敗の主要な原因の一つとなった。1310年のハプスブルク家との戦争によるブルクハウゼンの壊滅は、彼の政策が地域社会に与えた負の影響を象徴している。
総じて、オットー3世の統治は、その野心にもかかわらず、不安定な政治状況と財政的困難に直面し、結果として彼の支配領域に混乱と負担をもたらしたと見なされている。彼の行動は、当時の神聖ローマ帝国と東欧における複雑な権力闘争の一例として、歴史にその名を刻んでいる。