1. 生涯と背景
欽成皇后朱氏は、開封府(現在の河南省開封市)の出身である。本姓は崔氏であり、実父は崔傑であったが、彼女が幼い頃に死去した。その後、母の李氏は朱士安に再嫁したため、彼女は継父の姓である朱氏を名乗るようになった。継父の朱士安が貧窮したため、朱氏は後に任廷和の養女となった。
2. 宮廷生活と昇進
1068年(熙寧元年)、朱氏は16歳で後宮に入り、御侍(皇帝の侍女)として奉仕した。8年間侍女を務めた後、神宗の目に留まり、1075年に才人(才人さいじん中国語)に封ぜられた。翌1076年には婕妤(婕妤しょうよ中国語)に、さらに1079年(元豊2年)には昭容(昭容しょうよう中国語)に昇進し、正二品の位を得た。その後も昇進を重ね、1082年(元豊5年)には賢妃(賢妃けんひ中国語)に、1084年(元豊7年)には徳妃(徳妃とくひ中国語)に至った。
神宗との間には、後の哲宗となる趙傭(ちょうよう)、趙似(ちょうじ)、そして徐国長公主(じょこくちょうこうしゅ)をはじめとする2人の皇子と1人の皇女を儲けた。日本側の史料では、哲宗、賢康帝姫(けんこうていき)、賢宜帝姫(けんぎていき)、趙似、賢静帝姫(けんせいていき)の5人の子女を産んだとされている。
3. 哲宗即位と皇太妃時代
1085年(元豊8年)、神宗が重病に陥り、皇子の中から皇太子を立てるべきとの議論が起こった。神宗の5人の皇子が早逝していたため、第6皇子の延安郡王趙傭が皇太子に立てられ、名を趙煦(ちょうく)と改めた。神宗が崩御すると、趙煦が即位し、哲宗となった。
哲宗の即位に伴い、生母である朱徳妃は聖瑞皇太妃(聖瑞皇太妃せいずいこうたいひ中国語)に封ぜられた。当時、神宗の皇后であった向皇后が皇太后の位にあり、さらに哲宗の祖母である高太皇太后も健在であったため、朱氏は皇太后ではなく皇太妃とされた。
しかし、1088年(元祐3年)、高太皇太后は『春秋』の「母は子によって貴くなる」(母以子貴ぼいしき中国語)という原則に基づき、朱皇太妃の地位を優遇する詔を発した。これにより、朱皇太妃が宮廷を出入りする際に使用する輿の覆いや、その護衛、冠服などはすべて皇后の儀礼に準じるものとされた。
その後、高太皇太后が崩御し、哲宗が親政を開始すると、朱皇太妃の待遇はさらに向上した。紹聖年間(1094年 - 1098年)には、哲宗の命により、朱皇太妃の御輿は宣徳東門から出入りすることが許され、百官は彼女を「殿下」(殿下でんか中国語)と称し、その居所は聖瑞宮(聖瑞宮せいずいぐう中国語)と名付けられた。また、哲宗は彼女の実父である崔傑に太師(太師たいし中国語)、継父である朱士安に太保(太保たいほ中国語)、養父である任廷和にも太師・太保の官職を追贈し、三族の栄誉を極めた。
4. 後継者問題と徽宗の即位
1100年(元符3年)、哲宗が嗣子なく崩御した。この時、宰相の章惇は、朱皇太妃の次男であり哲宗の同母弟である楚王趙似(ちょうじ)を後継者として推薦した。しかし、皇太后向氏は、もし趙似が即位すれば、その生母である朱皇太妃の権勢が計り知れないほど大きくなることを恐れ、これに強く反対した。
最終的に、向皇太后は大臣たちを説得し、既に生母を亡くしていた神宗の第11皇子である端王趙佶(ちょうきつ)を後継者として指名し、即位させた。これが後の徽宗である。徽宗の即位後、その生母である貴儀陳氏が皇太妃に追尊されたため、区別のために朱皇太妃は聖瑞皇太妃と改称された。この時も、朱皇太妃の儀礼は哲宗在位中のものが維持され、徽宗も彼女を丁重に遇した。
