1. 生涯と即位
1.1. 出生と家族関係
久尓辛王は、百済の第18代国王である腆支王(전지왕チョンジワン韓国語)の長男として生まれた。母は八須夫人(팔수부인パルスブイン韓国語)であり、近年の研究では彼女が倭人(日本人)であった可能性が指摘されている。
彼の諱(いみな)は映(映エイ中国語)であるとされ、『梁書』や汲古閣本『宋書』にその記述が見られる。この諱は従来、腆支王のものと考えられていたが、『三国史記』、『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』などの史料を比較検討した結果、久尓辛王の諱であるという見解が有力視されている。
一部の記録では、久尓辛王は父である腆支王(扶餘映)が薛礼の反乱の報を聞き、西海の島に一時滞在していた時期に生まれたと推測されている。
1.2. 即位までの経緯
久尓辛王は、父である腆支王の薨去に伴い王位を継承した。即位時期については諸説あるが、『日本書紀』の記述によれば、彼は即位時にまだ幼く、若年であったと伝えられている。この若年での即位が、彼の治世における摂政の存在に繋がったと考えられている。
2. 治世
久尓辛王の治世は、史料によってその期間や内容に大きな差異が見られる。特に国内情勢は摂政の存在によって複雑な様相を呈し、対外的には中国南朝の宋との関係構築に努めた。
2.1. 在位期間の諸説
久尓辛王の在位期間については、史料間で異なる記述が存在する。『三国史記』によれば、彼は420年3月に即位し、427年12月に薨去したと記されており、在位期間は8年間と計算される。しかし、『三国史記』には即位と薨去の記録のみで、具体的な治績に関する記述はほとんどない。
これに対し、より同時代に近い中国の史料に基づいた歴史家J.W.ベストの研究では、414年から429年または430年までの在位がより妥当であると示唆されている。『梁書』や汲古閣本『宋書』、そして『日本書紀』に引用された『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』などの記事を比較することで、彼の治世の内容と年代を特定することが可能である。
2.2. 対外関係と冊封
久尓辛王の治世において、百済は中国南朝との外交関係を重視した。
416年には、東晋から「使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」に冊封された。
その後、420年に東晋に代わって南朝宋が成立すると、彼は「鎮東大将軍」へと将軍号を進号された。
424年には、久尓辛王は宋の朝廷に使節を送り、朝貢を行った。
425年(南朝宋の太祖の元嘉2年)、『宋書』百済伝には、百済王(映)が毎年の忠節を顕彰され、その後も毎年朝貢を続けていたことが記されている。
宋とのこのような関係は、当時高句麗が北方の諸王朝と関係を築いていたことに対し、百済が南朝との連携を通じて勢力均衡を図る意図があったとされている。
2.3. 摂政と国内情勢
『日本書紀』の記述によれば、久尓辛王は即位時に若年であったため、木羅斤資の子である木満致(목만치モクマンチ韓国語)が国政を執る摂政を務めた。
一部の記録では、木満致の摂政による統治は、高麗の穆宗時代の千秋太后による乱政に類似するほど混乱していたと示唆されている。
後に毗有王が木満致勢力を排除するための反政(クーデター)を起こしたとされ、久尓辛王はこの反政の最中に木満致または毗有王のいずれかの勢力によって殺害されたと推測する見方もある。
2.4. 主要な出来事
久尓辛王の治世中に発生した具体的な出来事としては、以下が挙げられる。
- 417年7月、東北辺に沙口城(사구성サグソン韓国語)を築城し、再び高句麗への対抗態勢を整えた。
- 428年、倭(日本)へ腆支王の妹である新斉都媛(シンセイトヒメ)と7人の女性を派遣した。この出来事は『日本書紀』に記録されている。
3. 将軍号
南朝宋の劉裕は、420年の即位翌月に人事を行った。この人事には朝鮮半島に関わるものも含まれており、征東将軍であった高句麗王高璉を征東大将軍に、鎮東将軍であった百済王久尓辛王を鎮東大将軍にそれぞれ昇格させた。
これらの将軍人事は、徐州や雍州の刺史(地方長官)など、宋国内の対北方関連の任命と同時に行われており、当時の宋の実際の勢力範囲を反映している。高句麗と百済がこの人事に含まれていたことは、宋が両国を単なる外国としてではなく、宋国内の将軍と同列に扱っていたことを示唆しており、宋が両国に軍事的な期待を寄せていた様子がうかがえる。これは、新王朝成立の記念や来朝を促す目的だけでなく、宋が軍事戦略上、両国を重視していたことを意味する。
4. 家族
4.1. 親族
- 父:腆支王(전지왕チョンジワン韓国語)
- 母:八須夫人(팔수부인パルスブイン韓国語) - 真氏(진씨ジンシ韓国語)出身。
4.2. 王位継承と毗有王との関係
久尓辛王の薨去後、太子として王位を継いだのは毗有王(비유왕ピユワン韓国語)である。
しかし、『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分註には、毗有王が久尓辛王の長子であるという説と、腆支王の庶子(すなわち久尓辛王の異母弟)であるという説が併記され、「未知孰是」(どちらが正しいか分からない)と記されている。
現代の歴史学では、久尓辛王が比較的若くして亡くなったことを考慮すると、毗有王がその実子として王位を継承するには年齢的に無理があるため、分註に記された「腆支王の庶子(久尓辛王の異母弟)説」がより妥当であると考えられている。
また、日本の史料である『新撰姓氏録』には、久尓辛王の子として扶餘酒(부여주プヨジュ韓国語)が、そして扶餘酒の子として毗有王が記されており、異なる系譜の可能性も提示されている。
5. 歴史的評価と史料の解釈
5.1. 史料間の相違点
久尓辛王に関する歴史的記録は、史料間で顕著な相違点が見られる。
『三国史記』は、彼の在位期間(420年 - 427年)と即位・薨去の事実のみを簡潔に記し、具体的な治績や国内情勢についてはほとんど触れていない。
これに対し、中国の同時代史料や『日本書紀』は、彼の治世に関するより詳細な情報を提供しており、在位期間についても414年から429年または430年とする異なる見解を示している。特に『宋書』百済伝では、久尓辛王の名が省略され、腆支王から直接毗有王へと記述が移る箇所があり、この時代の百済王統の把握を困難にしている。
『日本書紀』は、久尓辛王の若年即位とそれに伴う木満致の摂政、そして倭への女性派遣といった国内および対外関係の具体的な出来事を伝えており、他の史料を補完する重要な情報源となっている。
また、後継者である毗有王との血縁関係についても、実子説と異母弟説が併存しており、史料間の記述の不一致が歴史的解釈の論争点となっている。
5.2. 後世の評価と論争
『三国史記』における記録の少なさから、久尓辛王の治世は、彼の直接的な統治能力よりも、摂政木満致の影響が大きかった時代として評価されることが多い。
木満致の統治が「乱政」と評される記録があることは、この時期の百済国内に政治的な不安定さや権力闘争が存在したことを示唆している。
久尓辛王の死因が、毗有王による木満致派に対する「反政」(クーデター)の過程で生じた可能性が指摘されていることは、彼の治世が単なる空白期間ではなく、激しい政治的変動の時期であったことを物語っている。
毗有王との血縁関係に関する論争は、久尓辛王の治世の評価だけでなく、百済の王位継承の正当性や当時の政治構造を理解する上で重要な課題であり、断片的な史料から歴史を再構築することの難しさを浮き彫りにしている。