1. 生い立ちと背景
クルト・ゲオルク・キージンガーは、政治家としてのキャリアを始める以前に、法律家としての道を歩んだ。
1.1. 出生と家族
キージンガーは1904年4月6日、ドイツ帝国ヴュルテンベルク王国のエービンゲン(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州アルプシュタット)に生まれた。父は地元の繊維産業に従事する商業事務員で、プロテスタントであった。しかし、生後6ヶ月で亡くなった母がカトリックであったため、キージンガーはカトリックの洗礼を受けた。母方の祖母は彼に強い影響を与え、その成長を励ましたが、父は彼の出世に無関心であったという。父はキージンガーが1歳の時にカロリーネ・ヴィクトリア・プファフと再婚した。プファフもカトリック教徒であり、キージンガーは両方の宗派の影響を受けて育ち、後に自らを「プロテスタント・カトリック」と称した。異母姉のマリアを含む7人の異母兄弟がいたが、マリアは生後1年で亡くなった。
1.2. 教育と初期の職業
キージンガーは自由主義的で民主主義的な環境で育ち、少年時代は詩に傾倒し、詩人になることを夢見ていた。1919年9月には王立ヴュルテンベルク師範学校に進学し、在学中は家計を助けるため工場でも働いた。その後、テュービンゲン大学とベルリン大学で法学を学んだ。1930年に第一次法律国家試験を、1933年に第二次法律国家試験に合格し、ベルリンで弁護士として活動を開始した。また、大学で法律講師も兼任していた。
2. ナチ党への加盟と戦時中の活動
キージンガーのナチス政権下での活動は、彼の政治キャリア全体に影を落とし、戦後のドイツにおける歴史認識と民主主義の課題を浮き彫りにした。
2.1. ナチ党への加盟
キージンガーは1933年2月、アドルフ・ヒトラーが首相に就任した数週間後にナチ党に入党した(党員番号2633930)。彼自身は、ナチ党内の穏健なキリスト教徒と接触し、党の急進的な路線を阻止するために加わったと述べている。しかし、彼は党員としてはほとんど活動的ではなかったともされる。
2.2. 外務省およびプロパガンダ活動
第二次世界大戦が勃発し、1940年に軍への召集令状を受けたキージンガーは、兵役を避けるためにドイツ外務省の放送政策部門に職を得た。彼は急速に昇進し、1943年から1945年にかけて同部門の副責任者となり、宣伝省との連絡係も務めた。この職務の性質上、彼は外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップや宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスといったナチス高官と密接な関係を持った。
ジャーナリストのベアテ・クラルスフェルトは、キージンガーが反ユダヤ主義的および戦争プロパガンダを含むドイツの国際放送の内容に主要な責任を負い、親衛隊の幹部であったフランツ・ジックス(ナチス占領下の東ヨーロッパで大量殺戮に関与し、ニュルンベルク継続裁判で戦争犯罪人として裁かれた)らと緊密に協力していたと主張した。彼女は、キージンガーがホロコーストの事実を知った後も反ユダヤ主義的なプロパガンダを制作し続けたと述べた。これらの疑惑は、東ドイツのSED幹部アルベルト・ノルデンが発表した戦争犯罪人に関する資料に基づいている。
一方で、1966年に公開された親衛隊の文書や国家保安本部の記録には、キージンガーが外務省の放送部門内で反ユダヤ主義的な活動を妨害していたことが示されているという証言もある。彼は、1940年の国防軍による徴兵を避けるために外務省に入省したことは認めているものの、1933年のナチ党入党が日和見主義的であったことは明確に否定している。
2.3. 戦後の抑留と非ナチ化
1945年4月末、キージンガーはアメリカ軍によって政治犯として拘留され、ルートヴィヒスブルクの収容所で18ヶ月間を過ごした。彼は1946年に釈放され、ヴュルツブルク大学法学部で教鞭を執った。1947年の非ナチ化法廷では、ナチ党の「消極的同調者」と判断され、無罪となった。
3. 初期政治キャリア
戦後、キージンガーはキリスト教民主同盟に加わり、連邦議会でその弁舌の才を発揮した。
3.1. キリスト教民主同盟(CDU)への加盟
