1. 概要
エルンスト=ロベルト・グラヴィッツ(Ernst-Robert Grawitzエルンスト=ロベルト・グラヴィッツドイツ語、1899年6月8日 - 1945年4月24日)は、ナチス・ドイツの医師であり、親衛隊の幹部であった人物です。彼は親衛隊および警察の医学総監(Reichsarzt SS und Polizeiライヒスアルツト・エスエス・ウント・ポリツァイドイツ語)やドイツ赤十字社副総裁といった要職を歴任しました。グラヴィッツは、ナチス政権下で行われた非人道的な人体実験や「絶滅プログラム(Action T4)」といった医療犯罪に深く関与し、特に強制収容所の収容者に対する残虐な実験を支援・承認しました。彼の行為は、社会的に弱い立場にあった人々、特に精神的・身体障害者や同性愛者の人権を著しく侵害し、その命を奪う結果を招きました。第二次世界大戦末期、ソ連軍がベルリンに進攻する中、彼はアドルフ・ヒトラーにベルリンからの脱出を拒否され、1945年4月24日に自宅で家族と共に手榴弾を用いて自決しました。彼の生涯と死は、ナチス体制下での医療の堕落と、それがもたらした悲劇を象徴しています。
2. 生涯
エルンスト=ロベルト・グラヴィッツの生涯は、第一次世界大戦への従軍から始まり、医学の道を歩みながらも、ナチ党および親衛隊への入党を通じて、ナチス政権の医療犯罪に深く関与していくことになります。
2.1. 出生と背景
グラヴィッツは1899年6月8日、ドイツ帝国のベルリン西部にあるシャルロッテンブルクで、軍医であった父エルンスト・グラヴィッツの息子として生まれました。彼の妻イルゼは、親衛隊上級集団指導者(SS-Obergruppenführerエスエス・オーバーグルッペンフューラードイツ語)であったジークフリート・タウベルトの娘でした。
2.2. 教育
第一次世界大戦中の1917年から従軍しましたが、1918年にはイギリス軍の捕虜となりました。1919年に捕虜収容所から釈放された後、ベルリン大学で医学を学び、医学博士号を取得しました。
2.3. 初期経歴と政治活動
1920年に発生したカップ一揆には、義勇軍の一員として参加しています。1929年からは内科医として働き始めました。1931年には国家社会主義ドイツ労働者党に入党し(党員番号1,102,844)、1932年3月29日には親衛隊に入隊しました(隊員番号27,483)。1933年にはベルリン・ヴェストエント病院の主任医師に就任しました。
3. 主要な役職と活動
グラヴィッツはナチス政権下で親衛隊および警察の医学総監という重要な役職に就き、またドイツ赤十字社の副総裁として、その組織の本来の原則を逸脱させる活動を行いました。
3.1. 親衛隊医学総監
1935年6月1日に親衛隊衛生局長に任命され、その後、親衛隊および警察の医学総監(Reichsarzt SS und Polizeiライヒスアルツト・エスエス・ウント・ポリツァイドイツ語)を務めました。この職務において、彼は親衛隊の最高医療責任者であり、親衛隊大将(SS-Obergruppenführerエスエス・オーバーグルッペンフューラードイツ語)および武装親衛隊大将(General der Waffen-SSゲネラール・デア・ヴァッフェン・エスエスドイツ語)の最終階級を持つ高い権限を行使しました。1940年には武装親衛隊衛生総監にも任命され、1941年にはグラーツ大学の名誉教授となっています。彼は親衛隊の医療体制全体を統括し、その権限はナチスが行う非人道的な医療行為の実行に大きく寄与しました。

3.2. ドイツ赤十字社での役割
1937年から1945年にかけて、グラヴィッツはドイツ赤十字社の副総裁を務め、事実上の責任者となりました。この期間、彼はドイツ赤十字社をその設立当初の赤十字の原則から大きく逸脱させ、ナチスのイデオロギーと政策に従属させました。これにより、人道支援組織としての役割は歪められ、ナチスの医療犯罪に間接的に関与する形となりました。

4. ナチスの医療犯罪への関与
エルンスト=ロベルト・グラヴィッツは、ナチス政権下で行われた数々の医療犯罪において中心的な役割を果たしました。彼の関与は、資金提供から実験の承認、殺害プログラムの実行に至るまで多岐にわたり、多くの無辜の人々の命を奪い、人権を侵害しました。
4.1. 強制収容所における人体実験支援
