1. 生涯と背景
千金公主は6世紀の人物で、北周の趙王・宇文招(宇文招ユーウェン・ジャオ中国語)の娘として生まれた。彼女は北周宣帝の従妹にあたる。その生年は不詳だが、北周皇室の公主として育ち、後に中原の王朝と北方遊牧民族である突厥との間の重要な政治的橋渡し役となる運命を背負った。
2. 婚姻と政治活動
千金公主の生涯は、相次ぐ婚姻を通じて北周、突厥、そして隋という三大勢力間の政治的関係を大きく左右した。彼女は複数の突厥カガンと立て続けに婚姻を結ぶ中で、祖国の興亡や家族の悲劇に直面しながらも、時には自らの意志で、時にはその立場上、重要な外交的役割を果たした。
2.1. タスバル・カガンとの婚姻
579年、北周は突厥との同盟を強化するため、タスバル・カガン(Taspar Qaghanタスバル・カガン英語)との婚姻を望んだ。北周の宣帝は、突厥に亡命していた北斉の皇子を引き渡す代わりに、自身の姪にあたる千金公主をタスバル・カガンに嫁がせた。タスバル・カガンと千金公主は、遊牧民族に伝わる継続的な婚姻の慣習に従って結ばれた。しかし、その年遅く、北周は隋によって滅ぼされ、隋王朝が成立した。この動乱の中で、千金公主の父である宇文招、そして三人の兄弟と二人の叔父が処刑されるという悲劇に見舞われた。家族が殺戮されたことに深く悲しんだ千金公主は、タスバル・カガンに対し、台頭する隋を攻撃するよう強く説得を試みた。
2.2. イシュバラ・カガンとの婚姻と隋との同盟
タスバル・カガンの死後、千金公主は彼の後継者であるイシュバラ・カガン(Ishbara Qaghanイシュバラ・カガン英語)と婚姻を結んだ。彼女はイシュバラ・カガンを説得し、582年に隋への攻撃を決行させた。突厥軍は瀛州(瀛州インジョウ中国語)の官吏であった高宝寧と協力して隋を攻撃し、これを受けて隋は長城(万里の長城)の要塞化を進めた。
隋はイシュバラ・カガンとの同盟を望み、イシュバラ・カガンも使節を派遣してこれに応じた。しかし、この動きはアパ・カガン(Apa Qaghanアパ・カガン英語)とダ・ルオビアン(大邏便だらべん中国語)の怒りを買い、彼らは結託してイシュバラ・カガンを打ち破った。これに対し、千金公主は隋の文帝に書簡を送り、和解への第一歩として自らの服従の意を表明した。文帝との文通を通じて、イシュバラ・カガンは文帝を千金公主の父と見なし、それにより文帝が自らの義父となり、突厥と隋が同盟関係を結ぶことを提案した。文帝はこの条件を受け入れ、「娘」である千金公主を訪問するため使節を派遣した。文帝はさらに千金公主の名前を大義公主に改め、隋の皇族である楊氏の姓を賜った。大義公主はその後も隋に外交的助言を与え続け、イシュバラ・カガンの義理の息子としての地位を示す儀礼的な要求をしないよう隋に促した。
2.3. トゥラン・カガンとの婚姻と対立の深化
587年にイシュバラ・カガンが死去した後、その弟であるチュルオフウ(Chuluohouチュルオフウ英語)が一時的に突厥を統治した。翌588年にチュルオフウが死去すると、大義公主は三度目の婚姻として、イシュバラ・カガンの子であり新たな支配者となったトゥラン・カガン(Tulan Qaghanトゥラン・カガン英語)と結ばれた。
593年、隋から突厥に亡命した人物が、かつての北周の支配者である宇文氏一族が隋への攻撃を企てているという虚偽の主張を行った。これらの噂は事実ではなかったものの、この主張によって大義公主の婚姻関係、ひいては彼女の立場が傷つけられた可能性がある。
3. 詩と悲嘆
589年、隋の文帝は、最近滅亡させた南朝陳の宮中にあった屏風を大義公主に下賜した。この贈り物は大義公主を深く落胆させ、彼女は自らの悲しみを表現する詩を詠んだ。その詩は『叙亡詩』(じょぼうし)と題され、亡国となった陳の運命を、彼女自身の祖国である北周の滅亡と重ね合わせ、自身の悲劇的な運命を表現したものであった。
文帝がこの詩を知ると、彼は不快感を抱き、大義公主を殺害しようと画策するようになった。また、彼女が西方突厥と再び接触しているとの疑いも浮上し、文帝は隋への攻撃を恐れるようになった。
4. 死
593年、トゥラン・カガンの弟である啓民可汗(Yami Qaghanヤミ・カガン英語)が、先妻の死後、隋との婚姻同盟を求めて接触してきた。隋はこれに対し、大義公主の殺害を同盟の条件として突きつけた。隋の文帝は裴矩(裴矩ペイ・ジュ中国語)を派遣し、この厳しい条件を啓民可汗に伝達させた。
最終的に、啓民可汗の説得を受けたトゥラン・カガンは激怒し、自身の天幕内で大義公主を殺害した。この決定の理由については複数の説がある。一部の史料では、彼女がトゥラン・カガンについて陰口を叩いたためとされており、また別の史料ではトゥラン・カガンが中傷された結果であるとされている。さらに、彼女が姦通を犯したためだとする主張もある。
トゥラン・カガンもまた隋の女性との婚姻を求めたが、これは拒否された。その後の開皇17年(597年)に、啓民可汗は隋から安義公主を娶っている。大義公主の死は、この安義公主との婚姻が実現する前提条件であった。
5. 評価と遺産
千金公主こと大義公主の生涯は、6世紀末から7世紀初頭にかけての中国と突厥の関係史において極めて重要な意味を持つ。彼女は、単なる政治的駒としてではなく、祖国の滅亡、家族の殺戮、そして自身の改名と裏切りという、激動の時代における個人的な悲劇と、その中で外交の舞台に立ち続けた女性の姿を体現した。
彼女が詠んだ『叙亡詩』は、失われた故郷への深い悲嘆と、異国の地で生きる自身の孤独を表現しており、その詩的な側面から、権力闘争の犠牲となった一個人の苦悩を後世に伝えている。隋の文帝による彼女の殺害は、当時の中国王朝が周辺民族との関係を優位に進めるため、いかに非情な手段を用いたかを示す事例であり、彼女の死は外交における政治的冷徹さの象徴となった。
大義公主は、外交政策の道具とされながらも、自らの信念を貫き、詩を通じて内なる感情を表現した点で、歴史にその名を刻んでいる。彼女の遺産は、当時の中国と北方民族の複雑な力学、そしてその中で翻弄された個人の運命を理解するための貴重な史料となっている。