1. 概要
金簡(金簡きん かん中国語、ᡤᡳᠨᡤᡳᠶᠠᠨギンギヤン満州語、김간キム・ガン韓国語、1721年 - 1795年1月13日)は、清朝の官僚で、乾隆帝の時代に様々な要職を歴任した人物である。字は可亭かてい中国語。朝鮮の義州にルーツを持つ金氏の出身で、清の八旗に編入された家系に属する。彼は内務府総管大臣、四庫全書副総裁、工部尚書、吏部尚書など、清朝の中枢を担う重要な役職を歴任し、その行政手腕と政策への貢献を通じて清朝の繁栄に寄与した。特に、大規模な文化事業である『四庫全書』の編纂に副総裁として深く関わり、またベトナム後黎朝の亡命者たちを八旗に編入させるなどの外交・行政業務も担当した。彼の妹は乾隆帝の淑嘉皇貴妃であり、彼は皇室との縁も深い重臣として知られている。
2. 生涯と家系
金簡は、朝鮮半島の義州に起源を持つ金氏の家系に生まれた。彼の家系は、清朝初期に清に帰順し、八旗制度に編入された朝鮮族の流れを組む。
2.1. 出身と初期の家系
金簡の先祖である三達理(三達理サンダリ中国語)とその兄辛達理(辛達理シンダリ中国語)は、後金(後の清)が成立した初期の天聡元年(1627年)、丁卯の役(1627年)の際に後金に帰順した。彼らは通訳官として仕え、その後、八旗の一つである正黄旗(正黃旗せいきこうき中国語)の包衣(包衣ボーイ中国語、皇帝直属の家政組織)に編入され、高麗佐領(高麗佐領こうらいされい中国語、朝鮮族出身者で構成される部隊)の職を務めた。これにより、彼らの家系は満洲の士族として確固たる地位を築いた。特に、内務府においては、この高麗佐領が唯一の佐領組織であり、正黄旗包衣第四参領に属し、金氏と韓氏がその中で最も顕著な二大姓として知られ、多くの功績を挙げ、世襲の官職を得るなど、満洲貴族からの寵愛と重視を受けた。
2.2. 家族関係
金簡の曾祖父である三達理は、兄辛達理と共に清朝に帰順し、高麗佐領に任じられた。彼の祖父である尚明については詳細な記録は少ない。父は金三宝(金三寶きん さんぽう中国語)で、巡視長蘆塩政(長蘆塩政巡視)、武備院卿、公中佐領、第三佐領、第四佐領などを歴任した。
金簡には複数の兄弟がおり、長兄の金鼎(金鼎きん てい中国語)は藍翎侍衛(藍翎侍衛らんれいじえい中国語)を務め、次兄の金輝(金輝きん き中国語)は兵部満洲左侍郎に任じられた。そして、彼の妹は乾隆帝の淑嘉皇貴妃(淑嘉皇貴妃しゅくかこうきひ中国語)であった。
金簡の息子である温布(缊布うんぷ中国語)もまた高官として活躍し、蒙古正紅旗副都統、漢軍鑲紅旗都統、総管内務府大臣、兵部侍郎、工部尚書などを務めた。
3. 主要な経歴と活動
金簡は清朝の官僚として、乾隆帝の治世において多様な職務を歴任し、多くの重要な行政および政策に深く関与した。
3.1. 官職任命と昇進過程
金簡の官僚としてのキャリアは順調で、重要な役職を次々と歴任した。
乾隆37年(1772年)、彼は内務府総管大臣(總管內務府大臣そうかんないむふだいじん中国語)に昇進した。同年には武英殿の管理も担当し、さらに『四庫全書』の副総裁(四庫全書副總裁しこぜんしょふくそうさい中国語)に任命され、この大規模な編纂事業における校閲と監督の責任を負った。
乾隆39年(1774年)には、戸部侍郎(戶部侍郎こぶしろう中国語)に任じられ、財務を掌管するとともに、漢軍鑲黄旗都統(漢軍鑲黃旗都統かんぐんじょうこうきととう中国語)を兼務し、孔雀翎(孔雀翎くじゃくりょう中国語)を賜った。
