1. 経歴
ステファン・タタウのサッカーキャリアは、カメルーン国内での活動から始まり、ヨーロッパでの短い試練、そして日本のプロサッカーリーグでの先駆的な挑戦を経て、国際舞台での輝かしい功績へと続いた。
1.1. クラブ経歴
選手としてのキャリア初期から引退まで、ステファン・タタウはカメルーン国内の複数クラブに所属した後、ヨーロッパでのトライアル、そして日本でのプレーを経験した。
1.1.1. カメルーン国内での活動
タタウはクンバのCammackでキャリアを開始した後、1988年から1991年までトネール・ヤウンデに所属し、1992年から1994年まではオリンピック・ムボリエでプレーした。トネール・ヤウンデはカメルーンの主要クラブの一つであったが、シャワーや更衣室のないスタジアムで焼けた土のピッチでプレーするなど、基本的な設備が不足していた。1991年には、タタウは週に60 GBP、さらにカメルーン・ラジオテレビでの名目上の職から週に100 GBPの収入があったと報じられている。
オリンピック・ムボリエに在籍中の1992年、ディアマン・ヤウンデとのカメルーン・カップ決勝戦の数日前、タタウは武装した4人組に車から引きずり出され暴行を受けるという事件に遭遇した。しかし、彼はその困難を乗り越え、試合では主将としてチームを率い、優れたプレーを見せた。決勝では、彼が獲得したペナルティーキックからチームメイトのベルタン・エブウェルが唯一のゴールを決め、チームの優勝に貢献した。この出来事は、彼の不屈の精神とリーダーシップの強さを示すものとして記憶されている。
1.1.2. ヨーロッパでのトライアル
1990年10月、タタウはイングランドのフットボールリーグ・ファーストディビジョン所属クラブであるクイーンズ・パーク・レンジャーズの入団テストに参加した。当時の監督(ドン・ハウ)からは「素晴らしい」「卓越している」と評価されたものの、チームに右サイドバックが必要ないという理由で契約には至らなかった。タタウは、来る前にこの事実を伝えられなかったことに困惑したと伝えられている。その翌月には、フットボールリーグ・セカンドディビジョン所属のブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンの入団テストを受け、リザーブチームでプレーしたと報じられた。
1.1.3. 日本でのプレーと引退
1995年、タタウは日本の鳥栖フューチャーズに加入した。彼は日本のプロサッカークラブでプレーした最初のアフリカ人選手となり、その先駆的な役割は特筆される。日本での2年間、彼はクラブをJリーグに昇格させようと尽力したが、その目標は達成されなかった。1997年、メインスポンサーの撤退により鳥栖フューチャーズは消滅した。その後、同じ都市に設立された新クラブであるサガン鳥栖への残留を希望したが、条件面で合意に至らず、日本を去り、そのまま選手としてのキャリアを引退した。
1.2. 代表経歴
ステファン・タタウは、カメルーン代表として、主に1990 FIFAワールドカップでの歴史的な活躍によってその名を世界に知らしめた。
1.2.1. 代表デビューと初期
タタウは1986年12月、赤道ギニアのマラボで行われたUDEACカップのコンゴ代表戦で、カメルーン代表として国際舞台にデビューした。彼はその後数年間で代表チームのレギュラーとしての地位を確立した。
1.2.2. 1990 FIFAワールドカップ
タタウの国際キャリアにおいて最も成功し、注目された大会は、彼が主将を務めた1990 FIFAワールドカップであった。この大会でカメルーンはアフリカ国家として初めてワールドカップの準々決勝に進出するという歴史的快挙を成し遂げた。
大会開幕前、カメルーン代表はGKを務めるはずだったジョセフ=アントワーヌ・ベルがチーム状態に苦言を呈したことから一部の選手との間で緊張関係が生じ、その結果、トーマス・ヌコノが正GKを務めることになったり、ロジェ・ミラの突然のメンバー入りなど、多くの混乱を抱えていた。
カメルーンは、1986 FIFAワールドカップの王者であったディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチン代表との大会開幕戦で、グループBの初戦を迎えた。アルゼンチンが圧倒的な優勝候補と見られていたが、カメルーンはアンドレ・カナ=ビイクとバンジャマン・マッシンが退場し、9人になりながらも、フランソワ・オマム=ビイクのゴールにより1対0で番狂わせの勝利を収めた。この勝利は、当時のポール・ビヤ大統領が観戦していたことも要因の一つであったとタタウは後に明かしている。
