1. 起源と系譜
イクシュヴァークの神話的な起源は、宇宙の創造主ブラフマーにまで遡る壮大な系譜の一部を成している。
1.1. 系譜
イクシュヴァークの系譜は、ブラフマーから始まり、以下のように続くとされる。
ブラフマー → マリーチ → カシュヤパ → ヴィヴァスヴァット(太陽神スーリヤ) → シュラッダデーヴァ・マヌ(ヴァイヴァスヴァタ・マヌ) → イクシュヴァーク。
シュラッダデーヴァ・マヌはヴィヴァスヴァットとサンジュニャーの息子であり、イクシュヴァークはシュラッダデーヴァ・マヌの十人の息子(イクシュヴァークとヌリガを含む)のうちの長男である。ヴァイヴァスヴァタ・マヌはダルマに関する知識を父ヴィヴァスヴァット(スーリヤ)から受け継ぎ、それをイクシュヴァークに伝えた。
1.2. 起源に関する学説
イクシュヴァークの起源については、いくつかの学術的な議論が存在する。
『アタルヴァ・ヴェーダ』やブラーフマナ文献では、イクシュヴァーク族が非アーリア人と関連付けられ、四大ヴェーダの賛歌を構成したアーリア人とは区別されることがある。F.E.パーギターは、イクシュヴァーク族をドラヴィダ人と同族であると主張した。フランシスカス・カイパー、マンフレート・マイヤーホーファー、レブマンらの見解によれば、イクシュヴァークという名前はムンダ語派に由来しており、イクシュヴァークの子孫であるシャカ族が少なくとも二言語使用者であった可能性を示唆している。また、シャカ族の村名の多くがインド・アーリア語派以外の起源を持つと考えられている。
一方で、G.S.グールイェは、イクシュヴァーク族はアーリアの騎馬民族であり、『リグ・ヴェーダ』を構成したアーリア人よりも早くインド亜大陸に到着したに違いないと反論している。ブラーフマナ文献の中には、イクシュヴァーク族がプル族の子孫である王子たちの系統であると述べるものもあり、プル族は『リグ・ヴェーダ』に登場するアーリア部族の一つである。イクシュヴァーク王朝の支配者であるマンダーターは、『リグ・ヴェーダ』においてダシューを滅ぼし、ヴェーダの医神であるアシュヴィン双神の助けを求めたとされている。
2. イクシュヴァーク王朝の創始
イクシュヴァークは、太陽王朝(スーリヤヴァムシャ)を創始し、アヨーディヤー(コーサラ)を首都としてその王国を確立した。
マヌは、自身が王位を退く際に、無敵の長男イクシュヴァークを王座に就かせ、「世に王家を築く者となれ!」と命じた。イクシュヴァークがその命令に従うことを約束すると、マヌは深く喜び、「罪なき者を決して罰してはならない。法に従って有罪の者に与えられた刑罰こそが、王を天へと導く手段である。ゆえに、この地上における最高の義務として、笏を振るう際に細心の注意を払うべし」と助言した。この教えを繰り返し説いた後、マヌは喜び勇んでブラフマーの永遠の住処へと向かったという。
2.1. 子孫と分派王朝
イクシュヴァークには百人の息子がいたとされる。
長男はヴィククシ(シャシャーダとも呼ばれる)で、彼はアヨーディヤーの王家を継承した。彼の他の主要な息子には、ニミ(ネーミ)やダンダ(ダンダカ)がいた。
プラーナ文献にはイクシュヴァークの子孫に関して二つの異なる説が記録されている。
- 第一の説**: イクシュヴァークの長男ヴィククシがアヨーディヤーの王位を継承し、残りの百人の息子のうち五十人が北インドを、四十八人が南インドを治めたとされる。また、息子の一人であるニミは東方のヴィデーハ王国を創設したと伝えられている。
- 第二の説**: 長男ヴィククシが王位を継承した点は同様だが、ヴィククシの息子たちのうち十五人がメール山の北側を、百十四人が南側を支配したとされている。
イクシュヴァークの血統は、ヒンドゥー教の英雄ラーマ、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラ、そして仏教の開祖ゴータマ・ブッダの祖先にも繋がると信じられている。
3. 聖典における記述
イクシュヴァークは、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教といったインド系宗教の様々な聖典において言及され、それぞれの信仰体系の中で重要な役割を果たしている。
3.1. ヒンドゥー教聖典において
ヒンドゥー教の主要な聖典では、イクシュヴァークは主に太陽王朝の創始者として、また伝説的な王として描かれている。
