1. 家系
アレクサンドロス2世は、マケドニア王アミュンタス3世とエウリュディケ1世の三男のうちの長男として生まれた。彼の弟には、後にマケドニア王となるピリッポス2世とペルディッカス3世がいる。
2. 在位期間
アレクサンドロス2世の治世は、若年での即位に伴う内外の危機、テッサリア内戦への介入、そして最終的な暗殺に至るまで、激動の時代であった。
2.1. 即位と初期の危機
紀元前369年に王位を継承した際、アレクサンドロス2世は成年には達していたものの、極めて若年であった。この若さが、王国の敵対勢力に再び戦争を仕掛けるきっかけを与えた。彼は同時に二つの脅威に直面した。一つは北西からのイリュリア人による侵攻であり、もう一つは東からの王位僭称者パウサニアスによる攻撃であった。パウサニアスは瞬く間にいくつかの都市を掌握し、王国の首都ペラの宮殿に幼い息子たちと共にいた王母を脅かした。アレクサンドロスは、当時アンフィポリスを奪還する途上でマケドニア沿岸を航行中であったアテナイの将軍イフィクラテースの助力を得ることに成功し、これらの内外の敵を打ち破った。
2.2. 軍事活動と外交
アレクサンドロス2世は、テッサリアの有力貴族であるアレウアス家の要請を受けて、テッサリアの内戦に介入した。この介入により、彼はラリサをはじめとするいくつかの都市の支配権を獲得した。
2.3. テッサリア介入とその結果
テッサリアの内戦介入において、アレクサンドロス2世はラリサなどの都市を掌握したものの、当初の約束を破ってこれらの都市にマケドニア軍の守備隊を駐留させた。この行動は、当時古代ギリシアの主要な軍事勢力であったテーバイからの敵対的な反応を招いた。テーバイの将軍ペロピダスは、マケドニア軍をテッサリアから駆逐した。さらにペロピダスは、アレクサンドロス2世の義兄弟であるプトレマイオス・アロロスの野心を助長することでアレクサンドロスを牽制し、彼がアテナイとの同盟を破棄し、テーバイとの同盟を結ぶことを強制した。この新たな同盟の一環として、アレクサンドロスは幼い弟ピリッポスを含む人質をテーバイに引き渡さなければならなかった。
2.4. 政変と暗殺
テーバイとの同盟を結び、人質を差し出した後も、アレクサンドロス2世の立場は不安定であった。彼は王の個人的な護衛部隊である「ペゼタイロイ」、すなわち歩兵の仲間たちの名称を定めたとされる。この名称は後に弟ピリッポス2世によって、彼の槍歩兵の名称として再利用されることになる。
紀元前368年、アレクサンドロス2世は、義兄弟であるプトレマイオス・アロロスの扇動により暗殺された。この暗殺は、「テレシアス」と呼ばれる戦いの踊りのパフォーマンス中、あるいは祭りの最中に起こったとされている。

3. 死後
アレクサンドロス2世の死後、彼の弟であるペルディッカス3世が次のマケドニア王として即位した。しかし、ペルディッカス3世はまだ幼年であったため、プトレマイオス・アロロスが摂政となり、事実上の統治者となった。
4. 歴史的評価
アレクサンドロス2世の治世はわずか2年間と短く、その期間は内外の脅威と政治的陰謀に満ちていた。彼の死はマケドニア王国の不安定な状況をさらに悪化させたが、この混乱期を経て、後に弟のピリッポス2世が王位に就き、マケドニアを強大な国家へと発展させる基盤を築くこととなる。
5. 外部リンク
- [http://www.american-pictures.com/genealogy/persons/per01441.htm Ancestry of Alexander II]
- [http://www.macedonia.com/english/history/ History of Macedonia]