1. 生涯
伍秉鑑の生涯は、その出生から教育、そして家業の継承に至るまで、広東十三行の豪商としての地位を確立する過程であった。
1.1. 出生と幼少期
伍秉鑑の祖籍は福建省泉州府晋江県安海にあり、伍氏一族は康熙年間初期に泉州から広州に移住し、福建と広東の間で茶の商売に従事していた。彼の父である伍国栄(または伍国宝、Wu Guoyingウー・グオイン中国語)は、広東十三行の商人であった潘振承の会計係を務めていた。伍国栄は1783年に元順行の経営に加わり、1792年には息子の伍秉鈞に事業を継承させた。伍秉鑑の父もまた、西洋商人からは「浩官(Howqua I英語)」と呼ばれており、この通称は後に伍秉鑑に受け継がれることとなる。
1.2. 教育
伍秉鑑の公式な教育や特定の師に関する詳細な記録は、現存する資料からは明確ではない。しかし、彼は家業を通じて商業の実践的な知識と経験を積み、事業家としての基盤を築いたと考えられる。彼の商業的成功と理財能力は、非公式な教育や実地での学習を通じて培われたものであると推測される。
1.3. 初期キャリア形成
伍秉鑑の兄である伍秉鈞は、父から引き継いだ事業経験を基に怡和行を創立した。しかし、伍秉鈞が35歳で病死したため、怡和行の経営は弟である伍秉鑑が継承することになった。この継承により、伍秉鑑は怡和行の当主となり、本格的に中西貿易の世界へと足を踏み入れた。彼は父から受け継いだ「浩官」という商業名(浩官Hao Guan中国語(閩南語発音: Hō-koaⁿnan)に由来)を使い、西洋商人からは「Howqua英語」として広く知られるようになった。
2. 主要な活動と業績
伍秉鑑は、怡和行の経営を通じて中西貿易で重要な役割を果たし、巨万の富を築いた一方で、アヘン貿易への関与という批判的な側面も持っていた。
2.1. 怡和行(Ewo hong)の経営
伍秉鑑が主宰した怡和行は、広東十三行の中でも特に重要な地位を占める商館であった。彼は広東の貿易ギルドである公行の指導者の一人でもあり、広東システム(公行制度)の下で、茶、絹、陶磁器といった中国の主要輸出品を西洋商人に販売する独占的な権利を事実上持っていた。この独占的な貿易体制が、怡和行に莫大な利益をもたらし、その規模を拡大させた。
2.2. 中西貿易における役割

伍秉鑑は、19世紀半ばのアヘン戦争期において、イギリス帝国との貿易を通じて巨万の富を築いた。彼は広東の公行商人の中でも最上位に位置し、外国人と絹や陶磁器を取引することを許された数少ない商人であった。彼の商業手腕は、ジェームズ・マセソン、ウィリアム・ジャーディン、サミュエル・ラッセル、エイベル・アボット・ロウといった当時の世界的に著名な西洋商人たちとの緊密な関係を築く上で重要な役割を果たした。彼の肖像画は、彼からの援助に感謝するアメリカ人商人によって建てられたマサチューセッツ州セーラムやロードアイランド州ニューポートの邸宅に今も飾られている。
2.3. 財政的地位と富
伍秉鑑は19世紀の中国において最も裕福な人物であり、当時の世界でも有数の富豪と称された。彼の資産は最大で2600.00 万 silver dollarに達したと推定されている。彼の財産規模を示す逸話として、1822年に広東十三行の多くの商館が焼失した大火災の際、溶け出した銀が長さ約3219 m (2 mile)にも及ぶ小さな川を形成したと伝えられている。この出来事は、彼の持つ莫大な富と、それが当時の社会に与えた衝撃を象徴している。
2.4. 阿片貿易と戦争関連の活動
