1. 概要

エーリッヒ・リベック(Erich Ribbeckエーリッヒ・リベックドイツ語、1937年6月13日 - )は、ドイツの元サッカー選手であり、監督である。特にブンデスリーガのクラブ監督として広く知られており、1988年にはバイエル・レバークーゼンの監督として、クラブ史上初の主要タイトルであるUEFAカップ優勝を果たした。しかし、1998年から2000年にかけて務めたドイツ代表監督時代は、UEFA EURO 2000での不振な成績など、ドイツ代表の近代史において「暗黒時代」として記録されるなど、厳しい評価も受けている。
2. 生い立ちと選手経歴
エーリッヒ・リベックのサッカーキャリアは選手として始まり、その後指導者としての道へと進んだ。
2.1. 幼少期と形成期
リベックは1937年6月13日、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州ヴッパータールに生まれた。
2.2. 選手経歴
選手時代のリベックは主にディフェンダーとしてプレーした。1950年代から1960年代初頭にかけて、当時のドイツ1部リーグが5つの地域リーグに分かれていたオーバーリーガに所属するSSV 1904 ヴッパータール(後のヴッパーターラーSVボルシア)でキャリアの大半を過ごした。その後、SCBヴィクトリア・ケルン(現在のFCヴィクトリア・ケルン)で残りの選手キャリアを終えた。1965年にはバイエル・レバークーゼンやブンデスリーガのヘルタ・BSCへの移籍も検討されたが、いずれも実現しなかった。
2.3. 指導者への転身
選手引退後、リベックは指導者の道へと転身した。1965年にボルシア・メンヒェングラートバッハのアシスタントコーチに就任し、名将ヘネス・バイスバイラーの下で指導者としての経験を積んだ。また、1978年から1984年にかけては、ユップ・デアヴァル監督が率いる西ドイツ代表のアシスタントコーチを務めた。1984年のUEFA欧州選手権で西ドイツ代表がグループリーグ敗退した後、デアヴァルが解任されると、リベックは次期監督候補の一人として名前が挙がったが、最終的にはフランツ・ベッケンバウアーが監督に就任した。
3. 監督経歴
リベックはドイツ国内の様々なクラブや国家代表チームで監督を務めた。
3.1. クラブ監督時代
リベックは若くして監督キャリアをスタートさせ、数多くのクラブで指揮を執った。
3.1.1. ロートヴァイス・エッセンでの監督時代
1967年、30歳という若さでロートヴァイス・エッセンの監督に就任したのが、彼の初の監督職である。1967-68シーズンには、当時のドイツ2部リーグ西地区でチームを2位に導き、昇格トーナメントに進出させたが、ヘルタ・ベルリンに敗れ、惜しくも昇格を逃した。
3.1.2. その他の初期クラブ監督時代
ロートヴァイス・エッセンでの指揮後、リベックは次の10年間をアイントラハト・フランクフルトと1.FCカイザースラウテルンでほぼ半分ずつ過ごした。これらのクラブを率いた期間中、ブンデスリーガでは中位に留まることが多かった。しかし、カイザースラウテルンでは1976年のDFBポカール決勝に進出したが、ハンブルガーSVに0-2で敗れ、準優勝に終わった。
3.1.3. バイエル・レバークーゼンでの最初の監督時代
1985年、リベックはバイエル・レバークーゼンの監督に就任した。彼の最初のシーズンで、クラブは史上初めてヨーロッパの大会への出場権を獲得した。そして1988年には、レバークーゼンはクラブ史上初の主要タイトルとなるUEFAカップをリベックの下で獲得した。この大会でレバークーゼンはFKアウストリア・ウィーン、トゥールーズFC、フェイエノールト、FCバルセロナ、ヴェルダー・ブレーメンを破って決勝に進出した。決勝ではRCDエスパニョールと対戦し、アウェーでの1stレグを0-3で落とすも、ホームでの2ndレグで3-0と追いつき、その後のPK戦で勝利を収めた。
3.1.4. その他の主要クラブ監督時代
レバークーゼンでの成功後、リベックはボルシア・ドルトムント、FCバイエルン・ミュンヘン、そして再びバイエル・レバークーゼンなど、ドイツの主要クラブで監督を務めた。
1992年3月には、FCバイエルン・ミュンヘンの監督に就任し、セーレン・レアビーの後任となった。この時チームは予想外に降格圏争いをしていたが、リベックはチームを10位に導き、1978年以降で最悪のリーグ順位ながらも降格を回避させた。翌シーズンには、バイエルンは優勝争いに加わり、最終節までヴェルダー・ブレーメンと勝ち点で並んでいたものの、わずか1ゴール差で2位となった。リベックは1993年末に選手やウリ・ヘーネスからの批判を受け、リーグ首位と1ポイント差ながらも解任された。彼の後任となったフランツ・ベッケンバウアーが最終的にリーグ優勝を勝ち取った。
1995年にバイエル・レバークーゼンに2度目の監督として復帰したが、この任期はわずか1年で終了した。
3.2. ドイツ代表監督時代
1998年9月9日、リベックはベルティ・フォクツの後任としてドイツサッカー国家代表チーム監督に就任した。当時61歳で、ドイツ代表監督としては史上最高齢での就任だった。この就任は、他の有力候補が辞退したため、リベックが引退状態から復帰して引き受ける形となった。
3.2.1. UEFA EURO 2000と辞任
