1. 生涯
桂陽君の生涯は、世宗の寵愛を受けた幼少期から、世祖の即位を巡る政治的動乱への関与、そしてその後の王室での活動、そして早世に至るまで、波乱に富んでいた。
1.1. 出生と家庭背景
桂陽君は1427年9月11日(陰暦いんれき韓国語8月12日)、第4代国王世宗と、当時宮人であった慎嬪金氏の長男として誕生した。世宗にとっては庶子としては次男であり、全体では第8子にあたる。1434年1月、世宗の治世16年目に桂陽君に封じられた。
1.2. 教育と学問
桂陽君は、異母弟である永膺大君と共に、父である世宗に最も寵愛された王子の一人であった。彼は学問を好み、読書を怠ることがなく、書道にも非常に優れていたと伝えられている。
1.3. 政治的活動
桂陽君は、甥である端宗に対する癸酉靖難において、異母兄である首陽大君(後の世祖)を積極的に支持した。1454年には、寿春君(スチュン君)や翼峴君(イキョン君)らと共に霊川尉(ヨンチョンウィ)の尹師路(ユン・サロ)と結託し、錦城大君を弾劾した。同年、坡平尉(パピョンウィ)の尹巌(ユン・アム)と共に錦城大君と恵嬪楊氏(ヘビン・ヤンシ)を攻撃するなど、政治的な動きを見せた。
世祖の即位後、その功績により輸忠衛社同徳佐翼功臣一等に録勲され、再び桂陽君に封じられた。世祖の即位直後から側近として政務の出納を担当し、世祖の厚い信頼と寵愛を受けた。以降、様々な王室行事に参加した。1460年(世祖6年)には、海陽大君(後の睿宗)の婚姻の際に嘉礼都監提調(カレドガムチェジョ)を兼任し、その婚姻を主宰した。
1.4. 個人生活と人柄
桂陽君は性質が端麗で、容姿も美しく、談話に優れていた。人との接し方や物事への対応においては常に謙虚で恭しく、自らが貴族であることや権勢を誇ることは一切なかった。しかし、親しい弟である翼峴君(イキョン君)らと頻繁に酒を飲み、1463年5月4日には翼峴君が酒が原因で死去した。この時、世祖は「これは全て桂陽君の過ちである。義昌君(ウィチャン君)も酒で亡くなったのに、翼峴君もまた酒で亡くなるとは、非常に悲しい」と述べた。桂陽君自身も、多量の飲酒が原因で早世したと記録されている。
2. 家族関係
桂陽君の家族関係は、朝鮮王室の複雑な血縁と婚姻関係を示している。
2.1. 両親と兄弟姉妹
- 父:世宗(1397年 - 1450年)
- 母:慎嬪金氏(1406年 - 1464年)
- 異母兄:
- 文宗
- 世祖(首陽大君)
- 安平大君
- 臨瀛大君
- 平原大君(同年生まれ)
- 錦城大君
- 同母弟:
- 義昌君 李玒(イ・ファン、1428年 - 1460年)
- 密城君 李琛(イ・チム、1430年 - 1479年)
- 翼峴君 李璭(イ・グァン、1431年 - 1463年)
- 寧海君 李璋(イ・ジャン、1435年 - 1477年)
- 潭陽君 李璖(イ・ガム、1439年 - 1450年)
- 異母弟:
- 永膺大君
- 永豊君
2.2. 妻と子供
- 正妻:旌善郡夫人 清州韓氏(チョンジュ・ハンシ)(1426年4月12日 - 1480年7月27日)
- 西原府院君(ソウォンブウォングン)韓確の娘。
- 長男:寧原君 李澧(ヨンウォン君 イ・イェ、1450年 - 1513年6月16日)
- 妻:清松沈氏(チョンソン・シムシ)
- 次男:江陽君 李潚(カンヤン君 イ・スク) - 弟の潭陽君に養子として出系。
- 妻:安岳郡事(アナクグンサ)許峻(ホ・ジュン)の娘
- 三男:富林君 李湜(プリム君 イ・シク、1458年 - 1489年)
- 妻:安東金氏(アンドン・キムシ) - 上洛府院君(サンナクブウォングン)金礩(キム・ジル)の娘
- 孫:淮安副正(フェアンブジョン)李軾(イ・シク)
- 孫:道安君 李轍(ドアン君 イ・チョル、1476年 - 1505年10月12日) - 長男寧原君 李澧の養子となる。
- 孫女:金海金氏(キメ・キムシ)参奉(チャムボン)金孟孫(キム・メンソン)の妻
- 孫女:仁川蔡氏(インチョン・チェシ)戸判(ホパン)蔡壽(チェ・ス、1449年 - 1515年)の子 蔡胤權(チェ・ユングォン)の妻
- 孫女:平山申氏(ピョンサン・シンシ)判書(パンソ)贈賛成(チュン・チャンソン)申鏛(シン・サン、1480年 - 1530年)の妻
- 孫女:茂松尹氏(ムソン・ユンシ)副司直(プサジク)尹玉堅(ユン・オッキョン)の妻
- 長女:郷主 全州李氏(ヒャンジュ チョンジュ・イシ)
- 夫:順興安氏(スヌン・アンシ)安繼宋(アン・ゲソン)
- 孫:安光粹(アン・グァンス、1463年 - ?)
- 孫:安光範(アン・グァンボム、1466年 - ?)
- 孫:安光烈(アン・グァンニョル)
- 孫:安光胤(アン・グァンユン)
- 孫:安光翊(アン・グァンイク、1492年 - ?)
- 孫:安光沃(アン・グァンオク、1493年 - ?)
