1. 概要

パウル・ヨハン・アンゼルム・フォン・フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm Ritter von Feuerbachパウル・ヨハン・アンゼルム・リッター・フォン・フォイエルバッハドイツ語、1775年11月14日 - 1833年5月29日)は、ドイツの刑法学者。彼の最も重要な功績は、バイエルンの刑法を改革し、拷問の廃止を導いたことであり、この刑法典は他のいくつかの国々で範とされた。また、彼は「nullum crimen, nulla poena sine praevia lege poenali(罪刑法定主義)」という有名な法諺の提唱者であり、近代刑法思想の形成に決定的な影響を与えた。晩年には、謎多きカスパー・ハウザー事件に関する綿密な調査でも知られている。自由主義的な発想に基づき、個人の権利保護を重視する彼の法思想は、今日の人権思想の基盤を築く上で重要な一歩となった。
2. 生涯
フォイエルバッハの生涯は、学問への情熱と公職への献身、そして私生活の苦難が交錯したものであった。彼の思想は、幼少期の経験から学術的な転換点、そして公職での実践を通じて形成されていった。
2.1. 幼少期と家族背景
パウル・ヨハン・アンゼルム・フォン・フォイエルバッハは、1775年11月14日にイェーナ近郊のハイニヒェンで生まれた。彼の父ヨハン・アンゼルム・フォイエルバッハは、当時20歳のイェーナ大学法学部学生で、後にギーセン大学を経てフランクフルト・アム・マインで弁護士を開業した。母ゾフィー・ジビュレ・クリスティーナ・クラウゼは、イェーナ領主領参事官の娘であり、法史学者ヨハン・ザロモン・ブルンクヴェルの孫に当たる。フォイエルバッハ一家は、彼の誕生後まもなくフランクフルトに移住した。
2.2. 大学での学究と初期の影響
彼はフランクフルトで初等教育を受けたが、16歳の時に家出し、イェーナにいる母方の叔母を頼り、1792年12月にイェーナ大学法学部に入学した。しかし、病を得たことを機に哲学部に転部し、カール・レオンハルト・ラインホルトの指導の下でカント哲学を深く学んだ。また、ジャン=ジャック・ルソーの思想からも強い感化を受け、その自由主義的な精神は彼の後の法思想に大きな影響を与えた。
1795年には哲学博士号を取得したが、経済的な困窮にもかかわらず同年結婚した。この結婚が、彼が愛好していた哲学や歴史の研究から、最初は気が進まなかったものの、より迅速な昇進が見込まれる法学へと転向するきっかけとなった。1799年に法学博士号を取得し、法学部の私講師となり、1801年にはレーン法の無給教授に任命された。
2.3. 初期のアカデミア活動と法思想の形成
23歳の時、トマス・ホッブズの市民権力論に対する鋭い批判で注目を集めた。その直後に行った刑法に関する講義において、彼は「裁判官は判決を下す際に刑法典によって厳格にその権限を制限されるべきである」という自身の有名な理論を提示した。この新たな法理論は「リゴリスト(厳格主義者)」と呼ばれる支持者を生み出した。
1799年から1800年にかけて執筆した『Reflexionen über die Prinzipien und Grundbegriffe des positiven peinlichen Rechts実定刑法における原理および根本概念の省察ドイツ語』は、彼の自由主義的刑法観を明確に示した。この著作を通じて、彼は「市民的刑罰」および「確定刑罰法規」の概念を確立し、「刑罰法規」絶対の思想、すなわち法律絶対主義を樹立した。これは刑法思想の近代化を推進する歴史的な理論を確立する上で、確かなものとなった。
1801年にイェーナ大学の法学の特別教授に無給で任命され、翌年にはキール大学の教授職を受け入れ、2年間在籍した。
2.4. バイエルン刑法典の起草と公職活動
彼の主要な業績は、バイエルンのための刑法典の起草であった。1804年、彼はキール大学からランツフート大学に移ったが、マクシミリアン・ヨーゼフ国王からバイエルン刑法典(Strafgesetzbuch für das Königreich Bayernシュトラーフゲゼッツブーフ・フュア・ダス・ケーニヒライヒ・バイエルンドイツ語)の草案作成を命じられ、1805年にはミュンヘンに移り、法務省で要職に就任した。1808年には貴族に叙せられた。