リベックがドイツ代表監督を務めた約2年間は、ドイツ代表の近代史において最悪の時期とされている。UEFA EURO 2000では、予選グループ3組を1位で通過したものの、本大会では低調な成績に終わった。初戦はルーマニアと1-1で引き分け、2戦目ではイングランドに15年ぶりの敗戦となる0-1で敗れた。最終戦では控え選手主体のポルトガルに0-3と完敗し、0勝1分2敗の勝ち点1でグループリーグA組の最下位となり、早々と敗退した。1938年以降の主要国際大会において、ドイツサッカー史上稀に見る不成績に終わったことで国民からの強い非難を浴び、リベックは2000年6月21日に監督を辞任した。
この大会中、リベックはオリバー・ビアホフ、オリバー・カーン、イェンス・ノヴォトニー、メーメット・ショルといった主力選手たちが、当時ベテランのローター・マテウスを起用しないよう求めたにもかかわらず、その要求を拒否した。リベックはマテウスが代表戦150試合出場を達成することを主張し、反抗的な代表選手たちに対しては罰金やチームからの除外をちらつかせたという。
3.2.2. 全体的な成績と影響
ドイツ代表監督としてのリベックの通算成績は、10勝6引き分け8敗であり、これはドイツ代表監督の歴史上、最悪の成績として記録されている。彼の在任期間は、ドイツ代表にとって「暗黒時代」として語られることが多い。
4. 監督成績
エーリッヒ・リベックが監督を務めた各チームごとの成績は以下の通りである。
チーム | 就任 | 退任 | 成績 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合数 | 勝利 | 引き分け | 敗戦 | 勝率 | 備考 | |||
ロートヴァイス・エッセン | 1967年7月1日 | 1968年6月30日 | 42 | 25 | 11 | 6 | 59.5% | |
アイントラハト・フランクフルト | 1968年7月1日 | 1973年6月30日 | 203 | 83 | 41 | 79 | 40.9% | |
1.FCカイザースラウテルン | 1973年7月1日 | 1978年6月30日 | 192 | 85 | 32 | 75 | 44.3% | |
ボルシア・ドルトムント | 1984年10月28日 | 1985年6月30日 | 25 | 10 | 4 | 11 | 40.0% | |
バイエル・レバークーゼン | 1985年7月1日 | 1988年6月30日 | 125 | 53 | 36 | 36 | 42.4% | |
FCバイエルン・ミュンヘン | 1992年3月12日 | 1993年12月27日 | 75 | 37 | 22 | 16 | 49.3% | |
バイエル・レバークーゼン | 1995年4月10日 | 1996年4月28日 | 48 | 17 | 18 | 13 | 35.4% | |
ドイツ | 1998年9月9日 | 2000年6月21日 | 24 | 10 | 6 | 8 | 41.7% | |
合計 | 734 | 320 | 170 | 244 | 43.6% |
5. 栄誉
5.1. 監督
- UEFAカップ:1987-88 (バイエル・レバークーゼン)
6. 私生活と引退
エーリッヒ・リベックは引退後、ドイツのプルハイムとスペインのテネリフェ島を行き来して生活している。
7. 評価と影響
リベックの監督キャリアは、成功と批判が混在するものであった。
7.1. 主な功績と肯定的な評価
彼のキャリアにおける最大の功績は、1988年にバイエル・レバークーゼンを率いてUEFAカップを獲得したことである。これはクラブ史上初の主要タイトルであり、リベックの指導力とチーム構築能力が高く評価される点である。また、FCバイエルン・ミュンヘン時代には、降格圏に沈んでいたチームを短期間で立て直し、翌シーズンにはリーグ準優勝に導くなど、危機管理能力とチームを上位に引き上げる手腕を示した。
7.2. 批判と論争
一方で、リベックの評価は、ドイツ代表監督時代の不振によって大きく低下した。特にUEFA EURO 2000でのグループリーグ敗退は、ドイツサッカーの歴史における「暗黒時代」として記憶されている。この期間、チームのパフォーマンスは低調であり、ベテラン選手ローター・マテウスの起用を巡る選手たちとの対立は、チーム内の不和を露呈させ、監督としてのリーダーシップ不足を批判される要因となった。彼のドイツ代表監督としての勝率は史上最悪であり、この時期の評価は非常に厳しいものとなっている。
8. 関連項目
- サッカー選手一覧
- サッカードイツ代表
- ブンデスリーガ
- UEFAカップ
- FCバイエルン・ミュンヘン
- バイエル・レバークーゼン
- ボルシア・ドルトムント
- アイントラハト・フランクフルト
- 1.FCカイザースラウテルン
9. 外部リンク
- [http://www.eintracht-archiv.de/ribbeck.html eintracht-archiv.deのエーリッヒ・リベック記事]
- [http://www.dfb.de/index.php?id=12345 DFBによるエーリッヒ・リベック監督の紹介]
- [http://www.fussballdaten.de/spieler/ribbeckerich/ fussballdaten.deのエーリッヒ・リベック統計]