1. 概要
ゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルスト(1755年 - 1813年)は、ハノーファー出身の軍人であり、1801年からはプロイセンに仕えた将軍である。彼は初代プロイセン参謀総長を務め、その軍事理論、プロイセン軍の抜本的な改革、そしてナポレオン戦争における指導力で知られている。シャルンホルストの改革は、従来の傭兵制から国民軍への移行を促し、体罰の制限、能力主義に基づく昇進制度の確立、平民出身将校の積極的な登用、そして予備役の組織化など、軍隊の社会正義と平等を強化する画期的な試みであった。本項目では、彼の生涯、主な業績、そして現代の軍事思想と制度に与えた多大な影響を、彼の改革がプロイセン軍と社会にもたらした変化に焦点を当てて詳述する。
2. 生涯
ゲルハルト・フォン・シャルンホルストの生涯は、ハノーファー軍での初期の軍歴から始まり、プロイセン軍での画期的な改革、そして解放戦争での最期に至るまで、激動の時代を駆け抜けたものであった。
2.1. 幼少期からハノーファー軍時代まで
シャルンホルストの少年時代は自学自習に励み、ハノーファー軍で軍歴をスタートさせた後、軍事理論家としての名声を確立した。
2.1.1. 出生と教育
シャルンホルストは1755年11月12日、ハノーファー近郊のボルデナウ(現在のニーダーザクセン州ノイシュタット・アム・リューベンベルゲの一部)で、小規模な土地所有者である富農の家に生まれた。彼の父親は元騎兵隊の下士官であり、その影響からシャルンホルストは軍人としての成功を志すようになった。彼は自学自習によって知識を身につけ、1773年にはシャウムブルク=リッペ伯ヴィルヘルムが設立したヴィルヘルムシュタイン士官学校への入学を果たし、軍事理論や軍制改革について深く学んだ。
2.1.2. ハノーファー軍での兵役と著作活動
1778年、シャルンホルストはハノーファー軍で少尉として兵役を開始し、当初は騎兵連隊付属学校の教官を務めた。1783年には中尉に昇進し、ハノーファーに新設された砲兵学校の教官に異動した。この頃から、シャルンホルストは軍事に関する多数の論文、雑誌、書籍を出版し始めた。彼が創刊し、編集を務めた『軍事ジャーナル』は、1805年まで出版が続けられ、ヨーロッパ中で広く読まれた。彼の主要な著作には、1788年出版の『応用軍事科学士官ハンドブック (Handbuch für Offiziere in den anwendbaren Teilen der Kriegswissenschaftenハンドブーフ・フュア・オフィツィーレ・イン・デン・アンヴェンドバーレン・タイレン・デア・クリークスヴィッセンシャフトェンドイツ語)』や、1792年出版の『野戦軍事手帳 (Militärisches Taschenbuch für den Gebrauch im Feldeミリテーリッシェス・タッシェンブーフ・フュア・デン・ゲブラウフ・イム・フェルデドイツ語)』があり、これらはいずれも高い評価を受け、何度も増刷された。これらの成功により、シャルンホルストは軍事理論家として広くその名を知られるようになった。彼はこれらの著作から得られる収入を主な生計の手段としていた。彼はクララ・シュマルツ(ベルリン大学初代総長テオドール・シュマルツの姉妹)と結婚し、家族を養っていた。
2.1.3. 初期の実戦経験と名声
シャルンホルストの最初の実戦経験は1793年のフランス革命戦争におけるネーデルラント戦役であった。彼は砲兵将校としてヨーク公フレデリック麾下のイギリス派遣軍に従事し、ホンドスクートの戦い(1793年9月6日-8日)では友軍の後退支援で戦功を挙げた。1794年にはメニン攻防戦に参加し、フランス軍に包囲された友軍の救出作戦を立案、自ら一部隊を率いて解囲軍に加わり作戦を成功させた。これらの功績は高く評価され、彼は少佐に昇進し、ハノーファー参謀本部に加わった。この経験により、シャルンホルストは単なる理論家にとどまらず、実戦指揮官としても有能であることを証明した。メニン攻防戦の考察を記した『メニン市の防衛 (Vertheidigung der Stadt Meninフェアタイディグング・デア・シュタット・メニンドイツ語)』(ハノーファー、1803年)を出版し、さらに『フランス革命戦争におけるフランス軍の幸運の起源 (Die Ursachen des Glücks der Franzosen im Revolutionskriegディー・ウルザッヘン・デス・グリュックス・デア・フランツォーゼン・イム・レヴォルーツィオーンスクリークドイツ語)』という論文では、フランス軍の強さが優れた組織にあり、その背景には国民国家という独自の社会体制があると看破し、彼の最も有名な著作の一つとなった。
