1. 生涯と教育
デリック・クックは、貧しい労働者階級の家庭に生まれ、その幼少期から音楽への情熱を育んだ。彼の教育は、その後の音楽学者および放送家としてのキャリアの基盤を築いた。
1.1. 幼少期と家庭環境
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クックは1919年にレスターで生まれた。彼の家庭は貧しい労働者階級であり、幼い頃に父親を亡くした。しかし、母親は彼の音楽的才能を認め、ピアノのレッスンを受けさせる経済的支援を行った。この支援により、クックは幼い頃から優れたピアノの技術を習得し、作曲も始めた。
1.2. 学歴
クックはウィッゲストン・グラマースクールで教育を受けた後、ケンブリッジ大学のセルウィン・カレッジにオルガン奨学生として入学した。ケンブリッジでは、パトリック・ハドリーやロビン・オーアに師事し、音楽学の基礎を学んだ。大学在学中にはいくつかの作品を成功裏に発表したが、卒業後には自身の作品が時代遅れで保守的な様式であると感じ、そのほとんどを破棄した。彼は1947年にケンブリッジ大学を卒業した。
1.3. 第二次世界大戦中の従軍
クックの大学での学業は第二次世界大戦によって中断された。彼は王立砲兵隊に所属し、イタリア侵攻にも参加した。戦争の終盤には、軍隊のダンスバンドでピアニストとして活動し、その音楽的才能を軍務中も発揮した。
2. 経歴
デリック・クックのキャリアは、主にBBCでの放送活動と、フリーランスの音楽学者としての執筆活動によって特徴づけられる。
2.1. BBCでの活動
大学卒業後の1947年、クックはBBCに入局し、音楽部門に配属された。彼は1959年から1965年の一時期を除いて、生涯にわたりBBCで勤務した。彼の主な職務は、音楽番組の脚本執筆と編集、そしてラジオやテレビでの放送活動であった。クックは、その思慮深く飾らない語り口で、複雑な音楽の概念を一般の聴衆にも分かりやすく伝える理想的なコミュニケーターとして高く評価された。
2.2. フリーランスとしての活動
1959年から1965年にかけての期間、クックはBBCを離れてフリーランスの作家および批評家として活動した。この時期に、彼の代表作となる『The Language of Music英語』を出版し、音楽学における独自の理論を展開した。また、この期間も音楽に関する執筆や研究を精力的に行った。
3. 主要な著作と業績
デリック・クックの業績は、音楽学における深い洞察と、未完成作品の実用化という具体的な貢献に集約される。
3.1. マーラー交響曲第10番の演奏版
クックの最も著名な業績の一つは、グスタフ・マーラーの未完成の交響曲第10番の演奏版を完成させたことである。1960年のマーラー生誕100周年を前に、クックはベルトルト・ゴルトシュミットと協力し、マーラーの残した断片的な自筆譜から演奏可能な版の作成に着手した。
最初の試みは、1960年にBBCで放送された講演と実演の形式であった。その後、より完全な(連続した)演奏版が作成され、1964年8月13日にプロムスにおいて、ゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団によって初演された。この第2版は、マーラーの妻であるアルマ・マーラーの承認も得た。その後も、作曲家のデイヴィッド・マシューズとコリン・マシューズの協力を得て改訂作業が進められ、マーラー本来のオーケストレーションに忠実な版を目指した。最終的に、クックと共同作業者たちによって1976年に出版されたこの演奏版は、現在では世界中のオーケストラの重要なレパートリーの一部となっている。
3.2. 著書『音楽の言語』
1959年に出版されたクックの代表的な著書『The Language of Music英語』は、音楽が本質的に感情の言語であるという彼の理論を展開したものである。この著書の中で彼は、歴史上の作曲家たちが、特定の感情や劇的な状況を表現するために、似たような音楽的フレーズを選んできたことを論証した。この理論は、音楽の感情的意味と構造的特徴の関連性を深く掘り下げたものであり、音楽学界に大きな影響を与えた。この著書は1960年に『Journal of Music Theory英語』誌でヴィクター・ツッカーカンドルによる書評が掲載されるなど、学術的な注目を集めた。
3.3. ワーグナー「ニーベルングの指環」関連
クックはリヒャルト・ワーグナーの作品にも深い造詣を持っていた。彼は、ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による『ニーベルングの指環』全集の録音に際し、その付録として制作されたライトモティーフ集の監修を務めたことで知られている。また、晩年にはワーグナーの大規模な楽劇『ニーベルングの指環』に関する大規模な研究書に取り組んだが、脳出血による早すぎる死のため、第1巻の一部(テクストに関する部分)しか完成しなかった。この未完の著作は、彼の死後1979年に『I Saw the World End: A Study of Wagner's Ring英語』として出版された。
さらに、クックは1967年に『An Introduction to Richard Wagner's "Der Ring des Nibelungen"英語』というオーディオ録音を制作している。これはショルティ版からの抜粋と特別に録音されたデモンストレーションを含むもので、1968年にLPとしてリリースされ、その後も再パッケージ化や1995年のCD化が行われた。
3.4. その他の著作
クックは上記の主要な業績の他にも、多様な執筆活動を行った。
彼の著作には、マーラーの生誕100周年を記念してBBCが発行した『Gustav Mahler (1860-1911): A Companion to the BBC's Celebrations of the Centenary of his Birth英語』(1960年、後にコリンとデイヴィッド・マシューズによって改訂・増補版が1980年と1988年に出版)や、ルドルフ・レティの『Thematic Patterns in Sonatas of Beethoven英語』(1967年)の編集などがある。
