1. 背景
グランヴィル・ルーソン=ゴアの出自と初期の教育は、その後の政治家としてのキャリアの基盤を形成した。
1.1. 家系と出生
グランヴィル・ルーソン=ゴアは1721年8月4日に、第2代ゴア男爵(後に初代ゴア伯爵となる)ジョン・ルーソン=ゴアとその先妻レディ・イヴェリン・ピアポントの長男として生まれた。母イヴェリンは初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポントの娘にあたる。また、母方の祖父母は初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポントと、その最初の妻レディ・メアリー・フィールディングである。メアリーは第3代デンビー伯爵ウィリアム・フィールディングとメアリー・キングの娘であった。彼の父は著名なトーリー党の政治家であり、ジョージ1世の即位以来、初めて政府に入閣した主要なトーリー党員の一人として、1742年にジョン・カータレットの政権に参加している。
1.2. 教育
ルーソン=ゴアはウェストミンスター・スクールで教育を受け、その後オックスフォード大学のクライスト・チャーチに進学した。これらの学術的背景が、彼の政治的形成期に大きな影響を与えたと考えられる。
2. 初期キャリアと政界進出
グランヴィル・ルーソン=ゴアは、若くして庶民院議員となり、その後の長期にわたる政治キャリアの第一歩を踏み出した。
2.1. 議会での活動
ルーソン=ゴアは1744年12月にビショップズ・キャッスル選挙区の補欠選挙で庶民院議員に初当選し、政界入りを果たした。1746年に兄が死去したことで、父がゴア伯爵に叙された際に与えられた儀礼称号であるトレンタム子爵として知られるようになった。1747年の総選挙からはウェストミンスター選挙区に鞍替えして当選し、1754年4月の総選挙ではリッチフィールド選挙区から当選を続けた。同年12月25日に父が死去すると、彼はゴア伯爵位を継承し、貴族院へ移籍した。
2.2. 初期政治的関係
ルーソン=ゴアは、父が著名なトーリー党の政治家であったにもかかわらず、義理の兄弟である第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルの派閥、通称「ブルームズベリー・ギャング」(ホイッグ党の一派)と関係が深かった。この派閥の一員として、彼は多くの政府要職を与えられた。1755年1月にはスタッフォードシャー知事およびスタッフォードシャー首席治安判事に就任し、さらに同年12月にはベッドフォード公爵の縁故を頼って王璽尚書に就任するとともに、枢密顧問官に列せられた。
3. 主要な公職と政治活動
グランヴィル・ルーソン=ゴアは、長期間にわたりイギリス政界の要職を歴任し、その政治的判断は当時の重要な出来事に深く関わった。
3.1. 内閣と主要公職
ルーソン=ゴアは、その政治キャリアの中で数々の主要な内閣職を務めた。
役職 | 任期 | 内閣 |
---|---|---|
王璽尚書 | 1755年12月 - 1757年6月 | 第1次ニューカッスル公内閣、デヴォンシャー公内閣 |
主馬頭 | 1757年6月 - 1760年11月 | 大ピット内閣 |
衣服保管長官 | 1760年11月 - 1763年4月 | 大ピット内閣 |
宮内長官 | 1763年4月 - 1765年7月 | ジョージ・グレンヴィル内閣 |
枢密院議長 | 1767年12月22日 - 1779年11月24日 | グラフトン公内閣、ノース卿内閣 |
枢密院議長 | 1783年12月19日 - 1784年12月1日 | 小ピット内閣 |
王璽尚書 | 1784年11月 - 1794年7月 | 小ピット内閣 |
3.2. 政治的立場と政策への関与
1765年7月、ホイッグ党革新派の領袖である第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースが首相となったことにより、ルーソン=ゴアは宮内長官を辞任に追いやられた。1766年8月には首相である初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット(大ピット)から海軍大臣としての入閣を求められたが、これを拒否した。しかし、1767年12月には第一大蔵卿の第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイの求めに応じる形で枢密院議長に就任し、以降10年以上にわたりこの職に在任した。1771年2月にはガーター勲章を受勲している。
