1. 生い立ちと教育
1.1. 出生と家族背景
フローリアン・マリア・ゲオロク・クリスティアン・グラーフ・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、1973年5月2日に西ドイツのケルンで、ヘンケル・フォン・ドナースマルク家というシュレジエン発祥のローマ・カトリック貴族の家系に生まれた。「グラーフ」(Graf)は彼の姓名の一部ではなく、伯爵を意味する爵位である。彼はドイツとオーストリアの市民権を持っている。また、ドイツの映画監督アンナ・ヘンケル=ドナースマルクとは遠縁にあたる。
彼の父はマルタ騎士団ドイツ支部の元総長レオ=フェルディナント・ヘンケル・フォン・ドナースマルク、母は文芸スカウトのアンナ=マリア・フォン・ベルク伯爵夫人である。父方の叔父であるグレゴール・ヘンケル・ドナースマルクは、ウィーンの森にあるハイリゲンクロイツ修道院のシトー会修道院長を名誉職として務めており、フローリアンは『善き人のためのソナタ』の初稿を執筆するのに1ヶ月間この修道院で過ごした。また、彼の祖父であるフリードリヒ=カール・ヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵はトミストの哲学者であった。
幼少期はルフトハンザドイツ航空に勤める父の仕事の関係で、ニューヨーク、ベルリン、フランクフルト、ブリュッセルなど様々な都市で過ごした。この国際的な環境の中で、彼は英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語に堪能な多言語話者となった。現在はクリスティアーネ・アッシェンフェルトと結婚しており、クリエイティブ・コモンズの初代国際事務局長を務めた彼女との間に3人の子供(ララ・コジマ・ヘンケル・フォン・ドナースマルクなど)をもうけている。家族と共にロサンゼルスに在住している。彼の身長は2.05 mである。
1.2. 教育
ドナースマルクは、ブリュッセルの欧州学校ドイツ語部門を首席で卒業した。その後、サンクトペテルブルクの国立IS研究所で2年間ロシア語文学を学び、外国語としてのロシア語教師の国家試験に合格し、短期間ではあるがロシア語教師としても働いた。
1993年から1996年にかけて、イギリスのオックスフォード大学ニュー・カレッジで哲学、政治学、経済学(PPE)を専攻し、学士号を取得した。後に伝統に基づき修士号も授与されている。その後、ミュンヘン映画映像大学に入学し、映画監督としての専門教育を受け、映画監督の卒業証書を取得した。この大学は、ヴィム・ヴェンダースやローランド・エメリッヒ、マレン・アデなど、多くの著名な監督を輩出している。
2. 経歴
フローリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクのキャリアは、幼少期の映画体験から始まり、短編映画制作で頭角を現した後、国際的に評価される長編映画を次々と発表していった。
2.1. 初期キャリアと短編映画
ドナースマルクが映画に興味を抱いたのは、4歳か5歳だった1977年にニューヨーク近代美術館で初めて映画を観た時である。当時『ドリトル先生』を期待していた彼は、代わりにドイツのメロドラマ『ヴァリエテ』を観ることになり、この経験が彼の映画への関心の始まりとなったと語っている。
1996年には、リチャード・アッテンボロー監督の『ラブ・アンド・ウォー』で監督見習いを務めた。その後、ミュンヘン映画映像大学のフィクション監督クラスで学び、そこでマレン・アデらと同期として研鑽を積んだ。彼の最初の短編映画である『ドベルマン』(1999年)は、彼自身が脚本、製作、監督、編集の全てを手がけ、学生作品としては異例の数の賞を受賞し、学内記録を更新した。この作品は国際的な映画祭で高い評価を受け、ドナースマルクは1年以上にわたり映画祭を巡回した。
その他の初期の短編映画には、兄のゼバスティアン・ヘンケル=ドナースマルクと共同で監督した『ミッテラハト』(1997年)、『ダス・ダトゥム』(1998年)、『デア・テンプラー』(2002年)などがある。
2.2. 長編映画
ドナースマルクは、初期の短編映画での成功を足がかりに、世界的に高い評価を受ける長編映画を制作し、その地位を確立した。
2.2.1. 『善き人のためのソナタ』 (Das Leben der Anderen)

『善き人のためのソナタ』({{de|Das Leben der Anderen}})は、ドナースマルクが3年をかけて脚本執筆、監督、完成させた初の長編映画である。2006年3月にドイツで公開された。この作品は、東ドイツの秘密警察シュタージによる市民監視の実態と、それによって侵害される個人の人権、そして社会の抑圧下での人間の尊厳といったテーマを深く掘り下げている。
