1. 生涯
カリベルト1世は、メロヴィング朝の王として、フランク王国の歴史において重要な時期に生きた。彼の生涯は、王国の政治的変遷と、彼自身の複雑な家族関係によって形作られた。
1.1. 出生と経歴
カリベルト1世は、517年から521年頃に、フランク王クロタール1世と最初の妻イングントの間に生まれた。彼はクロタール1世の次男であったが、兄のグンタールが父の死以前に亡くなったため、実質的には長男としての地位を担うことになった。
彼の父クロタール1世は、フランク王国を再統一した強力な王であった。カリベルト1世は、父の存命中に軍事活動に参加し、王国の政治に深く関与した。
1.2. 家族
カリベルト1世はインゴベルガと結婚し、少なくとも以下の子供たちをもうけた。
- ブリティルデ(538年 - 603年):ガロ・ローマの元老院議員アンスベルトゥスと結婚した可能性がある。
- クロドベルトゥス(595年没)
- ベルタ:ケント王国のエゼルベルト王と結婚。
- クリトリス(541年 - 569年)
- クロタール(542年没)
カリベルト1世は、インゴベルガの他にも、複数の女性と関係を持った。彼は同時に4人の妻を持っていたとされ、その中には姉妹であるメリフレダとマルコヴェファも含まれていた。メリフレダとの間には、トゥールで修道女となったベルテフェルドと、ポワティエのサント=クロワ修道院の修道女となったクロティルデという2人の娘がいた。また、テウデギルダという女性との間には、乳児期に亡くなった息子が1人いた。
彼の兄弟姉妹には、以下の者がいる。
- グンタール(長兄、クロタール1世の死以前に死去)
- グントラム(弟)
- シギベルト1世(弟)
- キルペリク1世(異母弟)
- クロトジンド(妹)
- クラム(異母弟)
- グンドバルド(異母弟、庶子)
2. 統治と領土
カリベルト1世の統治は、フランク王国の分割という重要な政治的転換期に位置していた。彼の領土は、父クロタール1世の死後、兄弟たちとの間で再編された結果として確立された。
2.1. フランク王国の分割
561年に父クロタール1世が死去した後、フランク王国は彼の息子たちの間で分割された。この分割は、地理的に連続した領域ではなく、それぞれが異なる地域からなる複数の飛び地を持つ、新たな構成で行われた。各王国の名称は、その王が統治の拠点とした都市にちなんで名付けられた。
カリベルト1世は、かつてキルデベルト1世が統治していた旧王国を受け継ぎ、その首都はパリに置かれた。
2.2. パリ王国
カリベルト1世が統治したパリ王国は、フランク王国の西部地域に広がる広大な領土を含んでいた。主要な領土は、ソンム川とロワール川の間の地域であるネウストリア、アキテーヌ、そしてノウェンポプラナであった。
彼の首都はパリであったが、他にも多くの重要な都市を支配下に置いていた。主な都市には、ルーアン、トゥール、ポワティエ、リモージュ、ボルドー、トゥールーズ、カーオール、アルビなどがある。
兄弟たちはそれぞれ以下の領土を受け継いだ。
- グントラム:ブルグンディア
- シギベルト1世:アウストラシア(ランスを含む)、首都はメス
- キルペリク1世:ソワソンを首都とする小規模な王国
3. 主な活動
カリベルト1世の統治期間中、いくつかの重要な出来事が発生した。これらは彼の軍事的経歴と、娘ベルタを介したフランク王国とイングランドの間の文化交流に焦点を当てている。
3.1. 軍事活動
556年、カリベルト1世は父クロタール1世の命により、弟のグントラムと共に、継母のフンナと異母弟のクラムが起こした反乱の鎮圧に向かった。クラムはリムーザン地方の黒山に潜伏しながら交渉を続けていた。
交渉が決裂し、両軍が戦闘準備を進める中、激しい雷雨が両軍の衝突を妨げた。この混乱に乗じて、クラムはカリベルト1世とグントラムに対し、父クロタール1世が死去したという偽の手紙を送った。この偽報を受け取った兄弟は、直ちに自らの地位を確保するためブルグンディアへ引き返した。この出来事は、カリベルト1世が父の王権の下で軍事的な役割を担っていたことを示している。
3.2. 娘ベルタの影響力
カリベルト1世の娘ベルタは、ケント王国の異教徒の王エゼルベルトと結婚した。ベルタは、自身の私的な告解者としてリュドハルドゥス司教を伴ってケントへ渡った。
597年、カンタベリーのアウグスティヌスによる宣教団がケントに到着した際、ベルタはケント宮廷において重要な影響力を行使した。彼女の存在とキリスト教信仰が、エゼルベルト王を含む最初のアングロ・サクソン人支配者がキリスト教に改宗する上で決定的な役割を果たした。この出来事は、イングランドにおけるキリスト教化の始まりを告げるものであり、フランク王国とアングロ・サクソン諸国との間の文化的・宗教的交流の重要な一例となった。