1771年にベッドフォード公爵が死去すると、ルーソン=ゴアは「ブルームズベリー・ギャング」の指導者となった。ノース卿政権下で枢密院議長を務めていた彼は、アメリカ独立戦争においては当初、アメリカ植民地に対する強硬な政策の主要な支持者であった。しかし、1779年までには、ノース政権の戦争処理の拙さに不満を抱き、枢密院議長を辞職してノース卿内閣から離脱した。
1782年3月にノース卿内閣が崩壊した際、国王ジョージ3世から組閣を打診されたが、彼は組閣のためには野党ロッキンガム侯爵派の協力が不可欠であり、自身ではそれを得ることが不可能と判断して拝辞した。1783年3月の第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティ内閣の崩壊後も組閣の打診を受けたが、やはり辞退している。
しかし、ルーソン=ゴアはフォックス=ノース連合内閣の崩壊をもたらす上で重要な役割を果たし、その功績が認められ、小ピットの新政権で再び枢密院議長の職を与えられた。その後、この職を王璽尚書と交換し、徐々に公務から身を引くようになったが、1794年に引退するまで閣僚として留まった。1786年には、その功績に対する報償としてスタッフォード侯爵に叙せられた。1784年4月28日には、ロンドン考古協会のフェローに選出されている。
3.3. 財産と投資

ルーソン=ゴアは、その政治的キャリアと並行して、広範な財産と投資活動を行っていた。1799年時点で、彼(または彼の近親者受益信託)はイギリスで5番目に裕福な小家族単位と推定されており、土地、鉱業、幹線運河の通行料権に資産を有し、その額は推定210.00 万 GBPに達した。これらのプロジェクト、特にスタッフォードシャーのブラック・カントリーにおける投機的な投資は、彼の財産形成に大きく貢献した。
彼はまた、1750年代後半にはリールシャル村にあった17世紀の家屋を改築し、初期のリールシャル・ホールをカントリーハウスとして建設した。さらに、1775年から1778年にかけては、ヘンリー・ホランドの設計に基づき、自身の邸宅であるトレンサム・ホールに大規模な改築を行った。
4. 私生活
グランヴィル・ルーソン=ゴアの私生活は、三度の結婚と多くの子孫に恵まれたものであった。
4.1. 結婚と配偶者
ルーソン=ゴアは生涯に三度結婚した。
- 最初の結婚は1744年12月23日で、ニコラス・ファザカーリーの娘エリザベス・ファザカーリーと結婚した。彼女は持参金として1.60 万 GBPをもたらした。しかし、エリザベスは1745年5月19日に天然痘で死去した。彼女は息子ジョンを出産した翌日のことであったが、ジョンもすぐに亡くなった。
- 二度目の結婚は1748年で、初代ブリッジウォーター公爵スクロープ・エジャートンの娘ルイーザ・エジャートンと再婚した。彼女は1761年に死去した。
- 三度目の結婚は1768年5月23日で、第6代ギャロウェイ伯爵アレグザンダー・ステュアートの娘スザンナ・ステュアートと結婚した。彼女は1805年8月に死去した。
4.2. 子供と子孫

ルーソン=ゴアは二度目の妻ルイーザ・エジャートンとの間に4人の子供を儲けた。
- レディ・ルイーザ・ルーソン=ゴア(1749年10月22日 - 1827年7月29日):初代準男爵サー・アーチボルド・マクドナルドと結婚。
- レディ・マーガレット・キャロライン・ルーソン=ゴア(1753年11月2日 - 1824年1月27日):第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードと結婚し、第6代カーライル伯爵ジョージ・ハワードの母となった。
- ジョージ・ルーソン=ゴア(1758年1月9日 - 1833年7月19日):父の爵位を継承し、後に初代サザーランド公爵に叙せられた。
- レディ・アン・ルーソン=ゴア(1761年2月22日 - 1832年11月16日):エドワード・ヴェナブルズ=ヴァーノン=ハーコート(ヨーク大主教)と結婚。