バイエルンにおける刑法改革は、彼の強い影響下で1806年の拷問廃止から始まった。これは、人間の尊厳と人権を重視する彼の思想が明確に表れたものであり、近代的な刑事司法への重要な転換点となった。彼の尽力の結果、バイエルン刑法典は1813年に公布された。フォイエルバッハの進歩的な見解を具現化したこの法典の影響は計り知れないものであった。この法典は直ちにヴュルテンベルクやザクセン=ヴァイマルにおける新法典の基礎とされ、オルデンブルク大公国では全面的に採用された。また、スウェーデン国王の命令でスウェーデン語に翻訳され、いくつかのスイスのカントン(州)でも、この法典に準拠して法典を改正した。
フォイエルバッハはまた、フランス民法典(ナポレオン法典)を基礎としたバイエルン民法典の作成にも着手したが、この計画は後に棚上げされ、コデックス・マクシミリアーヌスが基礎として採用されたため、法として成立することはなかった。
2.5. 後年の司法職と海外法制度研究
解放戦争(1813年-1814年)の間、フォイエルバッハは熱心な愛国者として活動し、いくつかの政治的パンフレットを出版した。1814年にはバンベルク控訴裁判所の第二所長に任命され、3年後にはアンスバッハ控訴裁判所の第一所長となった。
1821年には、フランス、ベルギー、およびライン州の法制度を調査するために政府から派遣された。この訪問の成果として、彼は『Betrachtungen über Öffentlichkeit und Mündigkeit der Gerechtigkeitspflege司法の公開性と口頭主義に関する考察ドイツ語』(1821年)と『Über die Gerichtsverfassung und das gerichtliche Verfahren Frankreichsフランスの裁判所構成と訴訟手続についてドイツ語』(1825年)を発表した。これらの著作の中で、彼はすべての訴訟手続における公開性を無条件に訴え、近代的な司法制度の透明性と公正性を強く主張した。
3. 法哲学
フォイエルバッハの法哲学は、当時の権威主義的な法慣行から脱却し、自由主義的で人権を重視する近代刑法思想の基盤を築いた。
3.1. 罪刑法定主義(Nullum Crimen, Nulla Poena)
フォイエルバッハは、有名な法諺「nullum crimen, nulla poena sine praevia lege poenaliヌルム・クリメン、ヌラ・ポエナ・シネ・プラエヴィア・レゲ・ポエナリラテン語」(「あらかじめ刑罰法が存在しない限り、犯罪はなく、したがって刑罰も存在しない」)の提唱者である。この原則は、罪刑法定主義の核心をなし、刑罰権の恣意的な行使を制限し、個人の自由と権利を保護するための不可欠な要素として歴史的意義を持つ。彼は、刑法は「人権保護」のために存在するとし、「道徳保護」を刑法の役割としないと明確に主張した。これは、道徳的判断に左右されやすい前近代的な刑法観から脱却し、法の下の平等と予測可能性を重視する近代的なアプローチへの転換を示している。
彼の罪刑法定主義の思想は、以下の特徴を持つ。
- 成文法による明示**: 犯罪とそれに対する法定刑は、成文法によって明確に示されなければならない。これにより、裁判官は成文法に厳格に拘束される(裁判規範としての刑法)と同時に、国民は犯罪とされる行為とそれに対する罰則を事前に知ることができ、自らの行動を調整できる(行為規範としての刑法)。ただし、刑法の機能は決して裁判規範に限定されるものではない。
- 罪刑均衡の原則**: 犯罪と法定刑は「罪刑均衡」の観点から設定される。すなわち、「権利の価値」に応じた法定刑、および「権利侵害行為の程度」に応じた法定刑が定められることで、裁判官の量刑裁量が制限され、より客観的で公平な判決が保証される。
- 類推解釈の禁止**: 裁判官による刑法規定の類推解釈は厳しく禁止される。これは、法典に明記されていない行為を犯罪として処罰することを防ぎ、法の予測可能性と安定性を保証するためである。
3.2. 司法実務に対する見解
フォイエルバッハは、裁判官の裁量権を厳しく制限し、成文法の優位性を強調したが、司法実務全般に対しても具体的な見解を持っていた。