4. 私生活と人物像
カリベルト1世の私生活は、同時代の年代記作家によって、その複雑な結婚関係と放蕩な性格が特筆されている。これにより、彼は宗教的権威との深刻な対立を招くことになった。
4.1. 結婚と子女

カリベルト1世は、その治世中に複数の女性と同時に結婚関係にあったことで知られている。彼は4人の妻を同時に持ち、そのうちの2人は姉妹であったと記録されている。このような複雑な結婚関係は、当時の教会法に反するものであった。
彼の妻や愛妾たちと、その間に生まれた子供たちは以下の通りである。
- インゴベルガ:彼の主要な妻であり、娘ベルタ、ブリティルデ、クロドベルトゥス、クリトリス、クロタールをもうけた。
- メリフレダ:羊毛織り職人の娘。彼女との間に、トゥールの修道女となったベルテフェルドと、ポワティエのサント=クロワ修道院の修道女となったクロティルデという2人の娘がいた。
- マルコヴェファ:メリフレダの姉妹。
- テウデギルダ:牛飼いの娘。彼女との間に、乳児期に亡くなった息子が1人いた。
4.2. 人物評と宗教問題
トゥールのグレゴリウスは、その著書『フランク史』の中で、カリベルト1世を初期のメロヴィング朝の王たちの中で最も放蕩な人物の一人として描写している。グレゴリウスの記述によれば、カリベルト1世は雄弁で法律に精通していたものの、その私生活は極めて乱れていた。
特に、彼が同時に複数の妻を持ち、その中には姉妹が含まれていたことは、当時の教会にとって許容できない行為であった。この結果、カリベルト1世はパリのゲルマヌス司教によって破門された。これは、メロヴィング朝の王が破門された史上初の事例であり、当時の王権と教会権力の関係において画期的な出来事であった。この破門は、彼の統治における重大な汚点となり、その後の彼の死と埋葬にも影響を与えた。
5. 死と埋葬
カリベルト1世の死は、彼の統治と私生活の終焉を告げるものであり、その埋葬は彼の行動に対する同時代の評価を反映していた。
5.1. 死と埋葬
カリベルト1世は567年12月に死去した。彼の死後、その埋葬は名誉を欠いたものとなった。彼はアルモリカ地方の要塞であるブラヴィア・カステッルムに埋葬された。これは、彼の放蕩な私生活と、それによってパリのゲルマヌス司教から破門されたという事実が影響しているとされる。メロヴィング朝の王としては初の破門であり、彼の葬儀が通常とは異なる形で行われたことを示唆している。
6. 遺産と評価
カリベルト1世の死は、フランク王国の政治地図に再び変化をもたらし、彼の生涯は後世の歴史家によって様々な評価を受けている。
6.1. 領土の分割
カリベルト1世の死後、彼のパリ王国は、残された兄弟であるシギベルト1世、グントラム、キルペリク1世の間で分割された。当初、兄弟たちはパリを共同で支配することに同意した。
彼の生存していた妻の一人であるテウデギルダは、グントラムとの結婚を提案したが、557年にパリで開催された教会会議では、そのような近親相姦は禁じられていた。そのため、グントラムは不本意ながらも、テウデギルダをアルルの修道院に安全に収容することを決定した。カリベルト1世の庶子であるエノーのカリベルトは、この分割において何も受け継ぐことはなかった。
6.2. 歴史的評価
カリベルト1世の生涯と統治に関する主要な史料は、トゥールのグレゴリウスによる『フランク史』(第4巻3, 16, 22, 26章、第9巻26章)である。また、イングランドの視点からはベーダ・ヴェネラビリスの『イングランド教会史』にも言及がある。
グレゴリウスは、カリベルト1世が雄弁で法律に精通していたと評価する一方で、彼を初期のメロヴィング朝の王の中で最も放蕩な人物の一人として描写している。特に、彼が同時に4人の妻を持ち、そのうち2人が姉妹であったという事実は、当時の社会と教会の規範から逸脱しており、パリのゲルマヌス司教による破門という結果を招いた。この破門は、メロヴィング朝の王としては初の事例であり、彼の治世における重要な出来事として記憶されている。
総じて、カリベルト1世は政治的にはフランク王国の分割期にパリ王国を治め、娘ベルタを通じてイングランドのキリスト教化に間接的に貢献したものの、その私生活における放蕩さと、それによる宗教的権威との対立が、彼の歴史的評価において大きな部分を占めている。