1. 背景とアイデンティティ
ナウシカアーは、ギリシア神話におけるパイアーケス族の王女であり、その名前には彼女の出自や物語における象徴的な意味が込められている。
1.1. 家系と出身
ナウシカアーは、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場する、パイアーケス族が住むスケリア島の王女である。彼女の父はスケリア島の王アルキノオス、母は王妃アーレーテーである。スケリア島は、現在のケルキラ島(コルフ島)であると考えられている。彼女には複数の兄弟がいたとされている。
1.2. 名前(ナウシカアー)の語源
ナウシカアー(Ναυσικάα古代ギリシア語、Ναυσικᾶ古代ギリシア語)という名前は、古代ギリシア語の「船」(ναῦς古代ギリシア語)と「焼く」(καίω古代ギリシア語、κάω古代ギリシア語)に由来し、「船を焼く者」を意味する。
2. 『オデュッセイア』における役割
『オデュッセイア』において、ナウシカアーは主人公オデュッセウスの旅の重要な局面で登場し、彼の故郷への帰還に不可欠な役割を果たす。
2.1. スケリア島への漂着
トロイア戦争からの帰途、幾多の苦難を経験したオデュッセウスは、一つ目巨人ポリュペーモスの父である海神ポセイドーンの怒りを買い、乗っていた筏を嵐に吹き飛ばされてしまう。彼は身にまとうものもほとんどない状態で、伝説的な海洋民族であるパイアーケス族の住むスケリア島の海岸に漂着する。
2.2. オデュッセウスとの出会いと援助
アテーナー女神の夢のお告げを受けたナウシカアーは、侍女たちと共に海岸で洗濯をしていた。その時、彼女たちの遊びの騒がしさで目を覚ましたオデュッセウスが、森の中から全裸の姿で現れる。侍女たちは見慣れない男の姿に驚いて逃げ出すが、ナウシカアーだけは動じず、その場に留まった。オデュッセウスは彼女に助けを求め、ナウシカアーは不幸な英雄に心を動かされ、彼に衣服と食事を与え、町の入り口まで案内した。
ナウシカアーは、オデュッセウスが自分と一緒に町に入るとあらぬ噂が立つことを懸念し、彼に先に進んでアルキノオス王の宮殿へ向かい、特に家族の女家長である母アーレーテー王妃に事情を説明するよう助言した。アーレーテーはアルキノオスよりも賢明であると知られており、アルキノオスも彼女の判断を信頼していたためである。オデュッセウスはこの助言に従い、アーレーテーの承認を得て、アルキノオス王の客として迎え入れられた。


2.3. オデュッセウスとの関係
ナウシカアーはオデュッセウスに対し、明確な好意を抱いていた。彼女は友人に、彼のような男性を夫にしたいと語り、父アルキノオスもオデュッセウスに、もし望むならナウシカアーと結婚させても良いと伝えている。しかし、二人の間に恋愛関係が発展することはなく、オデュッセウスは故郷イタケーへ帰ることを望んだ。
ナウシカアーはまた、オデュッセウスにとって母のような存在としても描かれている。彼女は彼の帰郷を確実なものとし、「私を忘れないでください、私があなたに命を与えたのですから」と告げた。オデュッセウスは、長い帰路で出会った多くの女性たちの中で、ナウシカアーとの出会いについて妻ペーネロペーに語ることはなかった。これは、彼が若い王女に対してより深い感情を抱いていた可能性を示唆するとも解釈されている。
2.4. スケリア島での別れ
オデュッセウスはスケリア島での滞在中、アルキノオス王と宮廷の人々に自身の冒険談を語り聞かせた。この語りは『オデュッセイア』の大部分を構成する枠物語となっている。その後、アルキノオス王は惜しみない援助として、オデュッセウスを故郷イタケーへ送り届けるための船を提供した。ナウシカアーはオデュッセウスの旅立ちに際し、彼が国へ帰ってもいつか自分のことを思い出してほしいと告げ、別れを惜しんだ。
3. 人物描写
ナウシカアーは、『オデュッセイア』において、その外見と内面の両方において魅力的な人物として描かれている。
彼女は若く、非常に美しいと描写されており、オデュッセウスは彼女が女神アルテミスに似ていると述べている。この描写は、彼女の純粋さと神聖な魅力を強調している。
内面においては、ナウシカアーは賢明で積極的、そして思いやりのある女性として描かれている。全裸で現れた見知らぬ男(オデュッセウス)を前にしても冷静さを保ち、彼を助ける決断を下した行動は、彼女の勇気と優しさを示している。また、オデュッセウスを宮殿へ導く際に、世間の目を考慮して彼に別々に進むよう助言したことは、彼女の思慮深さを表している。
4. 後世の伝承と遺産
『オデュッセイア』以降、ナウシカアーの物語は様々な形で語り継がれ、彼女の生涯や役割に関する新たな伝承や文学的解釈が生まれた。
4.1. 結婚と発明
古代の記録によれば、アリストテレスやディクテュス・クレーテンシスの記述に基づき、ナウシカアーは後にオデュッセウスの息子テーレマコスと結婚したとされている。彼らの間には、ポリュポルテースやペルセポリスといった息子が一人または二人いたとされる。
また、ナウシカアーは文学作品中で最初に球技をしている人物として描写されていることから、紀元前2世紀の女性文法学者アガリスは、彼女が球技を発明したと主張した。ただし、ヘロドトスはリュディア人が球技を含む様々なゲームを発明したと記録しているため、この説には異論もある。
4.2. 『オデュッセイア』作者説
サミュエル・バトラーは、1892年の講演「ホメーロスのユーモア」において、『[[オデュッセイア』の真の作者はナウシカアーであるという結論を提示した。彼は、叙事詩の中で洗濯の場面が他のどの場面よりも現実的で生き生きと描かれていることを根拠に挙げ、女性が『オデュッセイア』を書いたという彼の仮説を、後に著書『オデュッセイアの女性作者』でさらに明確にした。ロバート・グレーヴスの1955年の小説『ホメーロスの娘』も、ナウシカアーを『オデュッセイア』の作者として描いている。
