1. 生涯
程秉の生涯は、漢末の乱世を避けながらも学問に邁進し、最終的に東呉の要職に就くというものであった。
1.1. 出身地と背景
程秉は汝南郡南頓県(現在の河南省周口市項城市西方)の出身である。漢末の動乱期には、戦乱を避けるために中国南部にある交州へと身を寄せた。
1.2. 学問と師事
程秉は若くして儒学の碩学である鄭玄に師事し、その門下で学問を修めた。交州に避難した後も学問への探求心は衰えず、当時交趾にいた儒学者劉熙(劉熈とも記される)と共に経典の深奥な意義について考究を重ねた。劉熙は訓詁学の代表的著作である『釋名しゃくめい中国語』を著し、漢字の音読や書き方、意味の変化を研究・解釈するこの学問に大きな影響を与えたとされる。この研鑽を通じて、程秉は『周易』、『書経』、『詩経』、『礼記』、『春秋』といった五経全般にわたって深く通暁するに至った。
2. 東呉での経歴
程秉は士燮の下で初期のキャリアを築いた後、孫権にその学識を評価され、東呉の重要人物として迎え入れられた。
2.1. 士燮の下での活動
交州に身を寄せた程秉の学識は広く知られ、交趾の太守である士燮は彼を高く評価し、その幕僚として長史に任命した。これにより、程秉は士燮政権下で重要な役割を果たすことになった。
2.2. 孫権の下での活動
220年代初頭、東呉の孫権は程秉が当代きっての儒学者であるという名声を聞きつけ、丁重な礼を尽くして使者を交州に送り、彼を自身の幕下に招き入れた。程秉はこの招聘に応じ、江東へと赴いた。孫権は彼を太子太傅に任命し、その子の孫登の教育係という重要な職務を託した。同時期には徴崇も率更令に任命されている。
2.3. 孫登の婚礼における役割
黄武4年(225年)、孫権は周瑜の娘を太子孫登の妃として迎えるため婚礼を執り行った。この時、程秉は太常(祭祀を司る高位の官職)に任命され、呉郡で妃を迎える儀式の一切を監督する大役を担った。孫権は自ら程秉の乗る船に臨幸し、彼を最大限に丁重に扱った。婚礼後、程秉は太子孫登に対し、礼法に関する深い助言を与えた。
彼は孫登に「婚姻は人倫の始まりであり、王道教化の基礎である。それゆえ聖王はこれを重んじ、率先して民衆を導き、天下を教化してきた。詩経に『関雎』が夫婦の和合を讃え、詩篇の筆頭に置かれているのもそのためである。願わくば、太子殿下には閨房においても礼教を尊重し、『周南』で詠われた教えを心に留められますよう。そうすれば、道義と教化は上層で隆盛し、下層の民衆もそれを称賛するでしょう」と説いた。これに対し孫登は笑顔で「善行に従い、悪行を正すことは、まさに太傅に頼るところであります」と答え、その言葉を重んじた。
程秉は官職に在任中に病没したとされるが、その詳しい没年は歴史に記録されていない。しかし、感沢が242年に太子太傅に就任していることから、それ以前に死去したと考えられている。
3. 著作
程秉は生涯にわたり精力的に学術研究を行い、複数の重要な著作を残した。それらの著作は、彼の学問的深さと儒学に対する貢献を示している。
彼の主要な著作は以下の三点である。
- 『周易摘中国語』(『周易』の精粋をまとめたもの)
- 『尚書駁中国語』(『書経』に関する論駁書)
- 『論語弼中国語』(『論語』の補足・解釈)
これらの著作は合わせて3万字余りに及ぶと言われ、彼の広範な学識と深い洞察力を示している。
4. 評価
程秉は同時代および後世の学者や歴史家から高く評価された。特に、三国時代の歴史書である『三国志』の著者である陳寿は、彼の学術的功績と人物像を以下のように評している。
陳寿は程秉について、「厳畯(げんしゅん)や闞沢(かんたく)と並び、当代における一流の儒学者であった」と記している。これは、程秉が当時の学問界において非常に尊敬され、その学識が広範に認められていたことを示している。また、『三国志』に列伝が立てられた人物の中で、自身の列伝以外に記録が見られない唯一の人物であるという指摘もある。
5. 文学作品での描写
程秉は、歴史小説『三国志演義』において、その実際の功績や評価とは異なる形で描かれている。
小説では、孫権が呉の国主となった際に集められた賢人の一人として登場する。赤壁の戦いの前夜には、曹操への降伏を主張する立場をとり、諸葛亮と舌戦を繰り広げるが、あっけなく論破される場面が描かれている。
また、劉備が関羽の仇討ちのために呉へ攻め込んできた際には、孫権の使いとして派遣される。彼は張飛を暗殺した張達らの身柄を劉備に差し出し、和睦を申し入れるが、劉備の怒りを鎮めることはできず、その申し出は一蹴される。程秉は命からがら呉に逃げ帰るという、実力不足の人物として描写されている。
これらの描写は、程秉が作中で議論に敗れたり、外交交渉に失敗したりする場面を通して、彼の本来の学識や官僚としての能力が正当に評価されていない、やや矮小化された人物像となっている。