- 孫女:光山金氏(クァンサン・キムシ)郡守(グンス)金綱(キム・ガン)の妻
- 孫女:星州李氏(ソンジュ・イシ)李文樑(イ・ムニャン)の妻
- 孫女:延安李氏(ヨナン・イシ)李敬長(イ・ギョンジャン、1482年 - 1561年)の妻
- 孫女:咸従魚氏(ハムジョン・オシ)察訪(チャルバン)魚叔貞(オ・スクチョン)の妻
- 孫女:咸安趙氏(ハマン・チョシ)趙應卿(チョ・ウンギョン、1487年 - 1549年)の妻
- 次女:郷主 全州李氏
- 夫:鄭敬祖(チョン・ギョンジョ、1455年 - 1498年7月) - 鄭麟趾の四男
- 孫:鄭承禧(チョン・スンヒ)
- 孫:鄭承祐(チョン・スンウ)
- 三女:郷主 全州李氏
- 夫:清州韓氏 韓嶔(ハン・グム)
- 孫:韓亨俊(ハン・ヒョンジュン)
- 孫:韓亨傑(ハン・ヒョンゴル)
- 孫:韓亨信(ハン・ヒョンシン、1491年 - ?)
- 孫女:韓山李氏(ハンサン・イシ)護軍(ホグン)李徳溥(イ・ドクプ)の妻
- 孫女:定安副正(チョンアンブジョン)李千壽(イ・チョンス)の妻
- 孫女:昌寧曺氏(チャンニョン・チョシ)司猛(サメン)曺守元(チョ・スウォン)の妻
- 孫女:驪興閔氏(ヨフン・ミンシ)将仕郎(チャンサラン)閔世瑗(ミン・セウォン)の妻
- 側室:小婢(ソビ)
- 庶長男:方山守 李瀾(パンサンス イ・ラン)
- 妻:東萊鄭氏(トンネ・チョンシ) - 鄭繼銀(チョン・ゲウン)の娘
- 庶長女:延日鄭氏(ヨニル・チョンシ)鄭從善(チョン・ジョンソン)の妻
- 庶長男:方山守 李瀾(パンサンス イ・ラン)
2.3. 親戚関係
桂陽君の妻である旌善郡夫人 韓氏は韓確の娘であるため、世祖の長男である懿敬世子(後の徳宗)の妻であり、成宗の母である昭恵王后(仁粋大妃)は義理の妹にあたる。このため、懿敬世子は桂陽君の甥であると同時に、桂陽君は懿敬世子の異母叔父かつ年上の義理の兄弟(妻の姉妹の夫)という複雑な関係にあった。また、成宗は桂陽君の甥にあたる。さらに、鄭麟趾(チョン・インジ)や金礩(キム・ジル)らとも姻戚関係にあった。
3. 死と死後
桂陽君は1464年4月から病に臥せり、同年9月26日(陰暦いんれき韓国語8月16日)に死去した。彼の死に際しては、世祖が深く哀悼し、3日間、朝会と市場を停止させ、挙哀(挙哀キョエ韓国語、喪に服す儀式)が行われた。世祖は肉膳を退けるほど悲しんだという。
『朝鮮王朝実録』の世祖実録には、桂陽君の死について詳細に記されている。それによると、桂陽君は世宗が非常に可愛がった王子であり、学問を好み、読書を怠らなかった。世祖が即位した際には佐翼の功績があり、世祖は彼を重用して政務の出納を任せ、その恩顧は一層厚かった。桂陽君が病に臥すと、世祖は内医を派遣して治療にあたらせ、あらゆる手を尽くしたが、ついに効果はなかったとされている。また、桂陽君は性格が端麗で、容姿も美しく、談話に長けていた。人に対しても物事に対しても謙虚で恭しく接し、自らの高貴な身分や権勢を誇ることは一度もなかったが、多量の飲酒が原因で死去したと記録されている。
桂陽君の墓は、当初京畿道楊州郡東村面白石里に設けられた。1480年7月27日に旌善郡夫人韓氏が死去した後、同年9月18日に東原異穴(同じ丘に異なる穴を設ける形式)の墓として 조성された。その後、墓は京畿道南楊州市一牌洞の妙寂山(ミョジョクサン)神座に移葬された。
4. 評価と関連作品
桂陽君は、その生前の行跡や人柄、そして彼が関わった歴史的事件によって、後世に様々な形で評価され、また創作物の題材ともなっている。
4.1. 歴史的評価
『朝鮮王朝実録』に記された桂陽君の評価は、彼の多面的な人柄を伝えている。彼は世宗に深く寵愛され、学問に励み、書道にも秀でた王子として知られていた。その性格は端麗で容姿も美しく、談話に長け、人に対しては常に謙虚で恭しく接し、自らの身分や権勢を誇ることはなかった。
一方で、彼は癸酉靖難において世祖を積極的に支持し、その功績により佐翼功臣に録勲されるなど、政治的な野心も持ち合わせていた。しかし、私生活では多量の飲酒に耽り、それが原因で早世したと記録されており、世祖もその飲酒癖を憂慮していたことが示されている。このことから、桂陽君は才能と品格を持ちながらも、自己管理の面で課題を抱えていた人物として評価されている。
4.2. 関連作品
桂陽君の生涯や彼が関わった歴史的事件は、現代の韓国ドラマにおいても描かれている。
- 《王と妃》(KBS1、1998年6月6日 - 2000年3月26日、俳優:이성용イ・ソンヨン韓国語)
- 《インス大妃》(JTBC、2011年12月3日 - 2012年6月24日、俳優:전진우チョン・ジヌ韓国語)