1. 生涯
郭煕の生涯は、初期の不明な経歴から宮廷での輝かしい活躍、そして晩年の失脚に至るまで、その画業とともに展開した。
1.1. 初期生涯と背景
郭煕は孟州温県(現在の河南省焦作市温県)の出身で、生没年には諸説があるものの、概ね1023年に生まれ、1085年頃に没したとされる。彼の字は淳夫であり、その老年になるまでの詳しい経歴はほとんど知られていない。
1.2. 宮廷での活動
郭煕が宮廷に登用されたのは、神宗皇帝の治世初期のことである。宮中に入ると、当時の三司の塩鉄副使であった呉充の命を受け、官庁の建物や宮殿、寺院などに大規模な壁画や屏風絵を数多く制作した。彼の革新的な大画面の画風は、改革に意欲を燃やす若き神宗皇帝を深く感動させ、やがて彼は御書院の芸学(芸術学)ポストに就任する。数年後には、書画を担当する技官の最高位である待詔にまで昇進した。郭煕が所属した御書院は、通常宮廷画家が所属する翰林図画院とは異なり、翰林学士院の下部組織であった。画家に書記官の職を与えたこの措置は、因習的になりがちな画院の束縛から郭煕を解放し、彼がその天分を自由に発揮できるようにするための神宗皇帝自身の配慮であったと言われている。
1.3. 晩年と失脚
神宗皇帝の死後、郭煕の活動記録は急激に減少する。彼は支持者を失い、その技巧主義的な画風は、当時の士大夫たちの美意識と次第に合わなくなっていった。郭煕の作品は、神宗の崩御に伴いその影響力を失い、既に徽宗皇帝の時代にはほとんど忘れ去られようとしていた。鄧椿が著した『画継』には、郭煕が宮殿に描いた壁画や制作した屏風が、宮廷から撤去され、廃品として扱われたという逸話が残されており、彼の晩年の不遇と失脚の状況を伝えている。
2. 画風と技法
郭煕は、山水画において独自の様式を確立し、革新的な技法を開発または完成させた。
2.1. 自然観と芸術哲学
郭煕は自然を深く理解し、その真髄を絵画に表現しようと試みた。彼の自然観は、「飽遊飫看、歴歴羅列於胸中」(山水を心ゆくまで遊び見て、その姿がありありと胸中に展開する)という言葉に集約されている。これは、自然を深く観察し、その本質を心に刻むことで、初めて真の風景画を描くことができるという彼の芸術精神を示している。彼は「総体の角度」または「浮動する遠近法」と呼んだ革新的な技法を開発し、西洋絵画の静的な視点とは異なり、複数の視点から風景を捉えることで、より広範で多様な空間表現を可能にした。
彼の画論には、四季における雲や水蒸気の変化が詳細に記述されている。春は軽やかで拡散し、夏は豊かで濃密、秋は散在して薄く、冬は暗く寂しい。これらの効果が絵画に表現されることで、雲や水蒸気が生命を帯びるかのように見えると述べている。また、山を取り巻く霧も四季で異なるとし、春の山は微笑むかのように軽やかで魅力的、夏の山は青緑色が広がるように見え、秋の山は塗りたてのように明るく整然とし、冬の山は眠るかのように悲しく静寂であると表現した。彼は、絵画におけるこれらの微妙な自然の変化の表現を重視した。
2.2. 主要な画法
郭煕の山水画を特徴づける代表的な技法の一つに、遠近表現の「三遠法」がある。これは、平遠(水平方向の広がり)、高遠(仰ぎ見るような高い視点)、深遠(見下ろすような深い視点)の三つの視点から自然を捉え、一つの画面に統合する手法である。
また、彼は「雲頭皴」(うんとうしゅん)や「蟹爪樹」(かいそうじゅ)と呼ばれる独自の筆法を確立した。「雲頭皴」は山肌の凹凸を雲のような形状の皴法で表現するものであり、「蟹爪樹」は、枯れた枝がカニの爪のように広がる独特な樹木の描写法である。さらに、朝、夕、晴れ、雨、霧といった気候や光線の変化、および四季の移ろいを表現する技法においても熟練しており、墨の濃淡やかすれを重ねることで、大気のベールのような効果を生み出し、形態を構築していった。彼の作品におけるこれらの技術的な洗練は、その開放的で高邁な芸術的構想を表現するために用いられた。
3. 主要作品
郭煕は、中国絵画史において重要な位置を占める多くの作品を残している。


郭煕の最も重要な作品の一つは、1072年に制作された『早春図』である。この作品は、彼の革新的な多視点描写技術を具体的に示しており、見る者に奥行きと広がりを感じさせる。
また、『雪山』(『深い谷』)も彼の代表作の一つであり、上海博物館に所蔵されている。この絵は、雪に覆われた深く静寂な山間の谷と、険しい崖に懸命に生きる古木を描いている。淡い墨と壮大な構図を用いることで、開放的で高邁な芸術的構想を表現した傑作とされている。水墨による淡い描法と、不定形の筆致を駆使して、大気のベールのような効果を表現した。
その他、季節の雰囲気を捉えた『The Coming of Autumn』も宋代の重要な業績と見なされている。また、『Old Trees, Level Distance』という作品は、現在メトロポリタン美術館に所蔵されている。
4. 著述と画論
郭煕の芸術哲学は、彼の著書『林泉高致集』(林泉高致りんせんこうち中国語)に集約されている。この書物は、風景画を適切に描くための様々なテーマを扱っている。同書は彼の芸術論の集大成であり、後に彼の息子である郭思(郭思かくし中国語)によって編纂された。この『林泉高致集』は、後代の中国画論に多大な影響を与え、山水画の理論的基盤を形成する上で重要な役割を果たした。
5. 評価と影響
郭煕の作品と芸術哲学は、彼が生きた時代から後世に至るまで、中国美術史において様々な評価を受け、大きな影響を与えた。
5.1. 後世の画壇への影響
郭煕は「北宋の巨匠」と称され、その画業は後世の多くの芸術家に影響を与えた。特に、李成とともに「李郭派」(李郭派りかくは中国語)を形成し、董源・巨然の「董巨風格」と並んで、中国山水画を代表する二つの重要な様式として確立された。彼の独特の山水様式は、後代の画家たちに具体的な影響を与え、彼に捧げられた山水画も存在するほどである。
5.2. 歴史的評価と批判
郭煕の作品は、同時代の著名な知識人である蘇軾、黄庭堅、王安石などから高い評価を受けた。しかし、神宗皇帝の死後はその評価に変化が生じた。彼の技法を重視する画風は、士大夫階級の美意識と次第に乖離していった。晩年には支持者を失い、徽宗皇帝の時代にはほとんど忘れ去られようとしていた。前述の通り、『画継』には彼の壁画や屏風が宮廷から撤去され、廃品として扱われたという記述があり、後代における批判的な評価や論争が存在したことを示している。
6. 個人的な生活と制作姿勢
郭煕の絵画に対する真摯な態度と制作過程は、彼の息子が詳細に記述している。彼が絵を描く日は、まず清潔な机に座り、明るい窓のそばで左右に香を焚いたという。そして、最高級の筆と最も上質な墨を選び、まるで高貴な客人を迎えるかのように、手を洗い、硯を清めた。彼は心が完全に落ち着き、乱れることのない状態になるのを待ってから、ようやく絵を描き始めたと伝えられている。この作法は、彼が絵画制作を単なる技術的な作業としてではなく、精神的な修養と深い集中を要する崇高な行為として捉えていたことを示している。