1. 生涯
カルロ2世の短い生涯は、サヴォイア公国の歴史において重要な転換点となった。
1.1. 出生と家族
カルロ2世は1489年6月23日にピエモンテのトリノで生まれた。父はサヴォイア公カルロ1世、母はビアンカ・ディ・モンフェッラートである。彼は父の唯一の男子として、サヴォイア公位の正当な後継者であった。
1.2. 幼少期と摂政
1490年に父カルロ1世が早世したため、カルロ2世はわずか2歳でサヴォイア公位を継承した。しかし、その幼さゆえに、公国の実質的な統治は母であるビアンカ・ディ・モンフェッラートが摂政として行った。ビアンカは、幼い息子に代わって公国の政治を担い、外交政策を主導した。
2. 治世と主な出来事
カルロ2世の治世は名目的なものであったが、この時期にはサヴォイア公国を取り巻く国際情勢が大きく変動した。
2.1. サヴォイア公としての治世
カルロ2世は1490年から1496年までサヴォイア公の座にあった。しかし、彼の治世は幼年期と重なるため、公国の政策決定や統治に直接関与することはなかった。公国の運営は全て母ビアンカ・ディ・モンフェッラートの摂政政府によって行われた。彼はピエモンテ公、アオスタ伯、モーリエンヌ伯、ニース伯の称号も保持していた。
2.2. 相続された王位継承権
カルロ2世は父カルロ1世から、エルサレム、キプロス、そしてアルメニアの王位継承権を相続した。これらの継承権は、カルロ1世が1485年に獲得したものであり、サヴォイア家が地中海東部の歴史的な王国に対して持つ、名目上ではあるが重要な主張であった。これらの継承権は、彼の短い治世の間にサヴォイア家の国際的な地位を高める一因となった。
2.3. 当時の時代背景と事件
カルロ2世の治世中、フランスのシャルル8世がイタリア戦争を開始し、1494年にイタリアに侵攻してナポリを征服した。この際、サヴォイア公国はビアンカ・ディ・モンフェッラートの摂政下でフランス軍の公国通過を許可した。この決定は、当時のサヴォイア公国が直面していた複雑な国際政治状況と、強大な隣国フランスとの関係を反映している。
3. 死去
カルロ2世は1496年4月16日にモンカリエーリで、ベッドから落ちるという事故により、わずか7歳(または8歳)で死去した。彼の突然の死は、サヴォイア公国の継承問題に大きな影響を与えた。
4. 相続
カルロ2世の死により、アメデーオ9世に始まるサヴォイア家の男系血統は断絶した。これにより、公爵位は彼の父カルロ1世の叔父にあたるフィリッポ2世(カルロ2世の大叔父)が継承した。フィリッポ2世はサヴォイア家の男系後継者であった。
一方、カルロ2世の一般的な法定相続人は、彼の幼い妹であるヴィオランテ・ルイーザであった。ヴィオランテ・ルイーザはフィリッポ2世の長男であるフィリベルト美男公と結婚していた。しかし、ヴィオランテ・ルイーザも1499年に12歳で子供を残さずに死去したため、フィリベルト(1497年に父の死後公爵位を継承)は若くして寡夫となった。
カルロ2世とヴィオランテ・ルイーザの次の一般的な法定相続人は、彼らの従姉妹にあたるナポリのシャルロット王女(アンナ・ディ・サヴォイアの娘)であった。シャルロットは後にラヴァル伯ニコラ・ギー・ド・モンフォール(ギー16世)と結婚した。彼らの女系子孫はエルサレム王国の継承権を主張したが、キプロス、エルサレム、アルメニアの王位継承権(およびルネ・ダンジューの権利)は、法的には男系継承者であるフィリッポ2世の系統ではなく、一般的な法定相続人の系統に属するとされた。
5. 評価
カルロ2世はわずか7年間の短い生涯と、名目的な治世であったため、彼自身の政治的功績はほとんど存在しない。しかし、彼の存在と早世は、サヴォイア公国の歴史、特に公爵位の継承と、エルサレム、キプロス、アルメニアといった名目的な王位継承権の行方に大きな影響を与えた。彼の死によってアメデーオ9世の男系血統が途絶え、サヴォイア家の主権が傍系に移ったことは、その後の公国の政治的安定と国際関係に少なからぬ影響を与えたと言える。