1811年の著作『Betrachtungen über das Geschworenengericht陪審員裁判に関する考察ドイツ語』において、彼は陪審員裁判に反対の立場を表明した。彼は、陪審員の評決は犯罪に対する十分な法的証明とはならないと主張した。この見解は大きな論争を巻き起こし、フォイエルバッハ自身も後にその見解をいくらか修正したものの、彼の法学における厳格な論理と実証主義的な姿勢を示している。彼は、法廷でのすべての手続きにおける公開性を強く主張し、司法の透明性と公正性を確保することが重要であると考えていた。
4. 主要著作と研究
フォイエルバッハは、その主要な法典編纂活動や法理論の構築に加え、刑事事件の記録や特異な事例に関する研究も精力的に行った。
4.1. 刑事事件記録集
フォイエルバッハは、法務省での実務経験、特にバイエルン王国裁判所による死刑判決の国王による恩赦評価の職務から得た知見を基に、注目すべき事件の記録を出版した。1808年から1811年にかけて『Merkwürdige Criminalfälle奇妙な刑事事件ドイツ語』を、さらに1828年から1829年には大幅に増補された『Aktenmäßige Darstellung merkwürdiger Verbrechen法廷記録に基づく注目すべき犯罪の記述ドイツ語』を刊行した。
これらの著作は、フランスの弁護士ガヨ・ド・ピタヴァル(1673-1743)による有名な『奇談集』の伝統を受け継ぐ刑事事件の法的手引書であり、フォイエルバッハは犯罪捜査、刑事裁判官などのための現代的な犯罪心理学(Seelenkundeゼーレンクンデドイツ語)を確立することを意図していた。
しかし、彼の作品は時代とともに、単なる架空の扇情的な犯罪の文学的コレクションとして誤解され、彼の多くの裁判事例は通俗的な大衆犯罪物語として編集・出版されてきた。これに対し、ゲロルト・シュミットの研究によれば、フォイエルバッハは真の歴史的事件を、実際の場所と人物の氏名を用いて記録しており、したがって彼の作品は、バイエルンの地域史、社会史、精神史、人物伝などにとって貴重な歴史的資料であることが明らかにされている。
4.2. カスパー・ハウザー事件に関する研究
晩年、フォイエルバッハはヨーロッパ中で大きな注目を集めた謎の孤児、カスパー・ハウザーの運命に深く関心を抱いた。彼は、この事件に関する確定された事実を批判的にまとめた最初の人物であり、『Kaspar Hauser, ein Beispiel eines Verbrechens am Seelenlebenカスパー・ハウザー、魂の生命に対する犯罪の一例ドイツ語』(1832年)という題名で出版した。この著作は、彼の死後に日本語訳『カスパー・ハウザー』(西村克彦訳、福武文庫)も出版されており、ハウザーの死後の解剖報告書も添付されている。
フォイエルバッハ自身、また彼の家族も、彼の死の直前には、カスパー・ハウザーを保護し研究していたことが原因で毒殺されたと信じていた。ハウザー自身も、フォイエルバッハが亡くなった同年中に疑わしい状況で死亡している。この事件と彼の死との関連は、今日まで論争の的となっている。
5. 私生活
パウル・ヨハン・アンゼルム・フォン・フォイエルバッハの私生活は、彼の多忙な公務や学術活動の陰に隠れがちであったが、彼の家族はドイツの思想界に大きな足跡を残している。
5.1. 家族と子孫
フォイエルバッハは、ドルンベルク城管理人の娘で、ザクセン=ヴァイマル公国のエルンスト・アウグスト1世の非嫡出孫に当たるヴィルヘルミーネ・トレスターと結婚した。
彼らには5人の息子と3人の娘がいた。
- ヨーゼフ・アンゼルム・フォイエルバッハ(1798-1851): 長男。文献学者、考古学者。
- カール・ヴィルヘルム・フォイエルバッハ(1800-1834)
- エドゥアルト・アウグスト・フォイエルバッハ(1803-1843)
- ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804-1872): 四男。ヘーゲル左派の哲学者として知られる。
- ハインリヒ・フリードリヒ・フォイエルバッハ(1806-1880)
- レベッカ・マグダレーナ・フォイエルバッハ(1808-1891)
- レオノーレ・フォイエルバッハ(1809-1885)
- エリーゼ・フォイエルバッハ(1813-1883)
画家のアンゼルム・フォイエルバッハは彼の孫(長男ヨーゼフ・アンゼルムの息子)にあたる。
5.2. 死と状況
