1. 概要
小獣林王(소수림왕ソスリムワン韓国語、小獸林王ショウジュリンオウ韓国語、生年不詳 - 384年)は、高句麗の第17代国王(在位:371年 - 384年)です。諱は丘夫(구부クブ韓国語、丘夫キュウフ韓国語)で、小解朱留王(소해주류왕ソヘジュリュワン韓国語、小解朱留王ショウカイシュリュウオウ韓国語)または解味留王(해미류왕ヘミリョワン韓国語、解味留王カイミリュウオウ韓国語)とも呼ばれます。父である故国原王が百済との戦いで戦死した後、王位を継承しました。
小獣林王の治世は、軍事力の低下と国家の混乱に直面していた高句麗の立て直しに重点が置かれました。彼は、国家体制の整備と文化受容政策を通じて、高句麗の安定と発展の基盤を築きました。特に、仏教の受容、太学の設立による儒教教育の推進、そして律令の頒布は、中央集権体制の強化と社会秩序の確立に大きく貢献しました。これらの政策は、後の広開土大王時代に高句麗が全盛期を迎えるための重要な礎となりました。
2. 生涯
小獣林王の生涯は、父王の戦死という悲劇的な状況下で王位を継承し、高句麗の国家基盤を立て直すことに捧げられました。
2.1. 出生と家族関係
小獣林王は、高句麗第16代国王である故国原王の息子として生まれました。諱は丘夫(구부クブ韓国語、丘夫キュウフ韓国語)といい、その身体は雄大で、壮大な知略を持っていたと伝えられています。母親については記録が残っていません。祖父は美川王(미천왕ミチョンワン韓国語、美川王ビセンオウ韓国語)、祖母は周氏(왕후 주씨ワンフ ジュシ韓国語、王后 周氏オウコウ シュウシ韓国語)の王后でした。
小獣林王には後継となる子がなかったため、彼の死後、弟である伊連(이련イリョン韓国語)が故国壌王として王位を継承しました。
2.2. 即位の経緯
丘夫は355年(故国原王24年)1月に太子に冊封されました。彼は父である故国原王を補佐し、国家の統治と王権の強化に尽力しました。当時の高句麗の王権は、後燕による美川王の墓の掘り起こしといった屈辱的な出来事により、著しく弱体化していました。
371年10月、父である故国原王が百済の近肖古王による平壌城への攻撃中に戦死しました。この悲劇的な出来事の後、太子であった丘夫が王位を継承し、第17代国王である小獣林王として即位しました。
3. 治世
小獣林王の治世は、前燕との記録的な敗戦や父王の戦死などにより低下していた国力の回復に専念されました。彼は文教政策に特に注力し、高句麗の国家体制を根本から整備することを目指しました。
3.1. 国家体制の整備
小獣林王は、高句麗の国家としての基盤を固めるため、宗教、教育、法制の三つの側面から大規模な改革を断行しました。これらの改革は、中央集権体制を確立し、社会秩序を安定させる上で不可欠なものでした。
3.1.1. 仏教の受容と普及
372年(小獣林王2年)6月、チベット系民族の氐族が建てた前秦の王苻堅は、使節と共に僧侶の順道(순도スンド韓国語、順道ジュンドウ韓国語)を高句麗に派遣し、仏像と経典を伝えました。これにより、高句麗に初めて仏教が伝来しました。その2年後、374年には僧侶の阿道(아도アド韓国語、阿道アドウ韓国語)が高句麗に入り、仏教を広めました。
小獣林王は仏教を積極的に受け入れ、その普及に努めました。375年には、順道のために肖門寺(초문사チョムンサ韓国語、肖門寺ショウモンジ韓国語)を創建し、阿道のためには伊弗蘭寺(이불란사イブルランサ韓国語、伊弗蘭寺イフランジ韓国語)を創建して彼らを住まわせました。『三国史記』では、これらの寺院の創建が朝鮮における仏教の始まりであると記されています。王室の全面的な支援の下、高句麗の首都周辺には最初の寺院である興国寺が建立されたと伝えられています。仏教が372年以前にも高句麗に存在したという証拠(例えば4世紀半ばの仏教の影響を受けた墓の様式など)もいくつかありますが、小獣林王の治世において仏教が朝鮮の人々の精神世界だけでなく、官僚制度やイデオロギーの面でも確立されたことは広く認められています。彼は仏教を護国思想として活用しました。
3.1.2. 太学の設立
372年、小獣林王は貴族の子弟を教育するための儒教教育機関である太学(태학テハク韓国語、太學タイガク韓国語)を設立しました。太学の目的は、儒教の教えに基づいて貴族の子弟を教育し、中央集権体制に適した官吏を養成することでした。これにより、高句麗は儒教的政治理念を国家統治の基盤として確立し、統一された官僚制度を築くための人材を育成しました。太学の設立は、高句麗の教育制度における画期的な進歩であり、国家の安定と発展に大きく貢献しました。