2.2. プロイセン軍への転身と改革着手
ハノーファー軍での限界を感じたシャルンホルストはプロイセン軍へ移籍し、軍事教育改革と来るべき大規模な軍制改革の基礎を築き始めた。
2.2.1. プロイセンへの移籍と初期の役割
1795年3月5日のバーゼルの和約後、シャルンホルストはハノーファーへ帰国したが、その軍人としての名声は確固たるものとなり、各国の軍から招聘の声が寄せられた。ハノーファー軍では貴族出身ではないシャルンホルストは多くの差別を受け、軍制改革の提言も退けられていたため、彼はよりよい環境を求めていた。1801年、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、彼のハノーファーでの給与の2倍という条件に加え、貴族の称号(フォン)、中佐の地位、そして退職時の手厚い年金を保証し、さらにプロイセン軍での先任権を保持することを条件に、シャルンホルストをプロイセン軍に招いた。シャルンホルストはこの申し出を受諾し、プロイセンへ移籍した。
プロイセンにおけるシャルンホルストの最初の任務は、ベルリン士官研修所の教官であった。当時の研修所所長は兵站総監(当時のプロイセンでは参謀本部は兵站総監部と呼ばれていた)のゴイザウが兼任していたが、彼は多忙のためシャルンホルストに全権を委任した。シャルンホルストは研修所の講義内容を大幅に刷新し、若手士官の教育に熱心に取り組んだ。彼の指導を受けた士官の中からは、後のプロイセン軍改革を主導するクラウゼヴィッツ、グロルマン、ボイエン、ティーデマンらが多数輩出された。
2.2.2. 軍事教育と初期の改革努力
1802年1月24日(フリードリヒ大王の誕生日)、シャルンホルストは同僚たちと共同で軍事協会を設立し、プロイセン軍の改革をいかに進めるべきか意見交換の場を設けた。1804年には、研修所の組織を再編し、基礎的な将校教育を担当する研修所の他に、より高度な教育を専門とするベルリン陸軍士官用学校(後のベルリン陸軍大学)を設立した。
このように軍内部の意識改革から軍制改革を推進しようとしたシャルンホルストであったが、肝心の本格的な改革はなかなか実行に移されなかった。改革を妨げる大きな要因は、七年戦争以来の功臣たちの存在であった。フリードリヒ大王の下でプロイセン軍の栄光を担った古参将校たちは、すでに確立された従来のやり方を変更することを望まなかったのである。
1804年、マッセンバッハの提言によって兵站総監部の再編が行われ、シャルンホルストは兵站総監部第三旅団長(参謀本部次長に相当)に任命された。しかし、この時点では明確な権限や責任が規定されておらず、将軍の相談相手の域を出るものではなかった。1806年には大佐に昇進している。
2.2.3. 1806年の敗北と改革の必要性
1805年、フランスはアウステルリッツの戦いに勝利し、第三次対仏大同盟を崩壊させた。ナポレオンはライン同盟を結成し、その覇権はドイツ中部へと及んだ。これに危機感を抱いたプロイセンは、1806年に第四次対仏大同盟に参加し、フランスへ宣戦布告したが、同年10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍はフランス軍に壊滅的な大敗を喫した。
この敗走の中、シャルンホルストはブリュッヘルの軍と合流した。フランス軍はプロイセン本土まで侵攻し、全土がフランスの支配下に置かれた。11月5日、ブリュッヘルとシャルンホルストの軍はリューベックで降伏し、翌11月6日にはマクデブルクでヴァイマール公とグナイゼナウの軍も降伏、国内のプロイセン軍は事実上消滅した。国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は側近とともにケーニヒスベルクへ逃れた。
捕虜交換で解放されたシャルンホルストはケーニヒスベルクへ向かい、レストック将軍の補佐官として軍の再建に尽力した。1807年2月7日から2月8日にかけて行われたアイラウの戦いは双方痛み分けに終わったが、シャルンホルストは優れた作戦指導が評価され、プール・ル・メリット勲章を授与された。同年7月7日、ティルジットの和約によってプロイセンとフランスは講和した。
