1. 概要
遼の第4代皇帝である遼穆宗(りょうぼくそう、遼穆宗リャオ ムーゾン中国語、요 목종 야율경ヨ モクチョン ヤユルギョン韓国語、931年9月19日 - 969年3月12日)は、諱を耶律璟(耶律璟イェールー ジン中国語)、幼名を述律(述律シュールー中国語)という。第2代皇帝遼太宗の長男であり、951年に従兄である第3代皇帝遼世宗が暗殺された後、混乱の中で即位した。彼の治世は、その個人的な性格、特にアルコール依存症、残忍性、そして政治への無関心によって特徴づけられ、遼の歴史において「暗黒期」の一つと評価されている。彼はしばしば理由もなく人々を殺害し、拷問を好んだため、その統治は社会に大きな混乱と人権侵害をもたらした。
2. 個人情報
遼穆宗の諱は耶律璟(耶律璟イェールー ジン中国語)、幼名は述律(述律シュールー中国語)である。諡号は孝安敬正皇帝(こうあんけいせいこうてい)、即位後に受けた尊号は天順皇帝(てんじゅんこうてい)。931年9月19日に生まれ、969年3月12日に39歳で崩御した。
3. 家系と背景
遼穆宗は、遼の第2代皇帝である耶律堯骨(耶律堯骨イェールー ヤオグー中国語、야율덕광ヤユル ドゥクァン韓国語)の長男として生まれた。
彼の祖父は遼の初代皇帝耶律阿保機(耶律阿保機イェールー アバオジー中国語)、祖母は淳欽皇后述律平(述律平シュールー ピン中国語)である。母は靖安皇后蕭温(蕭溫シャオ ウェン中国語)である。
4. 即位
951年、遼の第3代皇帝であった従兄の遼世宗が暗殺されるという混乱した状況の中で、耶律璟は新たな皇帝として即位した。この暗殺事件は、遼の宮廷における権力闘争と不安定さを浮き彫りにするものであった。
5. 治世
遼穆宗の治世は、内部の陰謀と反乱、そして周辺諸国との複雑な関係によって特徴づけられた。彼の個人的な性格が、これらの内外の課題への対応に大きな影響を与えた。
5.1. 内政と反乱
穆宗の治世は、皇族や蕭氏皇后一族からの陰謀や反乱に常に悩まされた。彼は遼世宗に仕えていた多くの大臣を解雇し、反抗する者には容赦なく武力を行使した。彼の残忍な武力行使と弾圧は、最終的に玉座の権威と安定を取り戻すことには成功したが、その過程で多くの人権侵害と社会的不安を引き起こした。
952年6月には、彼の叔父の一人が後周の朝廷に「穆宗は酔っぱらいで野心がない」という内容の手紙を送ったが、穆宗はこの手紙を発見し、叔父を処刑した。また、同年には世宗の兄または弟である耶律婁国が反乱を企てたが、穆宗はこれを鎮圧し、耶律婁国を殺害した。953年10月には、彼の弟や多くの高官たちが反乱を計画したが、穆宗はこれを事前に察知して阻止し、計画に関与した大臣たちを処刑し、弟は処刑の代わりに投獄した。959年11月にも同様の反乱計画が発覚し、首謀者は殺害されたが、以前投獄されていた皇族たちは釈放された。
960年11月1日には、耶律李胡の子である耶律喜隠が謀反を企てたため、穆宗は耶律喜隠と耶律李胡の両名を投獄するよう命じた。耶律李胡は獄中で50歳で死去し、耶律喜隠は引き続き投獄された。964年には満洲北部で遼に対する大規模な反乱が発生したが、966年には鎮圧に成功した。これらの事件は、彼の統治がいかに不安定であり、また彼がいかに冷酷に権力を維持しようとしたかを示している。
5.2. 対外関係
穆宗の治世中、遼は周辺の中国王朝や国家と複雑な外交関係を築いた。
後周は穆宗の国内問題に乗じて、世紀初頭から契丹人の影響下にあった華北における自国の地位を固めた。しかし、遼の保護下にあった北漢は、後周の征服から独立を維持することができた。
958年、後周は燕雲十六州を奪還しようと遼の陣地を攻撃した。これに対し、穆宗は大規模な軍を率いて北京にある南の都へ向かった。しかし、後周の皇帝柴栄の死によって軍事衝突は回避され、翌年初めに穆宗は都に戻った。