フォイエルバッハは1833年5月29日にフランクフルトで卒中を起こし死去した。彼の死因と状況については、いくつかの論争があり、多くは不明なままである。彼自身、そして彼の家族は、死の直前に、彼が保護し研究していたカスパー・ハウザー事件との関連で毒殺されたと信じていた。カスパー・ハウザーもまた、フォイエルバッハと同じ年に不審な状況下で死亡している。
6. 評価と影響
パウル・ヨハン・アンゼルム・フォン・フォイエルバッハは、ドイツの法学史において、近代化と人権保障の観点から極めて重要な影響を与えた人物として評価されている。彼の法学上の功績は、単に理論に留まらず、具体的な法制度の改革を通じて社会に深く根差した。
6.1. 法制度と法理論への影響
フォイエルバッハの最も重要な功績の一つは、バイエルン刑法典(1813年公布)の起草であり、これは彼の啓蒙的な見解の具現化であった。この法典は、拷問の廃止を含む画期的な内容を含んでおり、その影響はドイツ国内外に及んだ。この法典は直ちにヴュルテンベルクやザクセン=ヴァイマルの新法典の基礎となり、オルデンブルク大公国では全面的に採用され、スウェーデン語にも翻訳された。また、いくつかのスイスのカントンでも、この法典に準拠して法典を改正した。これにより、彼は近代的な罪刑法定主義を確立した先駆者として、後の多くの法制度や法理論に多大な影響を与えた。彼の理論は、裁判官の恣意的な判断を排し、成文法に基づく客観的で予測可能な司法の原則を確立することで、個人の自由と権利の保護を大きく前進させた。
6.2. 批判と歴史的解釈
フォイエルバッハの法理論や公職活動は、常に広く肯定的に評価されてきたが、特定の側面においては議論の対象ともなった。例えば、1811年の著作『Betrachtungen über das Geschworenengericht陪審員裁判に関する考察ドイツ語』において、彼が陪審員裁判に反対の立場を表明したことは、当時から論争を巻き起こした。彼の主張は、陪審員の評決が犯罪に対する十分な法的証明とはならないというものであり、司法の厳格な合理性を追求する彼の姿勢を反映していた。しかし、この見解は後に彼自身によっても一部修正された。
また、彼の刑事事件記録集が、後世において単なるセンセーショナルな物語として誤解された時期があったことも指摘されている。しかし、近年の研究により、これらの記録が実際の歴史的事件に基づいた貴重な資料であることが再評価されており、彼の意図した「現代的な犯罪心理学」への貢献という側面が再び注目されている。
総じて、フォイエルバッハは、彼の提唱した罪刑法定主義や法制度改革を通じて、近代国家における法の支配と人権保障の基礎を築いた、極めて影響力のある人物として歴史に名を刻んでいる。
7. 主な著作
- 『Reflexionen über die Prinzipien und Grundbegriffe des positiven peinlichen Rechts実定刑法における原理および根本概念の省察ドイツ語』(1799年-1800年)
- 『Strafgesetzbuch für das Königreich Bayernバイエルン王国刑法典ドイツ語』(1813年公布)
- 『Merkwürdige Criminalfälle奇妙な刑事事件ドイツ語』(1808年/1811年)
- 『Betrachtungen über das Geschworenengericht陪審員裁判に関する考察ドイツ語』(1811年)
- 『Betrachtungen über Öffentlichkeit und Mündigkeit der Gerechtigkeitspflege司法の公開性と口頭主義に関する考察ドイツ語』(1821年)
- 『Über die Gerichtsverfassung und das gerichtliche Verfahren Frankreichsフランスの裁判所構成と訴訟手続についてドイツ語』(1825年)
- 『Aktenmäßige Darstellung merkwürdiger Verbrechen法廷記録に基づく注目すべき犯罪の記述ドイツ語』(1828年/1829年)
- 『Kaspar Hauser, ein Beispiel eines Verbrechens am Seelenlebenカスパー・ハウザー、魂の生命に対する犯罪の一例ドイツ語』(1832年)