伍秉鑑の怡和行は、1801年にはアヘンの密輸に関与していた。彼はアヘン貿易を通じて多大な利益を得ていたが、林則徐によるアヘン取締政策に対しては、明確な態度を示すことなく、やや及び腰であったとされている。しかし、アヘン戦争が勃発すると、彼は多額の財産を清朝政府に献納し、防衛隊を組織するなど、戦争遂行に財政的に貢献した。1842年の南京条約により清朝政府がイギリスに支払うことになった賠償金2100.00 万 silver dollarのうち、広東十三行が負担することになった300.00 万 silver dollarの約3分の1、すなわち100.00 万 silver dollarを伍秉鑑が単独で供出したとされている。これらの活動は、彼の財政力と、当時の清朝政府における彼の重要性を示しているが、同時にアヘン貿易への関与という倫理的な問題も浮上させた。
3. 私生活
伍秉鑑の私生活に関する公的な情報は限られているが、彼の息子である伍崇曜(Wu Chongyaoウー・チョンヤオ中国語、別名:伍紹栄)は、後に『粤雅堂叢書』を編纂するなど、学術的な業績も残している。伍秉鑑の事業は彼の死後、息子たちに引き継がれたが、その後の家族の財産や事業の行方は、清朝末期の混乱の中で大きく変遷していくこととなる。
4. 死去
伍秉鑑は、南京条約が締結された翌年の1843年9月4日に広州で病没した。彼の死は、広東十三行と公行制度の終焉とほぼ時を同じくしており、清代の中西貿易における一つの時代の終わりを告げるものであった。
5. 評価と遺産
伍秉鑑に対する歴史的評価は、その商業的成功とアヘン貿易への関与という二つの側面から多角的に行われ、彼の死後もその影響は後世に及んだ。
5.1. 肯定的評価
伍秉鑑は、その優れた商業的才能と理財能力により、当時の西洋商人から「理財に優れ、人並み以上に聡明」と賞賛された。彼は中西貿易において重要な役割を果たし、茶や絹の貿易を通じて巨万の富を築き、清朝の経済に大きく貢献した。彼の商業手腕は、当時の中国におけるビジネスの規範となり、その名声は国境を越えて広まった。
5.2. 批判と論争
一方で、伍秉鑑の事業活動、特にアヘン貿易への関与は、倫理的、社会的な問題として批判の対象となっている。彼はアヘン密輸から莫大な利益を得たが、これは中国社会に深刻な影響を与えたアヘン問題の一因となった。また、彼が「生来気弱な性格」であったという評価もあり、アヘン取締政策に対する彼の態度や、戦争中の政府への貢献が、自己保身や事業の維持を目的としたものであったという見方も存在する。
5.3. 後世への影響
伍秉鑑の死後、そして南京条約による広東十三行の解体後、彼の家族と事業の系譜は急速に衰退した。彼の国際的な投資を扱っていたアメリカの商社ラッセル商会は1891年に崩壊し、伍秉鑑の子孫は現在では一般市民となっている。かつて広大で美しい邸宅であった伍氏の屋敷も、現在では広州の貧しい地区にあり、その痕跡はほとんど残されていない。
しかし、彼の事業の遺産は完全に消え去ったわけではない。南京条約後も、ジャーディン・マセソン商会は中国語名称として「怡和(Ewo英語)」を使用し続けた。これは、怡和行が築いた信頼とブランド価値が、西洋の企業にも影響を与えたことを示している。また、伍秉鑑の時代に広東十三行と公行が大きく繁栄したことで、清朝の貿易利益に大きく貢献し、広州は世界で最も重要な都市の一つへと発展した。オーストラリアのビクトリア州マンスフィールドから23 km離れたエイルドン湖東岸にある集落は、ビクトリア州のゴールドラッシュ時にこの地域を通過した中国人鉱夫によって、彼にちなんで「Howqua英語」と名付けられた可能性がある。さらに、1844年には彼の名にちなんだクリッパー船「Houqua英語」号も建造されている。