本作は批評家から絶賛され、数々の主要な映画賞を受賞した。2006年にはヨーロッパ映画賞で作品賞、男優賞、脚本賞を受賞。ドナースマルク自身も、ロサンゼルス映画批評家協会賞の外国語映画賞、ニューヨーク映画批評家協会賞の外国語映画賞、ドイツ映画賞の監督賞と脚本賞を受賞した。また、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞にノミネートされたほか、2007年の第79回アカデミー賞ではアカデミー国際長編映画賞を受賞し、ドナースマルクは33歳にしてオスカーを手にした。さらに、2007年には英国アカデミー賞の非英語作品賞、セザール賞の外国映画賞、ロンドン映画批評家協会賞の脚本賞と外国語映画賞も受賞している。この作品の成功により、ドナースマルクは2007年に映画芸術科学アカデミーの新たな会員115人の一人として招かれた。
2.2.2. 『ツーリスト』 (The Tourist)
『ツーリスト』({{en|The Tourist}})は、2010年に公開されたドナースマルクの第2作目の長編映画である。彼は、自殺をテーマにした暗い脚本の執筆から一時的に離れたいという思いから、わずか11ヶ月で本作の脚本を書き直し、監督、完成させた。
本作は、アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップが主演を務めるロマンティック・スリラーである。公開当初の興行成績は平凡であったものの、最終的には全世界で2.78 億 USDの興行収入を記録し、『ハリウッド・リポーター』誌から「国際的なヒット作」と称された。本作は、第68回ゴールデングローブ賞で作品賞(ミュージカル・コメディ部門)、ジョニー・デップの男優賞(ミュージカル・コメディ部門)、アンジェリーナ・ジョリーの女優賞(ミュージカル・コメディ部門)の3部門にノミネートされた。また、ティーン・チョイス・アワードでも3部門にノミネートされ、そのうち2部門で受賞を果たしている。
2.2.3. 『ある画家の数奇な運命』 (Werk ohne Autor)
『ある画家の数奇な運命』({{de|Werk ohne Autor}})は、2018年に公開されたドナースマルクの3作目の長編映画である。この作品は、著名なドイツ人画家ゲルハルト・リヒターの生涯を基にしており、芸術、歴史、トラウマといった複雑なテーマを探求している。特に、ナチス・ドイツ時代から東ドイツ時代を経て、現代に至るまでのドイツの歴史的背景と、それらが個人の人生や芸術表現に与える影響が描かれている。
本作は、第75回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞にノミネートされたほか、青年映画賞とレオンチーノ・ドーロ賞を受賞した。また、ハリウッド外国人映画記者協会によるゴールデングローブ賞にノミネートされ、第91回アカデミー賞ではアカデミー国際長編映画賞とアカデミー撮影賞の2部門でノミネートされた。ドイツ人監督によるドイツ語映画がアカデミー賞の複数部門でノミネートされるのは、ヴォルフガング・ペーターゼン監督の『U・ボート』以来36年ぶり史上2度目という歴史的な快挙であった。
さらに、第二次世界大戦後、北米の興行収入で100.00 万 USDを突破した数少ないドイツ語映画の一つとなり、ドナースマルクはクリスティアン・ペツォールトと共に、このリストに2作品がランクインした唯一の監督となった。オランダをはじめとする多くの国際市場では、『善き人のためのソナタ』以来最も成功したドイツ語映画となった。
2.3. 今後の作品
2022年には、アルコン・エンターテインメント製作の心理スリラー映画『Vent』の監督を務めることが発表されている。
3. 映画製作における思想とテーマ
フローリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクの映画製作における思想とテーマは、彼の作品群全体を通じて一貫して見られる。彼は、歴史的背景、特に全体主義体制下での個人の経験と、それが人間の精神や社会に与える影響を深く探求している。
彼の代表作である『善き人のためのソナタ』は、東ドイツのシュタージによる監視社会を描くことで、国家による人権侵害と個人の自由の抑圧というテーマを追求している。この作品では、監視される側だけでなく、監視する側の人間性にも焦点を当て、抑圧的なシステムの中でいかにして人間性が変容し、あるいは抵抗しうるかを描いている。これは、社会自由主義的な観点から、民主主義の価値、個人の尊厳、そして社会正義の重要性を訴える彼の信念を強く反映している。
また、『ある画家の数奇な運命』では、第二次世界大戦後のドイツの歴史と、それが芸術家の人生や創作活動に与える影響を考察している。ナチス・ドイツ時代から東ドイツ時代という激動の歴史を背景に、記憶、トラウマ、そして芸術が真実をいかに表現し、過去と向き合うかという問いを投げかけている。
ドナースマルクの演出スタイルは、細部にわたる綿密なリサーチと、俳優から最高の演技を引き出すことに定評がある。彼は、複雑な歴史的・社会的主題を、観客が感情移入しやすい人間ドラマとして描き出すことに長けている。彼の作品は、単なる歴史の再現に留まらず、普遍的な人間の条件、すなわち自由、愛、裏切り、そして赦しといったテーマを通じて、観客に深い思索を促すことを目指している。
4. 評価と影響
フローリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、その作品を通じて国際的に高い評価を受け、映画界に大きな影響を与えている。