5. 死去と追贈
1102年(崇寧元年)2月16日(3月6日)、聖瑞皇太妃朱氏は51歳で死去した。死去後、すぐに皇后に追尊され、同年4月には「欽成」(欽成きんせい中国語)の諡号が贈られた。翌5月には永裕陵に陪葬され、6月にはその神主が太廟に合祀された。
6. 親族関係
欽成皇后朱氏の親族関係は以下の通りである。
- 実父**: 崔傑(さいけつ) - 崇国公(崇國公すうこくこう中国語)に追贈。
- 継父**: 朱士安(しゅしあん) - 太保(太保たいほ中国語)に追贈。
- 養父**: 任廷和(じんていわ) - 康国公(康國公こうこくこう中国語)に追贈。
- 母**: 李氏(りし) - 楚国太夫人(楚國太夫人そこくたいふじん中国語)に追贈。
- 夫**: 神宗(しんそう、1048年 - 1085年) - 北宋第6代皇帝。
- 子**:
- 哲宗(てつそう、趙煦、1077年 - 1100年) - 北宋第7代皇帝。
- 趙似(ちょうじ、1083年 - 1106年) - 楚栄憲王(楚榮憲王そえいけんおう中国語)。神宗の第13皇子。
- 賢康帝姫(けんこうていき)
- 賢宜帝姫(けんぎていき)
- 徐国長公主(じょこくちょうこうしゅ) / 賢静帝姫(けんせいていき、1085年 - 1115年) - 神宗の第10皇女。
- 姪**:
- 仁懐皇后朱氏(仁懷皇后じんかいこうごう中国語しゅし) - 欽宗(きんそう)の皇后。朱士安の子である朱桂納(しゅけいな)の娘。
- 朱鳳英(朱鳳英しゅほうえい中国語) - 鄆王(うんおう)趙楷(ちょうかい、欽宗の弟)の妃。朱桂納の娘。
- 朱慎徳妃(朱慎德妃しゅしんとくひ中国語) - 欽宗の側妃。仁懐皇后の従妹。
7. 称号
欽成皇后朱氏が生前および死後に与えられた称号は以下の通りである。
- 朱氏**(しゅし) - 仁宗(じんそう)の治世中。
- 才人**(才人さいじん中国語) - 1075年より。
- 婕妤**(婕妤しょうよ中国語) - 1076年より。
- 昭容**(昭容しょうよう中国語) - 1079年より。
- 賢妃**(賢妃けんひ中国語) - 1082年より。
- 徳妃**(徳妃とくひ中国語) - 1084年より。
- 聖瑞皇太妃**(聖瑞皇太妃せいずいこうたいひ中国語) - 1085年より。
- 欽成皇后**(欽成皇后きんせいこうごう中国語) - 1102年より、死後に追贈。
8. 評価
欽成皇后朱氏は、北宋の第7代皇帝哲宗の生母として、その生涯を通じて重要な役割を担った。彼女は低い身分から後宮に入り、才人から徳妃へと着実に昇進を重ね、最終的に哲宗の生母という立場から皇太妃の位にまで上り詰めた。特に「母は子によって貴くなる」という原則が適用され、その待遇は皇后に準じるものとされたことは、彼女の地位の重要性を示している。
哲宗の崩御後、皇位継承問題においては、宰相章惇が彼女の次男である趙似を推挙したものの、向皇太后の強い反対により、最終的に徽宗が即位することとなった。この出来事は、当時の宮廷における権力闘争と、皇位継承における生母の立場が持つ影響力を物語っている。死去後には皇后として追尊され、「欽成」の諡号が贈られたことは、彼女が北宋の歴史において重要な存在であったことを示している。