1. 概要
ギリシア神話におけるヘレノス(Ἕλενοςヘレノス古代ギリシア語、Helenusヘレノスラテン語)は、トロイアのプリアモス王とヘカベー王妃の息子であり、預言者カッサンドラーの双子の兄弟である。彼は賢明で穏やかな人物として描かれ、その預言能力は兄妹のカッサンドラーとは異なり、人々に信頼された。トロイア戦争では武将として戦い、トロイア陥落の鍵となる重要な予言をギリシア軍に伝えた。戦後も生き残り、エーペイロスに王国を築き、後にアイネイアースがローマを建国する予言を与えたことでも知られる。
2. 生い立ちと予言の能力
ヘレノスはトロイアの王プリアモスと王妃ヘカベーの子として生まれた。兄にはトロイアの総大将ヘクトールやパリス、デーイポボスらがおり、妹には予言者カッサンドラーがいた。ヘレノスとカッサンドラーは双子の兄弟であると伝えられる。
2.1. 予言能力の獲得
最も古い伝承では、ヘレノスと妹カッサンドラーは、彼らの耳を蛇が舐めたことでアポローンから予言の力を授かったとされている。別の説では、ヘレノスはカッサンドラーから予言の術を学んだともいわれる。カッサンドラーの預言はアポローンの呪いによって誰にも信じられなかったが、ヘレノスの預言は常に真実であり、人々から信頼されたという点で彼女とは対照的であった。また、あるトラーキアの予言者によって、スカマンドリオスという元々の名からヘレノスに改名されたとも伝えられる。
2.2. 初期における予言
トロイア戦争以前、あるいは戦争のごく初期に、ヘレノスは重要な予言を行っていた。彼は、パリスがギリシア人の妻(すなわちヘレネー)をトロイアに連れ帰るならば、アカイア人がトロイアを追い詰め、両親や兄弟たちを殺害することになるだろうと予言した。また、別の伝承では、トロイアの王子トロイロスが20歳になる前に命を落とせば、ギリシア軍が勝利するだろうとも予言している。トロイロスは後にネオプトレモスによって討たれた。
3. トロイア戦争における役割
ヘレノスはトロイア戦争において、予言者としてだけでなく、武将としても重要な役割を果たした。
3.1. 軍事的な関与
ホメロスはヘレノスを最も偉大なアウグル(予言者)と称している。彼はトロイア軍の指揮官の一人であり、戦士としても奮戦した。トロイア軍がディオメーデースの活躍によって苦戦した際、ヘレノスはヘクトールに、イーリオス城に戻ってアテーナーの神殿に祈りを捧げるよう助言した。また、ヘクトールに対し、ギリシア軍の武将に決闘を申し込むよう促し、テラモーンのアイアースがこれに応じた。
『イーリアス』によれば、ヘレノスはデーイポボスとともにトロイア軍の第三部隊を指揮し、ギリシア軍の防壁を攻撃した。この戦いで彼はデーイピュロスを討ち取ったが、メネラーオスの槍に手を貫かれて後退を余儀なくされ、アゲーノールによって手当てを受けた。彼はヘクトールが率いるトロイア軍の一部として、トロイアの西の平野からギリシア軍を押し戻し、その陣営を攻撃する戦いにも参加している。
3.2. 予言と捕獲
トロイア戦争の終盤、兄パリスの死後、ヘレノスはヘレネーをめぐって兄弟のデーイポボスと争った。しかし、プリアモス王はデーイポボスをヘレネーの夫に選んだため、この決定に不満を抱いたヘレノスはイーデー山へと引きこもった。しかし、彼はトロイアを攻略する方法を知っていたため、オデュッセウスによって捕らえられた。資料によっては、ヘレノスは拷問や強制によって、あるいは激しい恨みから渋々、ギリシア軍にトロイアを陥落させるための決定的な条件を明かしたとされる。
3.3. トロイア陥落の条件
ヘレノスがギリシア軍に明かしたトロイア陥落のための条件は、主に以下の三つであった。
- トロイアの守護像であるパラディオンを盗み出すこと。
- ペロプスの骨をトロイアへ持ち込むこと。
- アキレウスの息子であるネオプトレモスと、ヘーラクレースの弓矢を所持するフィロクテテスを戦争に加えること。
これらの条件が満たされた場合のみ、ギリシア軍は勝利できるとヘレノスは述べた。当時ネオプトレモスはスキュロス島に隠れていたが、ギリシア軍は彼を説得して戦いに引き入れた。フィロクテテスもまた、彼の持つ強力な弓矢がトロイア攻略に不可欠とされ、ギリシア軍に呼び戻された。
4. トロイア戦争後の生涯
トロイア戦争の終結後、ヘレノスの人生は大きく変化し、彼の予言の功績によって許され、新たな地で重要な役割を担うこととなった。
4.1. ネオプトレモスおよびアンドロマケーとの同行
トロイア陥落後、ネオプトレモスはヘクトールの未亡人でありヘレノスの義理の姉妹であるアンドロマケーを奴隷兼妾として連れ去り、彼女との間にモロッソス、ピエロス、ペルガモスの3人の息子をもうけた。ヘレノスもまたネオプトレモスに同行し、彼らと共にエーペイロスへと旅立った。エーペイロスでは、ネオプトレモスの許可を得てブトロトゥムの都市を建設した。ネオプトレモスがエーペイロスを離れた後、彼はアンドロマケーと息子たちをヘレノスの世話に委ねた。
4.2. エーペイロスでの統治