また、彼の死後には、エッセイや放送用スクリプトを集めた『Vindications: Essays on Romantic Music英語』が1982年に出版され、2008年に再版された。
彼は数多くの学術論文や記事も発表しており、その中には『Tempo英語』誌に掲載された「Ernest Newman (1868-1959)英語」(1959年)、R.シンプソン編纂の『The Symphony, Vol.1: Haydn to Dvořák英語』に収録された「Anton Bruckner英語」(1966年)、『The Listener英語』誌の「The Measure of Mahler英語」(1967年)、『Musical Times英語』誌に連載された「The Bruckner Problem Simplified英語」(1969年、後に小冊子として再版され、『Vindications英語』にも収録)、同じく『Musical Times英語』誌の「The Language of Mahler: David Holbrook's Interpretation英語」(1976年)などがある。さらに、サミュエル・サディ編纂の『The New Grove Dictionary of Music and Musicians英語』にも「Bruckner, (Joseph) Anton英語」の項目を寄稿し、これは後に『Late Romantic Masters: Bruckner, Brahms, Dvořák英語』にも再録された。
4. 音楽思想
デリック・クックの音楽思想の中心は、音楽が単なる音の構造ではなく、感情を表現する普遍的な言語であるという信念にあった。彼は、作曲家が特定の感情や心理状態を表現する際に、時代や文化を超えて共通の音楽的フレーズやパターンを用いる傾向があることを指摘した。
彼の著書『The Language of Music英語』では、この理論を詳細に展開し、具体的な楽譜の例を挙げて、喜び、悲しみ、怒り、愛といった感情がどのように音楽的に表現されてきたかを分析した。クックは、音楽の感情的意味が、単なる主観的な解釈ではなく、ある程度の客観的な根拠に基づいていると考えた。この思想は、音楽の構造と感情的意味の関連性に関する議論に新たな視点をもたらし、音楽鑑賞や分析の方法論に影響を与えた。
5. 死去
デリック・クックは、晩年まで健康状態に恵まれず、1976年10月26日にクロイドンで脳出血のため、わずか57歳で早すぎる死を遂げた。彼の死は、ワーグナーの大規模な研究書が未完に終わるなど、その後のさらなる学術的貢献が期待されていた中でのことであり、音楽界にとって大きな損失であった。
6. 評価と遺産
デリック・クックの業績は、音楽学界と一般社会の両方において高く評価されており、彼の遺産は現代の音楽理解に深く根付いている。
6.1. マーラー第10番演奏版の受容
クックが完成させたマーラーの交響曲第10番の演奏版は、初演以来、批評家や聴衆から多様な評価を受けつつも、その音楽的価値が広く認められている。この版は、マーラーの未完の遺産に命を吹き込み、多くの指揮者やオーケストラによって世界中で演奏され、録音されている。これにより、マーラーの創造性の全貌を理解するための重要な手がかりとして、音楽レパートリーに確固たる地位を築いた。彼の版がなければ、この偉大な交響曲の全体像は、限られた専門家のみが知るものにとどまっていた可能性が高い。
6.2. 死後の評価と資料
クックの死後も、彼の著作や研究は引き続き評価され、音楽学の発展に寄与している。彼の著書『Vindications英語』や未完のワーグナー研究書『I Saw the World End英語』の出版は、彼の幅広い知識と深い洞察力を改めて示すものであった。
彼の膨大な研究資料や個人的な文書は、ケンブリッジ大学図書館に「CUL MS Cooke & MS Add 10045英語」として所蔵されており、世界中の音楽学者や研究者にとって貴重なアーカイブとなっている。これらの資料は、クックの音楽思想や研究プロセスを深く理解するための基盤を提供し、今後の音楽学研究の発展に貢献し続けている。
7. 影響
デリック・クックは、自身の研究と放送活動を通じて、音楽学、音楽教育、そして大衆文化における音楽の理解に多大な影響を与えた。彼の『The Language of Music英語』は、音楽の感情的表現に関する議論を深め、音楽分析の新たな視点を提供した。また、BBCでの活動を通じて、彼はクラシック音楽を一般の聴衆に分かりやすく紹介し、音楽の普及と教育に貢献した。特に、マーラーの交響曲第10番の演奏版の完成は、未完の作品に対する学術的アプローチの可能性を示し、多くの作曲家や音楽学者に影響を与えた。彼の功績は、専門的な知識を一般に広める「理想的なコミュニケーター」としての役割と、音楽の深い意味を探求する「音楽学者」としての役割が融合したものであり、その遺産は現代の音楽界に広く受け継がれている。
8. 関連資料
- [https://web.archive.org/web/20100511111608/http://www.viddler.com/explore/DeryckCookeWeb/videos/1/ デリック・クックによるマーラー未完成交響曲第10番に関する1960年のラジオ放送(不完全版)の録音]
- [https://web.archive.org/web/20060422050612/http://www.mahlerarchives.net/archives/ivcooke.pdf マーラー交響曲第10番に関するデリック・クックとの1976年の対談]