1946年、キージンガーはキリスト教民主同盟(CDU)に入党した。この頃、彼は法学部の学生に個人指導を行い、1948年には弁護士としての活動を再開した。同年、ヴュルテンベルク=ホーエンツォレルン州CDUの無給事務局長に就任した。
3.2. 連邦議会での活動

1949年の第1回ドイツ連邦議会選挙で、キージンガーはラーベンスブルク選挙区から立候補し、70パーセントを超える得票率で当選した。これは当時の最高記録の一つであった。彼は1958年まで連邦議会議員を務め、その後1969年から1980年まで再び議員となった(1969年からはヴァルトフート選挙区、1976年からはバーデン=ヴュルテンベルク州の比例代表リストで当選)。
1951年にはCDUの執行役員に就任し、1954年から1959年まで連邦議会外交委員会の委員長を務めた。また、1956年から1958年まで欧州議会議員を、1955年から1959年まで欧州評議会副議長を兼任した。
この時期、彼はその卓越した弁論術と外交問題に関する深い知識で知られるようになり、「首席銀舌」(Häuptling Silberzungeドイツ語)と称された。しかし、CDUの重鎮であり、党内で高い評価を得ていたにもかかわらず、度重なる内閣改造で閣僚ポストを与えられなかったことに不満を抱き、連邦政治から州政治への転身を決意した。
4. バーデン=ヴュルテンベルク州首相
キージンガーはバーデン=ヴュルテンベルク州首相として、州の安定と発展に貢献した。
4.1. 在任期間と主な業績
キージンガーは1958年12月17日にバーデン=ヴュルテンベルク州の州首相に就任し、1966年12月1日までその職を務めた。この間、彼は州議会議員も兼任していた。州首相在任中、彼は1952年に設立されたばかりの同州の安定化に尽力し、コンスタンツ大学(1966年)とウルム大学(1967年)という2つの大学を新設した。
その他の主要な業績として、州内の完全雇用を達成し、住民の生活水準向上と療養施設の拡充に力を入れた。また、ボーデン湖の水質問題にも積極的に取り組んだ。1962年11月1日から1963年10月31日までは、連邦参議院議長も務めた。
4.2. 連立政権
ドイツ連邦共和国の初期には、州レベルで大規模な連立政権が珍しくなかった。キージンガーは当初、1960年までCDU、SPD、FDP/DVP(自由民主党)、およびBHE(全ドイツブロック/追放者・権利剥奪者連盟)からなる連立を率いた。しかし、BHEが1961年4月15日に解散した後、1960年から1966年まではCDUとFDPの連立政権を主導した。
5. 連邦首相就任(1966年 - 1969年)
キージンガーの連邦首相在任期間は、西ドイツが経済的課題に直面し、政治的安定が求められる中で、彼がナチ党員であった過去が常に論争の的となった時代であった。
5.1. 大連立の形成

キージンガーが首相に就任する直前のルートヴィヒ・エアハルト政権末期、西ドイツ経済は停滞し、1967年のGNPは前年比で0.3%減少し、失業者数は1966年末に50万人を超え、1967年2月には67万人に急増するなど、国家財政は赤字に陥っていた。また、極右政党であるドイツ国家民主党が1966年11月のヘッセン州議会選挙で7.9%、バイエルン州議会選挙で7.4%の議席を獲得するなど、社会不安が増大していた。
1966年、既存のキリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)と自由民主党(FDP)の連立内閣が崩壊すると、キージンガーはライナー・バルツェル幹事長やゲアハルト・シュレーダー外相との党内での決選投票を制し、ルートヴィヒ・エアハルトに代わる新首相候補となった。彼は社会民主党(SPD)との交渉に成功し、ヴィリー・ブラントを副首相兼外相とする新たな大連立政権を樹立した。首相指名選挙では、SPDからの造反があったにもかかわらず、連邦議会の全議席の3分の2以上の支持を得て、戦後の首相指名投票では最高記録を樹立した。