続くルーマニア戦でも、交代出場したロジェ・ミラが10分間で2ゴールを挙げ、2対1で勝利した。グループリーグ最終戦ではソビエト連邦に0対4で敗れたものの、この2勝でグループ首位通過を果たし、決勝トーナメントに進出した。
ベスト16ではコロンビアと対戦。試合は延長戦までもつれ込み、再びロジェ・ミラが立て続けに2ゴールを挙げた。コロンビアが1点を返したものの、カメルーンは2対1で勝利した。
準々決勝のイングランド戦は、スリリングな試合となった。イングランドがデイヴィッド・プラットのゴールで先制するも、カメルーンは後半に4分間で2ゴールを奪い、2対1と逆転した。しかし、イングランドにペナルティーキックを与え、試合は延長戦に突入。再びペナルティーキックを献上し、最終的に2対3で敗れ、大会を去ることとなった。
1.2.3. 1994 FIFAワールドカップ
ステファン・タタウは1994 FIFAワールドカップにも出場したが、この大会でのロシア戦が彼の最後の代表戦となった。カメルーンはグループリーグ最下位で大会を終えた。
1.2.4. 代表通算記録
ステファン・タタウはカメルーン代表として、合計63試合に出場し、3ゴールを記録した。
1.3. 引退後の活動
選手引退後も、ステファン・タタウはサッカー界との関わりを保ち続けた。
1.3.1. 指導者としての試み
2018年4月、タタウは空席となっていたカメルーン国家代表チームの監督職に77人の応募者の一人として名を連ね、指導者キャリアへの意欲を示した。
2. 栄誉と功績
ステファン・タタウの選手キャリアは、クラブレベルと国際レベルの両方で数々の栄誉に輝いている。
2.1. クラブでの栄誉
- カメルーン・カップ: 1989年(トネール・ヤウンデ)、1991年(トネール・ヤウンデ)、1992年(オリンピック・ムボリエ)
2.2. 代表での栄誉
- アフリカネイションズカップ: 1988年(優勝)
- アフリカネイションズカップ: 1992年(4位)
2.3. 個人タイトル
- アフリカネイションズカップ ベストイレブン: 1988年
3. 人物と死
ステファン・タタウの公にされている個人的な情報は限られている。
3.1. 人物
ステファン・タタウ・エタは1963年3月31日に生まれた。公にされている結婚や家族関係に関する詳細な情報はない。
3.2. 死去
ステファン・タタウは2020年7月31日に死去した。57歳であった。彼はカメルーンのヤウンデにある自宅で亡くなったと報じられている。
4. 遺産と影響
ステファン・タタウは、その選手としての功績だけでなく、アフリカサッカーの発展と国際的な地位向上、そして日本のプロサッカーにおける先駆者として、多大な遺産と影響を残した。
4.1. アジアサッカーにおける先駆的な役割
タタウが1995年に鳥栖フューチャーズに加入したことは、アフリカ人選手として初めて日本のプロサッカーリーグでプレーしたことを意味し、アジアサッカー界における歴史的な一歩であった。この先駆的な挑戦は、後に続く多くのアフリカ人選手が日本やアジアのリーグで活躍する道を切り開いた。彼の存在は、日本のサッカーファンにアフリカサッカーの魅力と可能性を伝える役割も果たし、文化交流の促進にも貢献した。
4.2. カメルーンサッカーへの貢献
ステファン・タタウのカメルーンサッカーへの貢献は計り知れない。特に、彼が主将として率いた1990年のFIFAワールドカップでのベスト8進出は、アフリカサッカーの歴史において画期的な出来事であった。この快挙は、世界中の人々にアフリカのサッカーの力と才能を知らしめ、その後のアフリカサッカー界の発展に大きな拍車をかけた。
また、アルゼンチン戦での劣勢にもかかわらず、チームを鼓舞し勝利に導いた彼の卓越したリーダーシップは、カメルーン国内外で高く評価されている。試合内外での困難な状況を乗り越え、チームをまとめた彼の姿勢は、カメルーンサッカーの象徴的な存在として、後進の選手たちに多大な影響を与え続けている。彼のキャリアは、カメルーンが「不屈のライオンたち」として世界に認識されるきっかけの一つとなり、国家の誇りともなった。