1. 概要

第2代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー(Anthony Ashley-Cooper, 2nd Earl of Shaftesburyアントニー・アシュリー=クーパー英語、1652年1月16日 - 1699年11月2日)は、イングランド王国の貴族、政治家である。1672年から1683年まではアシュリー卿の儀礼称号が用いられた。
彼は初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーの息子であり、1683年に父の爵位を継承し貴族院議員となった。それ以前には、1670年から1679年まで庶民院議員としてウェイマス・アンド・メルコンブ・レジスの代表を務め、また1679年から死去する1699年までドーセット副提督の職も務めた。
2. 生涯
アントニー・アシュリー=クーパーの生涯は、貴族としての生い立ちから公職への就任、そして爵位の継承に至るまで、当時のイングランド社会における上流階級の典型的な道のりを示している。
2.1. 生い立ちと初期の生活
アントニー・アシュリー=クーパーは、1652年1月16日に初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーとレディ・フランシス・セシルの間に生まれた。彼は貴族の子息として幼少期を過ごした。
2.2. 結婚と子女
1669年9月22日、アントニー・アシュリー=クーパーは第8代ラトランド伯爵ジョン・マナーズの娘であるレディ・ドロシー・マナーズ(1698年6月没)と結婚し、3人の子女を儲けた。
- アントニー(1671年 - 1713年) - 長男。第3代シャフツベリ伯爵を継承し、著名な哲学者および著述家となった。彼には子女があった。
- モーリス(1675年 - 1726年) - 次男。庶民院議員を務めた。
- エリザベス(1744年1月20日没) - 長女。1707年4月20日にジェームズ・ハリス(James Harrisジェームズ・ハリス英語)と結婚し、子女があった。
3. 政治および公職の経歴
第2代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーは、その生涯において複数の重要な公職を歴任し、イングランドの政治体制の一翼を担った。
3.1. 庶民院議員としての活動
彼は1670年から1679年までの間、イングランド議会の庶民院議員として、ウェイマス・アンド・メルコンブ・レジス選挙区から選出された。この期間中、彼は多くの委員会に参加し、議会の業務に積極的に貢献した。しかし、彼が議場で演説を行った記録は残されていない。
3.2. 爵位継承と貴族院入り
1683年1月22日に父である初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーが死去すると、彼はシャフツベリ伯爵の爵位を継承した。これにより、彼はイングランド貴族として貴族院に議席を得ることとなった。
3.3. ドーセット副提督
1679年4月16日から、彼はドーセット副提督の職に就き、この職を1699年11月2日に死去するまで務めた。この役職は、ドーセット州の沿岸地域における海軍行政と防衛に関わる重要な役割であった。
4. 死去
アントニー・アシュリー=クーパーは、1699年11月2日に47歳で死去した。彼の爵位は、長男であるアントニーが継承し、第3代シャフツベリ伯爵となった。
5. 評価と遺産
第2代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーの公的な活動は、その父や息子と比較して、特筆すべき政治的影響や思想的貢献が広く記録されているわけではない。しかし、彼の経歴は貴族としての義務と公職の遂行を示している。彼の最も顕著な遺産は、著名な哲学者・著述家となる長男アントニー・アシュリー=クーパー(第3代シャフツベリ伯爵)を世に送り出したことである。
5.1. 肯定的な評価
庶民院議員およびドーセット副提督としての彼の公職歴は、当時のイングランドにおける貴族階級の政治的関与の一例として挙げられる。現存する資料は彼の議会での積極的な委員会参加を記録しているものの、具体的な演説の記録がないことから、その役割は議論よりも行政的・事務的なものに重点が置かれていたと推測される。
5.2. 批判と論争
第2代シャフツベリ伯爵の公的な行動や決定に関して、特筆すべき批判や論争の記録は、現在の歴史資料からは見当たらない。彼の政治的キャリアは、スキャンダルや重大な失政なく遂行されたものと評価される。