乾隆43年(1778年)には、乾隆帝の命により『四庫薈要』(四庫薈要しこかいよう中国語)の編纂を主宰し、工部尚書(工部尚書こうぶしょうしょ中国語)の職務を代行した。
乾隆46年(1781年)に正式に工部尚書となり、乾隆48年(1783年)には工部尚書に昇進するとともに、漢軍鑲黄旗都統の職務も継続した。
乾隆57年(1792年)には、吏部尚書(吏部尚書りぶしょうしょ中国語)に転任した。
3.2. 主要な行政および政策への参加
金簡は、清朝の主要な行政および政策に多岐にわたって関与した。
乾隆40年(1775年)、彼は閏四月の扇炉(冬に暖をとるための炉)の廃止を上奏し、乾隆帝に承認された。
乾隆43年(1778年)、彼は盛京(現在の瀋陽市)に赴き、盛京将軍弘昇(弘昇こうしょう中国語)と協力して銀庫の銀量不足事件を調査した。この調査により、国庫の資金を横領していたラザ礼(拉薩禮らさり中国語)やイ・ルン(伊倫い ろん中国語)らが法律に基づき処罰された。同時期に乾隆帝が東巡中に盛京の多くの城壁が崩壊しているのを発見すると、随行の軍機大臣たちに修復費用を見積もり、予算を割り当てるよう命じ、金簡に工部の事務を一時的に管理させた。
乾隆49年(1784年)、彼は京師(首都北京)とその周辺地域の河川の渋滞を解消するため、浚渫措置を講じた。
乾隆50年(1785年)には、千叟宴(千叟宴せんそうえん中国語)に参加した。この年、彼は『四庫全書』の完成に貢献した功績が認められた。また、乾隆帝は劉墉(劉墉りゅう よう中国語)や徳保(徳保とく ほ中国語)に命じて明の十三陵の修復を開始させ、竹寺陵の月台の追加、享殿や宮門の拡張も行った。
3.3. ベトナム亡命者関連業務
乾隆55年(1790年)、ベトナム後黎朝の最後の皇帝である黎昭統(Lê Chiêu Thống黎昭統ベトナム語)が玉回・ドンダーの戦いの後、清朝に亡命し北京に滞在していた。乾隆帝は、黎昭統とその追随者たちを八旗の漢軍鑲黄旗安南佐領(安南佐領あんなんされい中国語)に編入するよう命じた。当時、漢軍鑲黄旗都統を務めていた金簡は、彼らを旗に編入する業務を担当した。
乾隆56年(1791年)には、黎昭統に随行していた臣下である黄益暁(Hoàng Ích Hiểu黄益暁ベトナム語)や黎光済(Lê Quang Tễ黎光済ベトナム語)らがベトナムへの帰国を希望したため、乾隆帝は金簡と他の将軍たちに命じて、彼らを本国へ護送させた。
4. 死去
金簡は乾隆59年(1794年)に病のため死去した。具体的な死日は1795年1月13日とされる。彼は死去に際し、乾隆帝から勤恪(勤恪きんかく中国語)の諡号(諡号しごう中国語)を追贈された。
5. 死後の評価と影響
金簡は乾隆帝の治世において重要な役割を果たし、その行政能力と忠誠心が高く評価された。彼の死後、皇室による追悼と名誉が与えられ、また彼の家系にも変化があった。
5.1. 死後の追悼と名誉
金簡の死去に際し、乾隆帝は金簡を偲ぶ特別の詔を発し、皇孫の綿勤(綿勤めんきん中国語)を派遣して祭祀を行わせるなど、皇室からの深い哀悼の意が示された。彼に贈られた諡号「勤恪」は、その勤勉さと厳格な性格を称えるものであり、清朝における彼の功績と忠誠心を認めるものであった。
5.2. 家系の変化
金簡の死後、嘉慶元年(1795年)には、彼の金氏の家系は姓を満洲姓の金佳(ᡤᡳᠨᡤᡳᠶᠠギンギヤ満州語)に改め、所属していた八旗も満洲正黄旗に編入された。これは、朝鮮族としてのルーツを持つ家系が、清朝の支配民族である満洲族としての地位を確立し、より清朝の中核に取り込まれたことを意味する重要な変化であった。