4.1. 受賞歴
ドナースマルクは、そのキャリアを通じて数々の権威ある映画賞を受賞・ノミネートされている。
- 2020年 - ベルギー映画批評家協会グランプリ(『ある画家の数奇な運命』)
- 2018年 - ライデン国際映画祭観客賞(『ある画家の数奇な運命』)
- 2018年 - 第75回ヴェネツィア国際映画祭レオンチーノ・ドーロ賞(『ある画家の数奇な運命』)
- 2018年 - 第75回ヴェネツィア国際映画祭青年映画賞(『ある画家の数奇な運命』)
- 2013年 - ダボス世界経済フォーラムのヤング・グローバル・リーダーに選出
- 2011年 - ティーン・チョイス・アワード2部門受賞(『ツーリスト』)
- 2011年 - ティーン・チョイス・アワード3部門ノミネート(『ツーリスト』)
- 2011年 - ゴールデングローブ賞3部門ノミネート(『ツーリスト』)
- 2009年 - ダンテ・アリギエーリ協会功労金メダル
- 2008年 - 英国アカデミー賞4部門ノミネート(『善き人のためのソナタ』)
- 2008年 - セザール賞外国映画賞(『善き人のためのソナタ』)
- 2007年 - ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞(『善き人のためのソナタ』)
- 2006年 - ヨーロッパ映画賞作品賞、男優賞、脚本賞(『善き人のためのソナタ』)
- 2006年 - ドイツ映画賞監督賞、脚本賞(『善き人のためのソナタ』)
- 2006年 - ケルン・カンファレンス脚本家賞
- 2003年 - フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ財団短編映画賞(『デア・テンプラー』)
- 2002年 - ホーフ国際映画祭イーストマン賞(『デア・テンプラー』、ゼバスティアン・ヘンケル=ドナースマルクと共同受賞)
4.2. 批評的評価と影響力
ドナースマルクの作品は、批評家から高い評価を受けている。監督のハワード・デイヴィスは2010年の『ガーディアン』紙のインタビューで、ドナースマルクを最も尊敬する芸術家として挙げている。また、ジャーナリストのジェイ・ノードリンガーは、ダボス世界経済フォーラムでドナースマルクと会った後、『ナショナル・レビュー』誌に「地球上で最も印象的な人物の一人」と評した。
彼の代表作『善き人のためのソナタ』は、欧州文化に関する大規模調査「ヨーロッパ・リスト」において、ロベルト・ベニーニ監督の『ライフ・イズ・ビューティフル』に次ぐ、欧州文化における最高の映画第2位に選ばれた。また、カイル・スミスは『ナショナル・レビュー』誌で、ドナースマルクの『ある画家の数奇な運命』を2010年代のベスト映画第1位にランク付けしている。
劇作家のルネ・ポレシュは、ドナースマルクを風刺する戯曲『L'Affaire Martin!』を執筆したが、ドナースマルクの両親がその公演を鑑賞し、舞台裏で「気に入った」と伝えたという逸話もある。
4.3. 栄誉と勲章
フローリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、その優れた業績を称えられ、複数の勲章や栄誉を授与されている。


彼は、バイエルン功労勲章のコマンダー章と、ノルトライン=ヴェストファーレン州功労勲章のコマンダー章を授与されている。
2011年には、母校であるオックスフォード大学から、10世紀にわたる歴史の中で最も傑出した100人の卒業生の一人として表彰された。大学は、オックスフォードの歴史的中心部にある100の通りをこれらの卒業生にちなんで改名し、アッパー・オックスペンズ・ロードはドナースマルクにちなんで名付けられた。
5. フィルモグラフィー
フローリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクが監督、脚本、製作、または編集として参加した作品を以下に示す。
年 | 日本語題 | ||
---|---|---|---|
1997 | Mitternacht | 監督・脚本・製作・編集 | 短編映画、兄のゼバスティアン・ヘンケル=ドナースマルクと共同監督 |
1998 | Das Datum | 監督・脚本・製作・編集 | 短編映画、兄のゼバスティアン・ヘンケル=ドナースマルクと共同監督 |
1999 | Dobermann | 監督・脚本・編集 | 短編映画 |
2002 | Der Templer | 監督 | 短編映画、兄のゼバスティアン・ヘンケル=ドナースマルクと共同監督 |
2004 | Petits mythes urbains | 監督 | テレビシリーズ、エピソード「Témoin à charge」 |
2006 | 善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen | 監督・脚本・共同製作 | 長編映画 |
2010 | ツーリスト The Tourist | 監督・脚本 | 長編映画 |
2018 | ある画家の数奇な運命 Werk ohne Autor | 監督・脚本・製作 | 長編映画 |