ネオプトレモスは、メネラーオスとヘレネーの娘ヘルミオネーを妻とすることをオレステースに約束されていたにもかかわらず、彼女を連れ去ったため、オレステースによって殺害された。ネオプトレモスの王国が分割された際、ヘレノスはブトロトゥムの支配権を獲得し、王となった。『アエネーイス』には、「プリアモスの息子ヘレノスは、ネオプトレモスの王位と寝台を継承し、エーペイロスのこれらのギリシア諸都市の王であった」と記されている。
ヘレノスはアンドロマケーを妻として、息子ケストリーノスをもうけた。一部の神話学者によれば、ヘレノスはネオプトレモスの母デーイダメイアも妻として与えられ、これによってネオプトレモスの王国に対する彼の支配権が強固になったとされている。ヘレノスは自分の兄弟の名前から、その地をカオニアと名付けたとも言われる。その後、エーペイロスの支配者となったヘレノスは、ネオプトレモスとアンドロマケーの息子であるモロッソスを後継者とした。ケストリーノスは後にティアミス川を渡り、北方の地に移住したと伝えられている。
4.3. アイネイアースへの予言
ヘレノスは、アイネイアースとその一行がブトロトゥムに立ち寄った際、彼らに重要な助言と予言を与えた。特に、アイネイアースによるローマ建国を予言したことは特筆されるべきである。この予言はウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』第3巻に詳しく記述されている。
5. その他の神話
ヘレノスには、上記の主要な物語以外にもいくつかの伝承が残されている。
5.1. ヘカベーの運命
ある伝承では、トロイア戦争後、ヘレノスは母ヘカベーを引き取り、共にケルソネーソスへと渡ったとされる。そこでヘカベーは牝犬に変えられ、ヘレノスは彼女を「犬の墓(キュノスセーマ)」と呼ばれる場所に葬ったという。
5.2. 後世の記述と異伝
神話の異伝の一つには、アガメムノーンがトロイアを裏切った者たちを召集し、約束を果たすというものがある。この中で、ヘレノスとカッサンドラーは、常にプリアモスに和平を訴え、ヘレノスがアキレウスの遺体を埋葬のために返還するよう働きかけた功績が認められた。そのため、アガメムノーンは評議会の助言に従い、ヘレノスとカッサンドラーを解放した。ヘレノスは、ヘカベーとアンドロマケーが常に自分を愛してくれたことを思い出し、アガメムノーンに彼女たちの解放を請願。評議会の助言により、この二人の女性も解放された。伝承によれば、この四人は1,200人の追随者と共にトラーキアのケルソネーソスに移住し、そこに定住したという。
ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』(1136年頃)では、ヘレノスは他の多くのトロイア人たちと共に、アキレウスの死の報復としてネオプトレモスに捕らえられ、鎖につながれてギリシアへ連行されたと記されている。ネオプトレモスの命により、彼らとその子孫は数世代にわたって奴隷の身分に置かれたが、パンドラソス王の時代にトロイアのブルトゥスによって解放されたとされている。
6. 系図
ヘレノスとその親族の主要な関係を以下に示す。
祖先 | 親 | 兄弟姉妹 | 配偶者 | 子 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
ゼウス | ダルダノス | ダルダノスはゼウスの子 | |||
スカマンドロス | テウクロス | スカマンドロスはトロイアの河神 | |||
ダルダノス | エリクトニオス | ||||
エリクトニオス | トロース | ||||
トロース | イーロス | ||||
アッサラコス | カピュス | ||||
イーロス | ラーオメドーン | ||||
カピュス | アンキーセース | ||||
ラーオメドーン | プリアモス | プリアモスはトロイア最後の王 | |||
プリアモス | ヘレノス | ヘクトール | アンドロマケー | ケストリーノス | ヘレノスは予言者 |
ネオプトレモス | モロッソス | モロッソスは後にヘレノスの後継者となる |
7. 後世への影響と評価
ギリシア神話におけるヘレノスの人物像は、その穏やかで賢明な性格、そして何よりも彼の予言能力によって際立っている。妹カッサンドラーとは異なり、彼の預言が常に人々に信じられたという特異な立場は、彼を単なる予言者以上の存在にしている。トロイア戦争において彼が示した予言は、トロイア陥落の条件という形で物語の転換点となり、ギリシア軍の勝利に不可欠な情報を提供した。これは、彼の言葉が神の意思を正確に伝えるものとして、両陣営から重要視されたことを示唆している。
また、トロイア戦争後の彼の生涯もまた、神話における彼の重要性を裏付ける。トロイア陥落後も生き残り、エーペイロスに新たな王国を築いたことは、彼の生存能力と指導者としての資質を示す。特に、ローマ建国の祖とされるアイネイアースに対し、その旅路と未来を予言したエピソードは、彼が単一の戦争の枠を超え、より広範な歴史的・神話的出来事に影響を与えたことを強調している。ヘレノスは、知恵と先見の明を持つ人物として、後世の文学作品や文化において、なくてはならない助言者や導き手の役割を担う存在として評価され続けている。