シャルンホルストは、イエナ・アウエルシュタットでの敗北が、単なる戦術的な失敗ではなく、フランス軍とプロイセン軍の軍事力の本質的な組織および指揮統制の質の差に起因すると分析した。ナポレオンの卓越した指揮と、それに応えるフランス軍の柔軟な軍事編成こそが勝利を呼び込んだのである。この認識から、彼はプロイセン軍を根本から変える大改革の必要性を確信した。
2.3. 主要な軍制改革
ティルジットの和約後、シャルンホルストはプロイセン軍改革の核心に着手し、その結果、軍隊はより平等で能力主義的な組織へと変貌を遂げ、社会にも大きな影響を与えた。
1807年7月、シャルンホルストは少将に昇進し、軍備再編委員会の議長に任命され、本格的に軍制改革に乗り出すこととなった。グナイゼナウ、ボイエン、グロルマンら、彼と意見を同じくする若手将校たちが委員に任命され、改革を補佐した。1808年からはクラウゼヴィッツもこの委員に加わった。シュタインも委員の一員となり、シャルンホルストが国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の副官兼将軍に任命されることで、国王への自由なアクセスを確保した。しかし、ナポレオンはプロイセンの改革を警戒し、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は改革勧告を度々中断または取り消さざるを得なかった。
2.3.1. 指揮・参謀機構の再編
シャルンホルストは、まずイエナ・アウエルシュタットの敗因を、フランス軍とプロイセン軍の組織および指揮統制の質的な差にあると深く研究した。この分析に基づき、1808年には軍事に関する事柄を処理する一般軍事部と、経済に関する事柄を処理する軍事経済部が創設され、シャルンホルストは一般軍事部の部長に就任し、改革のための実権を握った。
同年12月、一般軍事部と軍事経済部は統合され、軍事に関する一切の業務を扱う軍事省が誕生した。初代軍事相には国王の側近であるロトゥム伯が就任した。軍事省は軍事総務局と軍事主計局の二つの部局に分かれ、シャルンホルストは軍事総務局長として実務にあたった。軍事総務局は、国王の相談役である第一師団、軍の統括を行う第二師団、兵器監査を担当する第三師団の三つの部局から成り立っており、シャルンホルストは第二師団監督(局長)を兼務した。この第二師団こそが後年の参謀本部の原型となった。また、第二師団は旧兵站総監部と同じ役割であったため、第二師団監督は兵站総監と呼ばれた。
1809年には、プロイセン軍の編成は諸兵科連合の師団(旅団)を中心としたものに変更された。シャルンホルストは各師団に参謀将校を配置し、中央からの指令の徹底と、作戦行動時の独自性の向上に努めた。
2.3.2. 人材構成と訓練の改革
当時のプロイセン軍は傭兵主体の軍隊であり、将校は貴族出身者で占められ、平民出身将校には出世の道が閉ざされていた。シャルンホルスト自身もハノーファー軍時代に貴族ではない出自から差別を受け、プロイセン軍へ移籍する際に貴族の称号を求めたのはそのためであった。しかし、彼自身も「成り上がり者」として同僚から白眼視されることもあった。シャルンホルストの改革の核心は、このような旧弊を打破することにあった。
彼の改革は、プロイセンの長期にわたる職業軍人体制を、普遍的な兵役に基づく国民軍へと転換させることを目指した。普遍的な兵役制度は彼の死後まで完全に確立されなかったものの、彼はその原則を定め、導入への道を準備した。
具体的には、以下の改革が実行された。
- 傭兵制の廃止と義務兵役制度の導入**: 外国人の入隊を廃止し、1808年8月には義務兵役制度を導入した。ただし、実際に徴兵が行われたのは、フランスとの戦端が開かれた1813年のことである。
- 軍事処罰の制限**: 体罰は明白な反抗行為に限って適用されるように制限された。
- 能力主義に基づく昇進制度の確立**: 階級や出自にかかわらず、個人の能力と功績に基づいて昇進が決定される制度が確立された。
- 平民出身将校の積極的な登用**: 参謀将校の配属で増加した将校の数を補うためだけでなく、ブルジョワジーを中心とした平民から積極的に将校を採用した。これは結果的に平民の軍隊への参加を促し、彼らに国政に影響力を行使できる軍隊という魅力的な就職先を提供した。
