1. 生涯
ジョン・マレーの生涯は、外交官としての職務と並行して、その個人的な側面でも注目を集めた。
1.1. 幼少期と結婚
ジョン・マレーはマン島で生まれたとされる。正確な生年は資料によって1712年ごろまたは1714年ごろとされる。彼は1748年にブリジット・ウェントワースと結婚した。ブリジットはサー・バトラー・キャヴェンディッシュ・ウェントワースの未亡人であり、第4代準男爵サー・ラルフ・ミルバンクとエリザベス・ダーシーの娘にあたる。マレーが外交官としてヴェネツィアに赴任するきっかけは、妻の母方の親族にあたる第4代ホルダーネス伯爵ロバート・ダーシーが、1754年3月に北部担当国務大臣に就任したことによるものとされる。
2. 外交官としての経歴
ジョン・マレーの外交官としてのキャリアは、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の二つの重要な任地にまたがっている。
2.1. 在ヴェネツィア共和国イギリス使節
マレーは1754年7月30日に在ヴェネツィア共和国イギリス使節としての信任状を受け取り、同年10月9日に妻とともにヴェネツィアに到着した。この赴任により、彼はヴェネツィアにおけるイギリスの代表を務めることとなった。国王ジョージ3世の即位に伴い、1760年11月21日に再び信任状を受け取り、その職務を継続した。このヴェネツィアでの在任中、マレーは女遊びに興じ、「悪名高い放蕩者」として知られ、友人であるジャコモ・カサノヴァと行動をともにすることが多かった。
2.2. 在オスマン帝国イギリス大使
1765年11月15日、マレーは在オスマン帝国イギリス大使に任命された。彼は1767年の手紙で、これまで何度も転任を断ってきたにもかかわらず、今回の昇進は受けざるを得なかったと述べている。1766年2月6日に信任状を受け取った後、同年5月11日にヴェネツィアを発ち、6月2日にコンスタンティノープルに到着した。しかし、彼の妻ブリジットはこの任地には同伴せず、代わりにヴェネツィアで彼が後援していた画家アンゲリカ・カウフマンとともにイギリスへ向かい、6月22日に到着した。オスマン帝国での大使としての職務では、オスマン帝国との関係維持に努めたものの、露土戦争の講和交渉において仲介役を務めようとしたが失敗に終わった。また、レヴァント会社の衰退を押し留めることにも失敗するなど、外交官としては「平凡」であると評された。
3. 死去
1774年に妻が死去したため、マレーは一時帰国のための許可を求めた。彼の要請は1775年1月27日に許可され、彼は同年5月25日にコンスタンティノープルを発った。その後任にはイズミル領事であったアンソニー・ヘイズが臨時代理大使として着任し、1776年10月2日に次期大使ロバート・エインズリーが到着するまでその職務を務めた。しかし、マレーは本国に着くことなく、帰国途中の1775年8月9日にヴェネツィアに立ち寄った際に死去した。
4. 人物像
ジョン・マレーは、その個人的な特徴や行動においても同時代の人々の間で注目を集めた。
4.1. 私生活と評判
マレーは体が太っていたと伝えられている。在ヴェネツィア共和国イギリス使節としての在任中、彼は「悪名高い放蕩者」としての評判を確立し、しばしばジャコモ・カサノヴァとともに女遊びに明け暮れた。カサノヴァの記述によると、マレーはカサノヴァの愛人であったAncillaアンシライタリア語が梅毒により死去する数分前にも、彼女に求愛を続けていたという逸話がある。このような女性遍歴は、同時代の著名な作家であるメアリー・ウォートリー・モンタギューに嫌悪感を抱かせるほどであった。
5. 評価
ジョン・マレーの外交官としての功績と過ちは、その全体的な歴史的評価に反映されている。彼は外交手腕において「平凡な外交官」と評価されることが多い。在オスマン帝国大使としての任期中には、露土戦争の講和交渉において仲介役を務めようと試みたものの、結果的に失敗に終わった。また、イギリスのレヴァント会社の衰退を食い止めることにも成功せず、その影響力の低下を招いたとされる。これらの事実は、彼が当時の複雑な国際情勢において、目立った外交的成果を上げるには至らなかったことを示している。