グラヴィッツは、強制収容所の収容者を対象とした非人道的な人体実験を積極的に支援しました。彼は、これらの実験を計画する研究者たちからの申請を受け付け、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに転送し、最終的な承認を得るプロセスにおいて重要な役割を担いました。彼は強制収容所の収容者を使った実験に「熱心な実験者」として関与し、ナチスの医療プログラムに資金を提供しました。
4.2. 「絶滅プログラム(Action T4)」への参加
グラヴィッツは、ナチスによる「絶滅プログラム(Action T4)」において、精神的および身体的障害を持つ人々、さらには子供たちを対象とした殺害プログラムの責任者グループの一員でした。このプログラムは1939年から開始され、彼は殺害を実行する医師を選定する役割を担いました。彼の関与は、大量殺戮を医療行為として正当化しようとするナチスの試みを支えるものでした。
4.3. 同性愛者に対する研究と実験
グラヴィッツは、同性愛を「治療」するという名目で、カール・フェルネトというコペンハーゲンの医師と協力関係を築きました。彼は、同性愛を「根絶」するためのナチスの計画を支援し、ブーヘンヴァルト強制収容所の収容者を対象とした実験を提案し、支援しました。これらの実験は、非科学的かつ非人道的な方法で同性愛者の「治療」を試みるもので、収容者の人権を完全に無視したものでした。
4.4. その他の強制収容所実験
グラヴィッツは、カール・ゲープハルトらと共に、1942年から1943年にかけてラーフェンスブリュック強制収容所で残虐な人体実験を行いました。これには、収容者を対象としたガス壊疽の感染実験などが含まれ、これらの実験は、収容者の生命と尊厳を完全に軽視したものでした。
5. 第二次世界大戦末期と死
第二次世界大戦末期、グラヴィッツはアドルフ・ヒトラーの側近として総統地下壕にいましたが、ソ連軍の進撃が迫る中で絶望的な状況に追い込まれ、自決を選びました。
5.1. 総統地下壕での活動
第二次世界大戦末期、グラヴィッツはアドルフ・ヒトラーの総統地下壕に滞在し、彼の主治医の一人として仕えました。彼は、他の幹部たちがベルリンから脱出しようとしていることを知り、自身もベルリンを離れる許可をヒトラーに求めました。
5.2. 家族と共に遂げた自決
しかし、グラヴィッツのベルリン脱出の要求はヒトラーによって拒否されました。ソ連軍がベルリンに進攻し、状況が絶望的になる中、彼は深い絶望に陥りました。1945年4月24日、グラヴィッツはポツダム=バーベルスベルクの自宅で、妻と二人の子供と共に夕食を摂る中、テーブルの下に置いていた二つの手榴弾のピンを抜き、爆発させて家族と共に自決しました。この行為は、ナチス体制の崩壊と、それに伴う幹部たちの末路を象徴する出来事となりました。
6. 評価とメディアでの描写
エルンスト=ロベルト・グラヴィッツの歴史的評価は、彼が関与した医療犯罪によって決定づけられています。彼の行為は、現代において人権侵害の最も極端な例として批判的に評価されています。
6.1. 歴史的評価
グラヴィッツは、ナチス体制下で医学を悪用し、数々の非人道的な医療犯罪に深く関与した人物として、歴史的に極めて批判的に評価されています。彼の支援した人体実験や「絶滅プログラム」は、ニュルンベルク綱領に反するものであり、ジェノサイドの一環として、人道に対する罪に問われるべき行為でした。彼の行動は、医療倫理の完全な崩壊と、国家が主導する暴力が科学の名の下に行われた悲劇的な事例として記憶されています。特に、精神的・身体的障害者や同性愛者といった社会的に弱い立場の人々に対する彼の行為は、彼らが人間としての尊厳を完全に否定されたことを示しており、人権と社会発展に計り知れない負の影響を与えました。
6.2. メディアにおける描写
グラヴィッツの生涯と、特にその最期は、2004年に公開されたドイツ映画『ヒトラー ~最期の12日間~』(Der Untergangデア・ウンターガングドイツ語)で描かれています。この映画では、グラヴィッツは俳優クリスチャン・ヘーニングによって演じられ、彼が総統地下壕でヒトラーにベルリン脱出を懇願し、拒否された後に家族と共に自決する場面が再現されています。この描写は、ナチス幹部たちの末期の心理状態と、彼らが犯した罪の重さを観客に伝えるものとなっています。