- 軍事行政の組織化と簡素化**: 軍事行政が組織され、簡素化された。
- 予備役(ラントヴェーア)の組織化**: 国民軍を支える予備役部隊の組織化が開始された。
1810年、シャルンホルストは陸軍士官用学校を陸軍大学へと改称し、入学希望者の枠をさらに広げることで、軍の教育制度の民主化を推し進めた。
2.3.3. 改革の困難と一時的な引退
しかし、シャルンホルストの積極的な改革はナポレオンの警戒を招いた。1809年にフランスとオーストリアの間で戦争が勃発すると、プロイセンの愛国者たちの間では時期尚早な希望が膨らんだが、ナポレオンはこの動きを看過しなかった。彼の不興を買うことを恐れたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、シャルンホルストに改革の一時中止を命じた。1810年9月26日には、全ての外国人がプロイセン軍を即時退役することを命じるナポレオンの勅令が出されたが、シャルンホルストは直接ナポレオンに働きかけることでこの勅令を免れた。
しかし、1811年から1812年にかけて、フランスがロシア戦役の準備を進める中、ナポレオンはプロイセンにロシアに対する同盟を強要し、プロイセンはナポレオンの指揮下に補助軍を派遣せざるを得なくなった。これに失望したシャルンホルストは、ベルリンを離れ無期限の休職に入った。引退中、彼は火器に関する著作『火器の作用について (Über die Wirkung des Feuergewehrsユーバー・ディー・ヴィルクング・デス・フォイアーゲヴェールスドイツ語)』(1813年)を執筆・出版した。シャルンホルストやグナイゼナウをはじめとする改革派将校の一部は、プロイセン軍を辞してシュレージエンに亡命したり、一部の将校はロシア軍に身を投じたりした。
2.4. 解放戦争と最期
1812年のロシア戦役におけるナポレオン軍の壊滅的な撤退は、プロイセンに新たな国民軍の出陣を促す号令となった。
2.4.1. 軍への復帰と1813年の戦役
1813年、ナポレオンのロシア戦役が失敗に終わると、シャルンホルストらは再びプロイセン軍に招聘された。シャルンホルストはより高い地位を固辞したが、再び兵站総監(参謀総長)に就任し、中将に昇進した。彼は、その活力、エネルギー、そして若き兵士たちからの影響力に全幅の信頼を置いていたプロイセン軍総司令官ブリュッヘルの参謀総長として、解放戦争を指導することとなった。シャルンホルストはグナイゼナウを先任参謀将校に任命し、彼とともに作戦立案にあたった。ロシアのヴィトゲンシュタイン公爵はシャルンホルストに深く感銘を受け、彼を一時的に自らの参謀総長として借りたいと申し出、ブリュッヘルもこれに同意した。
同年3月、プロイセン軍は攻撃を開始した。5月2日、緒戦であるリュッツェンの戦い(またはグロースゲルシェンの戦い)でプロイセン軍は敗退した。しかし、この敗北はナポレオンが以前に与えたような壊滅的なものではなかった。フランス軍は1813年までに大部分が10代の徴集兵で構成されており、かつての圧倒的な軍事力は失われていたため、多大な損害を被り、騎兵の深刻な不足もあって追撃に失敗し、不完全な勝利に終わった。
2.4.2. 死
リュッツェンの戦いでシャルンホルストは脛に銃創を負った。この傷自体は当初それほど重くなかったが、ドレスデンへの撤退に伴う疲労により、急速に悪化した。彼はオーストリアの参戦交渉のためプラハへ向かう途中の1813年6月28日、傷の悪化と敗血症への感染によりプラハで死去した。彼の死の直前には中将への昇進が授与されていた。
シャルンホルストの死後、グナイゼナウとクラウゼヴィッツは共同で追悼の辞を執筆したが、政府は彼の業績の評価がまだ定まっていないという理由でその公表を認めなかった。グナイゼナウは猛抗議を続け、最終的に公表を認めさせた。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、ラウフに命じてベルリンにシャルンホルストの彫像を建造させた。シャルンホルストはベルリンのインヴァリーデン墓地に埋葬されている。
3. 遺産と評価
シャルンホルストは、近代軍事の礎を築いた人物として、その業績と後世への影響は高く評価されている。
3.1. 軍事理論と実践への貢献