しかし、ナチ党で働いた経歴を持つキージンガーの首相就任は、大きな拒否反応を呼んだ。作家のハインリヒ・ベルやギュンター・グラスは彼を痛烈に批判し、グラスは1966年にキージンガーに首相職を引き受けないよう求める公開書簡を書いた。哲学者カール・ヤスパースは、これに抗議してスイスに国籍を変更した。イギリスの歴史家トニー・ジャットは、キージンガーの首相職は、ハインリヒ・リュプケの大統領職と同様に、彼らの過去のナチスへの忠誠心から「ボン(かつての西ドイツ時代の首都はボンに置かれていたためこう呼称される)共和国の自己イメージの明白な矛盾」を示していると指摘した。
5.2. 国内政策
キージンガー政権下では、経済の安定化と社会改革が進められた。1967年6月には、連邦政府が景気後退時や景気過熱時に介入することを目的とした経済安定成長法を制定した。経済大臣を務めたカール・シラーは、政府による公共投資拡大を実施し、景気回復を実現させた。
社会政策では、1967年に義務的加入の所得上限を撤廃することで年金保障を拡充した。教育分野では、学生助成金制度が導入され、大学建設プログラムが推進された。1969年の憲法改正により、連邦政府は共同計画委員会を通じて州(Länder)と協力して教育計画に関与する権限を与えられた。職業訓練に関する法律も導入され、失業保険の再編により、再訓練制度、カウンセリング・助言サービス、雇用創出の場が促進された。また、1969年の「賃金継続支払い法」(Lohnfortzahlunggesetzドイツ語)により、雇用主は病気による最初の6週間の従業員の賃金を全額支払う義務を負うことになった。1969年8月には、特定の基準で不採算と判断された農場を譲渡する意思のある農家に対し、より高い特別年金(Landabgaberenteドイツ語)が導入された。
キージンガーは司法改革にも取り組み、離婚の男女平等、非嫡出子の法的権利の嫡出子と同等化、同性愛の合法化といった改革を行った。
5.3. 外交政策
キージンガー政権は、ヴィリー・ブラント副首相兼外相の主導により、東方外交を展開し、ソ連圏諸国との緊張緩和に努めた。チェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアと外交関係を樹立した。しかし、プラハの春の鎮圧後、キージンガーは東側諸国との外交関係改善には慎重な姿勢を示した。
5.4. 在任中の論争

キージンガーの首相在任中、最も有名な出来事の一つは、1968年11月7日にベルリンで開催されたCDU党大会で起きた「キージンガー平手打ち事件」である。ナチ・ハンターのベアテ・クラルスフェルトは、夫のセルジュ・クラルスフェルトと共にナチス犯罪者の撲滅運動を展開しており、この大会で公然とキージンガーの顔を平手打ちし、「このナチ」(Nazi!フランス語)と罵倒した。彼女はフランス語でそう叫んだ後、案内係に部屋から引きずり出されながらも、ドイツ語で「キージンガー!ナチ!退陣せよ!」(Kiesinger! Nazi! Abtreten!ドイツ語)と繰り返した。キージンガーは左頬を押さえながら、何も答えなかった。彼は生涯にわたってこの事件についてコメントを拒否し、他の機会には1933年のナチ党入党が日和見主義的であったことを明確に否定した。ベアテ・クラルスフェルトは当初、執行猶予なしの1年の懲役刑を言い渡されたが、後に執行猶予付きの4か月に減刑された。
クラルスフェルトは、キージンガーがリッベントロップやゲッベルスと密接な関係にあり、反ユダヤ主義や戦争プロパガンダを含むドイツの国際放送の内容を主に担当し、親衛隊幹部のゲルハルト・リューレやフランツ・ジックスと密接に協力していたと主張した。特にフランツ・ジックスはナチス占領下の東ヨーロッパで大量殺戮に関与し、ニュルンベルク継続裁判で戦争犯罪人として裁かれた人物である。彼女は、キージンガーがホロコーストを知った後も反ユダヤ的なプロパガンダを作り続けていたと述べた。
また、この時代には西ドイツ学生運動が盛り上がり、キージンガー政権は1968年5月末に非常事態法を可決させた。
5.5. 首相職の終焉
1969年の連邦議会選挙後、躍進したSPDは第一党であるCDUとの連立を解消し、新たに自由民主党(FDP)と連立を組んで過半数を確保した。これにより、キージンガーはヴィリー・ブラントと首相を交代し、戦後一貫して続いてきたCDU/CSU政権は中断することになった。CDU/CSUが与党に復帰するには、この後13年間待たねばならなかった。キージンガーは、これまでのCDUの首相の中では在任期間が最も短い。