3.1.3. 律令の頒布
373年、小獣林王は国家統治と社会秩序維持のための規範として、律令(율령ユルリョン韓国語、律令リツリョウ韓国語)を初めて頒布しました。律令は、高句麗の法制度を成文化し、中央集権的な統治体制を強化するための重要な手段でした。その内容は完全に伝わっていませんが、従来の高句麗の慣習法を成文化したものに留まると考えられています。律令の頒布は、刑法を含む法制度の確立と地域慣習の法典化を促進し、高句麗の法制化・制度化に大きな影響を与えました。これにより、国家の統治基盤がより強固なものとなりました。
3.2. 対外関係
小獣林王の治世は、国家体制の整備に重点が置かれましたが、対外関係においては、特に百済との軍事衝突が継続し、北方民族からの侵攻にも直面しました。
3.2.1. 前秦との関係
小獣林王は、372年に前秦から仏教が伝来したことを契機に、前秦との良好な外交関係を維持しました。377年にも前秦へ朝貢を行い、中国との安定した関係を保つことで、高句麗の国際的地位を安定させ、国内の立て直しに集中できる環境を整えました。
3.2.2. 百済との衝突
父である故国原王が百済との戦いで戦死したという経緯から、小獣林王の治世中も百済との軍事衝突は継続しました。
- 374年、375年、376年には、高句麗は南方の百済を攻撃しました。
- 375年7月には、百済の水谷城(수곡성スゴクソン韓国語、水谷城スイコクジョウ韓国語)を攻撃し、これを奪いました。
- 376年11月には、百済の3万の大軍を撃退し、北辺への反撃を行いました。
- 377年10月、百済の近仇首王が3万の兵を率いて再び平壌城に侵攻してきましたが、高句麗はこれを防ぎました。同年11月、小獣林王は報復のため、南方の百済を征伐しました。これらの衝突は、麗済戦争の一部として知られています。
3.2.3. 北方民族との衝突
小獣林王の治世中、北方からの脅威も存在しました。378年には、高句麗は極度の干ばつに見舞われる中で、契丹(거란コラン韓国語、契丹キッタン韓国語)の侵略を受けました。この侵攻により、8つの部族を奪われるという被害を受けました。これは、高句麗が南方だけでなく北方にも軍事的な注意を払う必要があったことを示しています。
4. 死亡と継承
小獣林王は384年11月に死去しました。在位は14年間でした。彼には後継となる子がなかったため、彼の死後、弟である伊連(이련イリョン韓国語)が王位を継承し、故国壌王となりました。小獣林王は小獣林(소수림ソスリム韓国語、小獸林ショウジュリン韓国語)の地に埋葬され、その埋葬地から「小獣林王」という諡号が贈られました。この小獣林は、高句麗の第二の首都であった国内城周辺の森林であったと考えられています。
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5. 評価と遺産
小獣林王の治世と生涯のほとんどは、高句麗を統制下に置き、王権を強化することに費やされました。彼は、父である故国原王の死に対する復讐を果たすことはできませんでしたが、その後の高句麗の偉大な征服者である甥の広開土大王が、その後の大規模な征服を成し遂げるための強固な基盤を築く上で、極めて重要な役割を果たしました。
小獣林王が実施した仏教の受容、太学の設立、律令の頒布といった一連の国家体制整備事業は、高句麗を中央集権的な国家へと変貌させ、国家としての結束力を高めました。これらの改革は、単なる内政の安定に留まらず、高句麗が将来的に広大な領土を支配する大国へと成長するための不可欠な準備期間となりました。彼の政策は、高句麗の歴史において最も輝かしい時代の一つである広開土大王時代の全盛期を開くための確固たる土台を築いたと評価されています。
6. 大衆文化における描写
小獣林王は、現代の大衆文化作品においても描かれ、その歴史的役割が再認識されています。
- テレビドラマ『太王四神記』(MBC、2007年)では、俳優のチョン・ソンファン(전성환チョン・ソンファン韓国語)が小獣林王を演じました。
- テレビドラマ『近肖古王』(KBS、2010年 - 2011年)では、俳優のチン・ソン(진성チン・ソン韓国語)と子役のチョン・ユンソク(정윤석チョン・ユンソク韓国語)が小獣林王を演じました。
- 小説『高句麗』(全10巻、未完結)は、作家のキム・ジンミョン(김진명キム・ジンミョン韓国語)によって書かれ、小獣林王の時代が描かれています。