1. 概要
コニヤーズ・カービー (Conyers Kirbyコニヤーズ・カービー英語、1884年3月18日 - 1946年4月9日) は、ラルフ・カービー (Ralph Kirbyラルフ・カービー英語) としても知られる、イングランドのプロサッカー選手および監督であった。彼は選手としては主にバーミンガムでプレーしたが、そのキャリアの大部分と影響はスペインでの監督業に見られた。1918年にスペインへ渡ってからは、CEエウロパ、FCバルセロナ、アスレティック・ビルバオといった著名なクラブを率い、特にカタルーニャとバスク地方のサッカー界の発展に大きく貢献した。彼の指導は、サッカーというスポーツがより多くの人々に親しまれ、社会に浸透していく上で重要な役割を果たし、地域のサッカー文化の基礎を築いた点で、その影響は単なる勝利数を超えたものと評価される。
2. 生涯と初期のキャリア
コニヤーズ・カービーは1884年3月18日に、イングランドのバーミンガム市ボードリー・グリーン地区で生まれた。若くしてサッカーの才能を示し、後にプロの道に進むこととなる。彼はかつて王立陸軍医療部隊に所属しており、その間もサッカー選手として部隊を代表して活動した。また、この時期には陸上競技においても短距離走のチャンピオンとなるなど、その身体能力の高さは特筆すべきものであった。
3. 選手キャリア
カービーは右ウイングの選手として活躍した。彼のプロ選手としてのキャリアは以下の通りである。
- 1905年、サザンリーグに所属していたフラムに加入し、4試合のリーグ戦に出場した。
- 1906年のシーズンオフにバーミンガムに移籍。1906年9月6日に、ファーストディビジョンのニューカッスル・ユナイテッド戦で、バーミンガムでの唯一のフットボールリーグ出場を果たした。この試合はホームで行われ、バーミンガムは2-4で敗れている。
- その後、ブラックプールに加入したが、フットボールリーグでの出場はなかった。
- さらに、ノンリーグのクラブであるウスター・シティ、キダーミンスター・ハリアーズ、ウィレンホール・ピックウィックでプレーした。
- 1913年、再びフラムに戻った。
- 1918年に選手としてのキャリアを引退した。
4. 監督キャリア
選手引退後、カービーは1918年にスペインへ移住し、審判としても活動しながら、サッカー監督としての道を歩み始めた。彼は1920年代を通じてCEエウロパとFCバルセロナという、当時のスペインサッカー界を代表するクラブで指揮を執った。また、アスレティック・ビルバオの監督も務めている。
4.1. CEエウロパ (初回)
カービーは1922年8月にCEエウロパの監督に就任した。彼の指導の下、エウロパは目覚ましい成績を収めた。
- 1923年、カタルーニャ選手権で優勝に導いた。このシーズン、エウロパはバルセロナと勝ち点で並んだ後、優勝決定戦でバルセロナを1-0で破り、タイトルを獲得した。
- カタルーニャ代表としてコパ・デル・レイに出場。セビージャやスポルティング・ヒホンを破り、決勝に進出した。
- しかし、レス・コルツで開催された1923年のコパ・デル・レイ決勝では、アスレティック・ビルバオに0-1で敗れ、準優勝に終わった。
4.2. FCバルセロナ
1924年12月、カービーはイムレ・ポショニの後任としてバルセロナの監督に就任した。
- 彼の指揮下での初戦は、1924年のクリスマスに行われたファースト・ウィーンとの親善試合で、2-0で勝利を収めた。
- バルセロナでは合計39試合でチームを指導した。
4.3. アスレティック・ビルバオ
FCバルセロナを離れた後、カービーは1925年9月にアスレティック・ビルバオの監督に就任した。彼はこのクラブを1926年5月まで率いた後、イングランドへ帰国した。
4.4. CEエウロパ (二度目)
1930-31シーズンには、カービーは再びCEエウロパの監督を務めた。しかし、この在任期間は前回とは異なり、チームは厳しい状況に直面した。エウロパはリーグ戦で最下位に終わり、2部リーグへの降格を喫した。
5. 獲得タイトル
コニヤーズ・カービーが選手または監督として獲得した主なタイトルは以下の通りである。
- CEエウロパ**
- コパ・デル・レイ準優勝: 1923年
- カタルーニャ選手権: 1922-23シーズン
- FCバルセロナ**
- コパ・デル・レイ: 1925年
- カタルーニャ選手権: 1925年
- アスレティック・ビルバオ**
- バスク選手権: 1925-26シーズン
6. 死去
コニヤーズ・カービーは1946年4月9日に死去した。具体的な死亡場所に関する情報は、現時点では詳らかではない。