6. 後年の政治活動
首相退任後もキージンガーは政界に留まり、野党指導者として活動した。
6.1. 野党指導者としての活動
首相退任後、キージンガーは1971年6月までキリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)を率いる野党指導者としての役割を担った。彼は1971年7月にはライナー・バルツェルにCDU党首の座を譲った。
1972年、彼は連邦議会でCDU/CSU議員団がヴィリー・ブラントに対して行った建設的内閣不信任決議の正当性を主張する主要な演説を行った。しかし、当時のCDU党首であったバルツェルを首相に就任させるためのこの試みは、東ドイツのシュタージから賄賂を受け取ったとされる同党所属のユリウス・シュタイナーと、おそらくレオ・ワーグナーが投票を棄権したため、失敗に終わった。
6.2. 回顧録の執筆
1980年に連邦議会議員を引退し、政治家としてのキャリアを終えた後、キージンガーは回顧録の執筆に取り掛かった。彼は8期にわたって連邦議会議員を務め、その雄弁さから「銀の舌をもつ首長」と称されていた。
彼が計画した回顧録のうち、1958年までの出来事を記した第一部「暗黒の時代と輝ける時代」(Dunkle und helle Jahreドイツ語)のみが完成し、彼の死後の1989年に出版された。
7. 死去と評価
キージンガーの死去とその後の評価は、彼のナチス過去とドイツの歴史的総括を巡る継続的な論争を反映している。
7.1. 死去と葬儀

クルト・ゲオルク・キージンガーは1988年3月9日、84歳の誕生日を4週間後に控えて、バーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン近郊の自宅で死去した。シュトゥットガルトの聖エーベルハルト教会で鎮魂ミサが行われた後、彼の葬列には、彼のナチ党員としての過去を記憶するよう求める抗議者たち(主に学生)が続いた。
7.2. 歴史的評価と論争
キージンガーの首相就任は、戦後の西ドイツが第三帝国の過去を十分に清算できていない実例として、現在に至るまで左翼(例えばグレゴール・ギジなど)からの攻撃の対象となっている。彼の経歴は、ドイツの民主主義の発展と、記憶政治(過去の歴史をどのように記憶し、扱うか)における課題を象徴するものであった。
彼のナチス過去を巡る論争は、ドイツ社会が過去とどのように向き合うべきかという問いを常に投げかけ続けた。彼の首相在任は、和解と進歩の時代であった一方で、過去の影が色濃く残る時代でもあったと評価されている。
7.3. 影響力
キージンガーは、その弁論術と政治的手腕により、大連立政権という困難な政治状況を約3年間維持し、経済の安定化や社会改革、東方外交の基礎を築いた。しかし、彼の最大の「影響力」は、そのナチス過去がドイツ社会に与えた影響、特に歴史的総括のプロセスにおける継続的な議論と批判の対象となった点にあると言える。彼の存在は、ドイツが民主主義国家として過去を乗り越えようとする中で、常に直面する課題を浮き彫りにした。
8. 私生活
キージンガーは1932年にマリー=ルイーゼ・シュナイダーと結婚し、二人の子供に恵まれた。
9. 著作
クルト・ゲオルク・キージンガーは、政治活動の傍ら、複数の書籍を執筆している。
- 『シュヴァーベンの幼年時代』(Schwäbische Kindheitドイツ語) - 1964年、ヴンダーリッヒ出版、テュービンゲン
- 『全体についての思想。演説と考察』(Ideen vom Ganzen. Reden und Betrachtungenドイツ語) - 1964年、ヴンダーリッヒ出版、テュービンゲン
- 『駅 1949-1969』(Stationen 1949-1969ドイツ語) - 1969年、ヴンダーリッヒ出版、テュービンゲン
- 『現代における議会人の立場』(Die Stellung des Parlamentariers in unserer Zeitドイツ語) - 1981年、シュトゥットガルト
- 『暗黒の時代と輝ける時代:回顧録 1904-1958』(Dunkle und helle Jahre: Erinnerungen 1904-1958ドイツ語) - 1989年、ドイツ出版社、シュトゥットガルト(死後出版)