穆宗の治世半ばには、北宋が五代十国時代最後の王朝である後周に取って代わった。遼と北宋の関係は穆宗の治世中は平和であったが、燕雲十六州と北漢という二つの未解決の問題が残されており、これらは穆宗の死後、戦争の原因となる。これらの問題は穆宗の治世中には解決されなかった。両国は旧正月に毎年使節を交換し始め、有益な貿易も両国間で成長を続けた。
渤海人の国家である定安国(烈万華王の時代)は、遼(穆宗の時代)を打倒するために隣接する部族の助けを借りようとしたが、失敗に終わったと記録されている。962年には高麗の光宗が北宋と連携し、遼(穆宗の時代)に対抗するために定安国とも同盟を結んだ。また、959年頃には女真族(渤海国や靺鞨の末裔)が鴨緑江を越えて長白山脈の白頭山付近に移住したとされている。
5.3. 軍事と政策
穆宗の軍事政策は、主に領土の維持と反乱の鎮圧に焦点を当てていた。燕雲十六州を巡る後周との軍事衝突は、彼の治世における主要な軍事事件であった。958年の後周による攻撃に対し、穆宗は自ら大軍を率いて南下し、領土防衛への強い意志を示した。しかし、彼の政治への無関心と個人的な嗜好が、長期的な国家戦略の策定や軍事力の強化を妨げた側面も指摘されている。
6. 統治スタイルと性格
穆宗は、その個人的な性格が統治に壊滅的な影響を与えた皇帝として知られている。彼はアルコール依存症であり、しばしば理由もなく人々を殺害する残忍な暴君であった。史書によれば、彼は非常に残忍で拷問を好んだとされる。また、狩猟に異常なほど執着し、政治を顧みなかった。
彼のこのような特質は、遼の政治を混乱させ、重臣たちは権力争いから派閥に分裂し、国家は次第に衰退の兆しを見せ始めた。彼の治世は、後世の遼景宗や遼興宗から天祚帝の時代と同様に、遼の「暗黒期」の一つと評価されている。彼の無慈悲な粛清と政治的無関心は、民衆の苦しみを増大させ、社会の不平等を悪化させた。
7. 私生活
穆宗には正妻として蕭皇后がいた。しかし、彼は性行為を嫌っていたと伝えられている。
8. 死
969年3月12日、穆宗は黒山(흑산フクサン韓国語)へ狩りに出かけた際に、自身の侍従たちによって暗殺された。その夜、彼は侍従たちと酒宴を催していたが、夜中に食べ物を要求したところ、誰も応じなかった。激怒した穆宗は料理人たち全員を殺すと脅したため、恐れをなした料理人たちが皇帝の天幕に忍び込み、彼を殺害した。享年39歳であった。彼の死後、遼世宗の子である耶律賢が即位した。
9. 歴史的評価と影響
9.1. 総括的評価
遼穆宗の統治は、遼の歴史において「衰退期」または「暗黒期」として厳しく評価されている。彼の個人的な嗜好、特にアルコール依存症と政治への無関心は、国家の統治を著しく弱体化させた。重臣たちの間の権力争いと派閥分裂は、内部の不安定さを増幅させ、遼の国力は次第に衰退の兆しを見せた。彼の治世は、その後の遼の発展に長期的な悪影響を与えたとされている。
9.2. 批判と論争
穆宗の統治は、その残忍な暴力の使用、無慈悲な粛清、そして政治的無関心によって激しく批判されている。彼は理由なく人々を殺害し、拷問を好んだため、多くの人権侵害が彼の治世下で横行した。これらの行為は、社会的な不平等を拡大させ、民衆の間に深い恐怖と不満を植え付けた。彼の統治は、皇帝の個人的な嗜好が国家全体にどれほど深刻な負の影響を与えうるかを示す典型的な例として、歴史的に論争の的となっている。
10. 系図
遼穆宗の主要な家系は以下の通りである。
関係 | 氏名 | 備考 |
---|---|---|
曾祖父 | 耶律勻徳実 | |
曾祖父 | 耶律撒剌的 | |
曾祖母 | 蕭巌木斤 | |
曾祖父 | 述律蒲古 | |
曾祖母 | 耶律氏 | |
曾祖父 | 述律申思 | |
祖父 | 耶律阿保機 | 遼の初代皇帝 |
祖母 | 述律平 | |
父 | 耶律徳光 | 遼の第2代皇帝 |
母 | 靖安皇后蕭温 | |
皇后 | 蕭氏 |
11. 大衆文化における描写
遼穆宗は、現代の大衆文化においても描かれている。2020年の中国のテレビドラマ『燕雲台』(The Legend of Xiao Chuoザ・レジェンド・オブ・シャオ・チュオ英語)では、李寧が彼の役を演じた。