5. 文化的影響と現代における参照
ナウシカアーは、その魅力的な人物像と物語における重要な役割から、後世の文学、美術、音楽、映画、アニメーション、さらには科学やSF作品に至るまで、広範な文化領域に影響を与え、参照されてきた。
5.1. 文学と美術
ナウシカアーは、数多くの絵画作品の主題となってきた。
[[File:1950e697e74_fda17212.jpg|width=773px|height=1748px|thumb|left|フレデリック・レイトン作『ナウシカアー』(1878年)]]
[[File:197a1c43fbb_d7b16931.jpg|width=1184px|height=929px|thumb|right|ジャン・ヴェベール作『ユリシーズとナウシカアー』(1888年)]]
- ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバインは1819年に『オデュッセウスとナウシカアー』を描いた。
- フレデリック・レイトンは1878年に『ナウシカアー』を制作した。
- ジャン・ヴェベールは1888年に『ユリシーズとナウシカアー』を描いた。
- ロバート・ジャクソン・エマーソンも『ナウシカアー』という作品を残している。
- ウィリアム・マクレガー・パクストンも『オデュッセウスとナウシカアー』を描いている。
文学作品においては、ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』の一章で、ガーティ・マクダウェルというキャラクターがナウシカアーに対応する形でブルームを誘惑する場面が描かれている。ウィリアム・フォークナーの1927年の小説『蚊』では、クルーズ船に「ナウシカアー」という名前が付けられている。また、詩人デレク・ウォルコットの詩「シー・グレープス」にもナウシカアーへの言及がある。
この他にも、ナウシカアーを主題とした絵画作品が多数存在する。
[[File:194f933b7c6_91cfc2f9.jpg|width=2000px|height=1483px|thumb|left|シャルル・グレール作『オデュッセウスとナウシカアー』(制作年不詳)]]
[[File:197a1c4440d_46c3ab43.jpg|width=2123px|height=2829px|thumb|right|ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン作『オデュッセウスとナウシカアー』(1819年)]]
さらに、複数の画家がナウシカアーを主題とした作品を手がけている。
[[File:197a1c44caf_6f204e1a.jpg|width=4758px|height=6965px|thumb|left|ロバート・ジャクソン・エマーソン作『ナウシカアー』(制作年不詳)]]
[[File:197a1c43b37_62961b47.jpg|width=512px|height=457px|thumb|right|ウィリアム・マクレガー・パクストン作『オデュッセウスとナウシカアー』(制作年不詳)]]
5.2. 音楽
ナウシカアーは、多くの作曲家によって音楽作品の主題とされてきた。
- 1907年、ハンガリーの作曲家コダーイ・ゾルターンは、アランカ・バーリントの詩から着想を得て歌曲「ナウシカアー」を作曲した。コダーイは生涯を通じて古代ギリシアに特別な関心を持ち、言語を深く研究し、『イーリアス』や『オデュッセイア』の様々な版を読み込んでいた。彼は1906年にはオデュッセウスに関するオペラの構想を練り始めていたが、この計画から残されたのは歌曲「ナウシカアー」のみである。
- 1915年、ポーランドの作曲家カロル・シマノフスキは、ギリシア神話を題材とした交響詩集『メトープ』作品29を完成させた。この作品は、オデュッセウスが帰還の旅で出会う女性たちを各曲の主題としており、「セイレーンの島」「カリュプソー」「ナウシカアー」の3曲で構成されている。
- オーストラリアの作曲家ペギー・グランヴィル=ヒックスは、ロバート・グレーヴスが台本を手がけたオペラ『ナウシカアー』を作曲し、1961年のアテネ・フェスティバルで初演された。
- 2010年には、バンド「グラス・ウェーブ」が、ナウシカアーの視点から歌詞が書かれた楽曲「ナウシカアー」を録音している。
5.3. 映画とアニメーション
ナウシカアーは、複数の映画作品で描かれている。
- 1954年の映画『ユリシーズ』では、ロッサナ・ポデスタがナウシカアーを演じた。
- 1968年のイタリアのテレビミニシリーズ『L'Odissea』では、バーバラ・バックがナウシカアー役を務めた。
- 1977年のミニシリーズ『The Odyssey』では、ケイティ・カーがナウシカアーを演じた。
宮崎駿監督による1982年の漫画『風の谷のナウシカ』および1984年のアニメーション映画『風の谷のナウシカ』の主人公の名前は、間接的に『オデュッセイア』のナウシカアーからインスピレーションを得ている。宮崎は、バーナード・エヴスリンによるギリシア神話集の日本語訳で、自然を愛する人物として描かれたナウシカアーの記述を読み、それに日本の短編小説やアニミズムの要素を加えて、独自のキャラクターを創造した。
5.4. その他の参照
ナウシカアーの名前やキャラクターは、様々な分野で借用・引用されている。
- 1879年に発見された小惑星には、「(192) ナウシカアー」という名前が付けられた。
- 1991年にフランスのブローニュ=シュル=メールに開館した国立海洋センター「ナウシカアー」は、ヨーロッパ最大級の水族館の一つである。
- SFシリーズ『スタートレック』の宇宙には、「ナウシカアン」という背が高く、力強く、攻撃的なヒューマノイド種族が登場する。