3.1.1. ヴェーダ文献
イクシュヴァークの名前は、『リグ・ヴェーダ』第10巻第60賛歌第4節において一度だけ言及されている。また、『アタルヴァ・ヴェーダ』第19巻第39章第9節にも彼の名が見られ、ここではマヌと関連する人物として記述されている。
3.1.2. 叙事詩およびプラーナ文献
『ラーマーヤナ』の主人公であるラーマは太陽王朝に属し、したがってイクシュヴァークの末裔であるとされている。『ラーマーヤナ』の中では、ブラフマー神からラーマに至る太陽族の系図が2箇所(第1巻第70章、第2巻第110章)に記載されている。叙事詩『ラーマーヤナ』において、聖仙アガスティヤはラーマに対してイクシュヴァークの起源を語っている。
『ヴィシュヌ・プラーナ』によれば、イクシュヴァークはマヌがくしゃみをした際にその鼻の穴から生まれたとされている。彼は百人の息子を持ち、その中でも特にヴィククシ、ニミ、ダンダの三人が傑出していた。彼の息子たちのうち五十人は北方の国々の王となり、四十八人は南方の王子であった。
プラーナ文献には、イクシュヴァークとヴィククシにまつわる逸話が記録されている。アシュタカと呼ばれる祖先の儀式を行う際、イクシュヴァークはヴィククシに供物に適した肉を持ってくるように命じた。王子は森で多くの鹿や他の獲物を狩ったが、疲労のため捕獲した野ウサギの一部を食べてしまった。その後、残りの獲物を父のもとへ持ち帰った。イクシュヴァーク王朝の祭司であるヴァシシュタは、供物を聖別するよう求められたが、ヴィククシが野ウサギを食したことで、その肉が「食べ残し」となり不浄であると宣言した。この行為に怒ったイクシュヴァークはヴィククシを追放したが、イクシュヴァークの死後、ブールローカの支配はヴィククシに引き継がれ、その後その息子プランジャヤが王位を継承した。
3.2. ジャイナ教において
ジャイナ教の聖典においては、初代ティールタンカラであるリシャバナータは王イクシュヴァークと同一視されている。
ジャイナ教の信仰では、第20代ティールタンカラのムニスヴラタと第22代ティールタンカラのネーミナータを除くすべてのティールタンカラがイクシュヴァーク(あるいはその分派)の血統の出身であるとされている。
リシャバナータには「サトウキビの伝説」が語り継がれている。リシャバナータが最初に世俗を捨てて出家した時、人々は彼に何を施したらよいか分からなかった。最終的にシュレーヤンサ王子がサトウキビの汁を施し物として与えた。ヴァイシャーカ月の白分(新月から満月にかけての期間)の3日目に行われるアクシャヤ・トリティーヤというジャイナ教の宗教行事は、この出来事を記念するものである。
3.3. 仏教において
仏教においては、ゴータマ・ブッダが属するシャカ族がイクシュヴァークの子孫であると伝えられている。
仏教聖典では、イクシュヴァークは「甘蔗王」(Okkākaオッカーカパーリ語)と称される。この名称は、「甘蔗」(サトウキビ)を意味する彼の名前に由来している。
『仏本行集経』には、甘蔗王にまつわる伝説が記されている。かつて大茅草王という王が王位を捨てて出家し、弟子たちは彼を大籠に入れて木に吊るした。ある時、猟師がその王を白鳥と見間違えて射殺してしまった。その時、王が流した血が地面に落ち、そこから二本の甘蔗が生え、その中から童子と童女が現れたという。人々はその童子を王位に就かせ、これが甘蔗王となった。
4. 遺産と意義
イクシュヴァークは、インドの三大宗教であるヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教のいずれにおいても、重要な祖先として、あるいは伝説的な王としてその名を残している。彼の創始した太陽王朝は、その後の多くの高貴な家系や精神的指導者たちの血統として崇敬され、インドの宗教的・文化的景観に計り知れない影響を与えた。
4.1. 名の意味
イクシュヴァークの「イクシュ」(ikṣuイクシュサンスクリット)は「サトウキビ」を意味する。この語源から、彼は仏教聖典において「甘蔗王」(かんしょおう)と呼ばれるようになった。この名前は、彼が人類にサトウキビの栽培法を教えた、あるいはサトウキビのように甘く高潔な統治を行ったことを象徴すると解釈されることがある。この名称は、彼の統治の豊かさや、彼の子孫が後に人類の精神的指導者として現れることを暗示しているとも考えられる。