三度目の妻スザンナ・ステュアートとの間にも4人の子供を儲けた。
- レディ・ジョージアナ・オーガスタ・ルーソン=ゴア(1769年4月13日 - 1806年3月24日):第2代セント・ジャーマンズ伯爵ウィリアム・エリオットと結婚。
- レディ・シャーロッテ・ソフィア・ルーソン=ゴア(1771年2月11日 - 1854年8月12日):第6代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットと結婚し、第7代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットとグランヴィル・サマセット卿の母となった。
- レディ・スザンナ・ルーソン=ゴア(1772年9月15日洗礼 - 1838年5月26日):初代ハロービー伯爵ダドリー・ライダーと結婚。
- グランヴィル・ルーソン=ゴア(1773年10月12日 - 1846年1月8日):初代グランヴィル伯爵に叙せられた。
5. 叙爵と栄誉
グランヴィル・ルーソン=ゴアは、生涯を通じて数々の爵位と栄誉を授与された。
- 1746年:父がゴア伯爵に叙された際に、彼の儀礼称号としてトレンタム子爵を称した。
- 1754年:父の死去に伴い、第2代ゴア伯爵および第3代ゴア男爵を継承し、貴族院議員となった。なお、ゴア男爵位は1799年に繰上勅書により長男ジョージに譲られた。
- 1755年12月:枢密顧問官に列せられた。
- 1771年2月:ガーター勲章を授与された。
- 1784年4月28日:ロンドン考古協会のフェローに選出された。
- 1786年3月1日:その長年の功績を称えられ、スタッフォード侯爵に叙せられた。
- 1793年:枢密顧問官の最先任者(Senior Privy Counsellor)となる。
6. 死去
グランヴィル・ルーソン=ゴア初代スタッフォード侯爵は、1803年10月26日にスタッフォードシャーのトレンサム・ホールで82歳で死去した。彼は「ブルームズベリー・ギャング」の最後の生き残りであった。彼の死後、爵位は長男のジョージ・ルーソン=ゴアが継承し、ジョージは1833年にサザーランド公爵に叙せられている。彼の三度目の妻であったスタッフォード侯爵夫人スザンナは、1805年8月に死去した。
7. 評価と影響
グランヴィル・ルーソン=ゴアの政治的キャリアは、その長期間にわたる閣僚としての在任期間と、当時の重要な政治的転換期における彼の役割によって特徴づけられる。
7.1. 歴史的評価
ルーソン=ゴアは、四半世紀にわたって内閣に在籍し、王璽尚書や枢密院議長といった要職を歴任したことから、当時のイギリス政界において非常に影響力のある政治家であったと評価される。彼は、ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル率いる派閥「ブルームズベリー・ギャング」の一員として政界入りし、その指導者の一人として派閥政治の中で重要な役割を果たした。特に小ピット政権の樹立に貢献したことは、彼の政治的手腕と影響力の大きさを物語っている。
7.2. 批判と論争
ルーソン=ゴアの政治的キャリアにおける主要な論争点の一つは、アメリカ独立戦争に対する彼の立場であった。彼は当初、ノース卿内閣においてアメリカ植民地に対する強硬な政策を強く支持していた。しかし、戦争の進行とノース政権の対応の拙さに不満を抱き、1779年に閣僚を辞任した。この立場の変化は、彼が単なる政権の追随者ではなく、自身の政治的判断に基づいて行動する側面を持っていたことを示唆している。
7.3. 後世への影響
ルーソン=ゴアの死後も、彼の子供たちの世代はイギリスの政治と社会に大きな影響を与え続けた。長男ジョージ・ルーソン=ゴアは、彼の爵位を継承した後、1833年にサザーランド公爵に叙せられ、広大な土地と富を背景に有力な貴族として君臨した。また、次男のグランヴィル・ルーソン=ゴアも初代グランヴィル伯爵となり、外交官として重要な役割を果たした。彼の娘たちも、カーライル伯爵家やボーフォート公爵家といった有力貴族と婚姻を結び、ルーソン=ゴア家はイギリス貴族社会におけるその影響力を拡大し続けた。