近代参謀本部制度の創設者として、シャルンホルストの業績は極めて高く評価されている。ハノーファー軍時代には、野戦指揮官としてその有能さを証明し、軍事雑誌や書籍の出版によって軍事理論家としての名声を確立した。プロイセンに仕官してからは、さらに活躍の場を広げ、教育者としてクラウゼヴィッツ、グロルマンら多くの優れた弟子を育成した。
彼はプロイセン軍の抜本的な改革に成功した組織改革者であった。特に、傭兵制から国民軍への移行、能力主義の導入、平民出身将校の登用といった彼の改革は、軍隊の社会的な平等と民主的基盤を強化する側面から極めて重要である。参謀総長として戦争を指導した期間は短かったが、諸国民解放戦争では大胆な作戦を立案し、後任の参謀総長グナイゼナウはその基本構想を引き継ぎ、完成させた。彼はプロイセン軍の再建に決定的な貢献を果たした。
3.2. 歴史的評価
クラウゼヴィッツによれば、シャルンホルストの風貌は、兵士の質実剛健なイメージとはかけ離れていたという。身だしなみにこだわるプロイセン軍の将校たちの中で、彼はだらしない格好でも平然としており、粗野で傲慢な貴族将校が多い中で、彼は知的で物静かであった。常に憂鬱な雰囲気を漂わせ、ハノーファー訛りでぼそぼそと喋る様子は、まるで哲学者のようであったと評されている。
しかし、人間的な魅力に欠けていたわけではなかった。教官時代には親身に若手の指導にあたり、参謀総長時代には出自に関係なく優秀な人材を引き立て、彼らから深い尊敬を獲得した。クラウゼヴィッツはシャルンホルストを「第二の父」として敬愛し、彼の業績を引き継ぎ完成させたグナイゼナウは、自分は彼のペトロ(イエス・キリストの高弟である使徒)に過ぎないと語っている。シャルンホルストは社会的身分に関係なく才能ある人材を登用し、平等な機会を提供しようとした点が高く評価されている。
3.3. 名を冠したものと影響
シャルンホルストの名前は、後世のドイツの軍事史において多くの対象に冠され、その遺産が受け継がれている。
- SMS シャルンホルスト:1906年建造のドイツの装甲巡洋艦(第一次世界大戦時に運用)。
- シャルンホルスト (戦艦):1936年建造のドイツの戦艦(第二次世界大戦時に運用)。シャルンホルスト級戦艦のネームシップであり、同級にはグナイゼナウも含まれる。
- シャルンホルスト歩兵師団:1945年に編成されたドイツの歩兵師団。第二次世界大戦における国防軍の最後の新編部隊の一つ。
- シャルンホルスト勲章:旧東ドイツの国家人民軍(NVA)の最高位の軍事勲章。
- シャルンホルスト (フリゲート) (F 213):1943年建造のイギリスのスループ、HMSマーメイドとして知られ、1959年に西ドイツへ譲渡された。
- ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ケルンなど、ドイツ各地の多くの通り。
シャルンホルストの軍事思想は、後代の軍事指導者にも大きな影響を与えた。例えば、ハンス・フォン・ゼークト元帥は、第一次世界大戦後のヴァイマル共和国軍をヴェルサイユ条約による厳しい制限の中で再編し、将来の再軍備に備えた秘密の教義や参謀本部の準備を進めた点で、シャルンホルストと比較されることがある。ゼークトは第二次世界大戦における1939年から1940年のドイツ軍の比類なき成功に貢献したと評価されている。ナチス政権樹立後、マッケンゼン元帥はゼークトをシャルンホルストになぞらえ、「古き炎はなお燃え続けており、連合国の統制はドイツの永続的な強さの要素を何一つ破壊できなかった」と述べた。ウィンストン・チャーチルもこの見方に同意し、ゼークトがドイツを軍事大国として迅速に復活させる上で不可欠な存在であったと考えていた。
4. 個人生活
ゲルハルト・フォン・シャルンホルストの私的な側面は、質素で知的な性格が特徴であった。
4.1. 家族と私生活
シャルンホルストはクララ・シュマルツと結婚し、家族を養うためにその著作活動から得られる収入を主な生計としていた。彼は軍人らしい容姿とは異なり、身だしなみに無頓着で、物静かで知的な雰囲気を纏い、憂鬱な印象を与えることが多かったと伝えられている。しかし、教官時代には若手士官の指導に親身にあたり、参謀総長時代には出身を問わず有能な人材を積極的に登用するなど、人間的な魅力も持ち合わせており、多くの同僚や弟子から深い尊敬を集めた。彼の私生活については多くが公には知られていないが、軍事改革と教育にその生涯を捧げた人物であったことがうかがえる。