1. Overview
ダニイル・ヴァシリエヴィチ・カザケヴィチ(Даниил Васильевич Казакевичダニイル・ヴァシリエヴィチ・カザケヴィチロシア語、1902年12月16日 - 1988年11月28日)は、ソビエト連邦の中将であり、ソ連邦英雄の称号を授与された軍人である。彼は1920年に赤軍に入隊し、ポーランド・ソビエト戦争で戦った。1923年にはソビエト国境警備隊に転属し、将校としてのキャリアを積んだ。1939年までに極東国境管区の参謀長を務め、1942年12月には国境警備隊から編成された極東NKVD狙撃師団の参謀長に任命された。この師団は数ヶ月後に第102狙撃師団と改称される。クルスクの戦いの一部であるクトゥーゾフ作戦での戦闘後、1943年9月に第399狙撃師団の指揮官となった。カザケヴィチはこの師団を率いて、ドニエプル川の戦い、バグラチオン作戦、東プロイセン攻勢といった主要な作戦を遂行した。特に1944年9月のナレフ川渡河における橋頭堡確保の指揮におけるリーダーシップが評価され、ソ連邦英雄の称号を授与された。戦後、彼は国境警備隊に戻り、モルドバおよび南西国境管区の指揮を執った。東ドイツ国境警備隊の顧問として2年間務めた後、ソビエト国境警備隊の軍事教育機関長に就任した。1959年に退役し、モスクワに居住しながらイントゥーリスト総局で勤務した。
2. 前半生と教育
カザケヴィチは1902年12月16日、ヴィリナ県ラゼチェ村で生まれた。彼は幼少期から青年期にかけてオムスクで過ごし、高校卒業後は工場の大工として働いていた。
3. 初期軍事キャリア (1920-1923)
1920年6月、彼は赤軍に召集された。同年6月から12月にかけて、第186狙撃連隊に所属し、ポーランド・ソビエト戦争とスタニスラフ・ブーラク=バラホヴィチ軍に対する作戦に従事した。その後、ベロモルスク軍管区およびシベリア軍管区で勤務した。1923年にはソビエト国境警備隊に転属した。
4. 戦間期 (1923-1941)
戦間期において、ダニイル・カザケヴィチは国境警備隊でのキャリアを大きく発展させ、様々な訓練を修了し、指揮官としての役割を担い、昇進を重ねた。
4.1. 国境部隊での勤務と訓練
1923年、カザケヴィチはミンスク歩兵訓練課程を修了した。1923年から1924年にかけて、彼はベラルーシ国境管区の国境哨所副責任者を務めた。1924年には第42ジャブライル国境分遣隊の国境哨所責任者となった。1926年には第38アハルツィヘ国境分遣隊の国境哨所責任者に就任した。1927年に国境警備隊高等学校に入学し、1929年に卒業した。その後、第21ヤムピル国境分遣隊の責任者となった。1932年から1934年までは第2ハリコフ国境学校で課程長を務めた。彼はフルンゼ軍事アカデミーに送られ、1937年に卒業した。
4.2. 昇進と指揮官の役割
1925年、カザケヴィチはソビエト連邦共産党に入党した。1936年3月14日には大尉に昇進した。その後、ハバロフスク国境管区のNKVD自動車化狙撃連隊の指揮官となった。1938年11月29日には少佐に昇進し、1939年からは国境管区の参謀長を務めた。1940年3月13日には大佐に昇進した。1941年2月14日には名誉記章勲章を授与された。
5. 第二次世界大戦 (1942-1945)
第二次世界大戦中、ダニイル・カザケヴィチは重要な指揮官としての役割を果たし、ソビエトの主要な攻勢で狙撃師団を率いて功績を挙げた。
5.1. 第102狙撃師団の指揮
1942年12月、カザケヴィチは国境警備隊から編成された極東NKVD狙撃師団の参謀長に任命された。1943年2月、この師団は第102狙撃師団と改称された。1943年夏、カザケヴィチはクルスクの戦いとクトゥーゾフ作戦に参加した。同年8月27日、彼は最初の赤旗勲章を授与された。
5.2. 第399狙撃師団の指揮と主要攻勢
1943年9月、彼は第399狙撃師団の指揮官に就任した。カザケヴィチはこの師団を率いて、ドニエプル川の戦いの一部であるチェルニーヒウ-プリピャチ攻勢に参加し、9月にはノヴォズィプコフの占領に貢献した。11月には、師団はホメリ-レチツァ攻勢で戦闘を行った。1944年6月3日、カザケヴィチは少将に昇進し、クトゥーゾフ勲章2級を授与された。
1944年6月以降、第399狙撃師団はバグラチオン作戦で戦闘を行った。6月下旬のボブルイスク攻勢に参加し、バブルイスクの占領に貢献した。その後、7月上旬のミンスク攻勢にも参加した。同年7月23日、カザケヴィチはスヴォーロフ勲章2級を授与された。
師団はさらにルブリン-ブレスト攻勢で戦い、9月3日から8日にかけてナレフ川への接近路にある防衛線を突破し、ルーザン近郊の河川に進出し、橋頭堡を確保した。師団は数度の反撃を撃退したと報じられている。1944年11月3日、彼は2度目の赤旗勲章を授与された。1945年1月からは、師団は東プロイセン攻勢で戦闘を行った。1月下旬には、師団はムワヴァ-エルビング攻勢に参加した。同年2月10日、カザケヴィチは3度目の赤旗勲章を授与された。
5.3. ソ連邦英雄の称号
ナレフ川での橋頭堡確保におけるリーダーシップが評価され、カザケヴィチは1945年4月6日にソ連邦英雄の称号とレーニン勲章を授与された。

6. 戦後キャリア (1945-1959)
第二次世界大戦後、ダニイル・カザケヴィチは国境警備隊に復帰し、様々な指揮官の役割を歴任するとともに、東ドイツの国境警備隊への顧問を務め、軍事教育機関の長として活動した。
6.1. 国境部隊への復帰と指揮
1945年、カザケヴィチは国境警備隊に復帰し、黒海国境管区の副責任者に就任した。同年12月10日、2度目のレーニン勲章を授与された。1946年にはモルドバ国境管区の同じ職位に転属した。1948年9月、カザケヴィチはチシナーウの管区指揮官となった。1949年10月11日、労働赤旗勲章を授与された。1950年11月24日には30年間の勤務功労に対し、4度目の赤旗勲章を授与された。1951年2月14日には5度目の赤旗勲章を授与された。1952年、全連合通信法学院を卒業した。1954年4月にはリヴィウの南西国境管区の指揮官に転属した。1954年から1958年にかけて、彼はソビエト連邦最高会議第4期代議員を務めた。
6.2. 東ドイツでの顧問と最終任務
1955年10月から1957年10月まで、彼はドイツ民主共和国の東ドイツ国境警備隊の主席顧問を務めた。1957年7月15日、彼は中将に昇進した。1957年10月、彼はソビエト連邦に戻り、国境警備隊軍事教育機関の長となった。
6.3. 退役
1959年10月、彼は軍務から退役した。
7. 後半生と死去
退役後、カザケヴィチはイントゥーリスト総局で勤務し、モスクワに居住した。1982年12月6日、十月革命勲章を授与された。第二次世界大戦終結40周年を記念して、1985年4月6日には祖国戦争勲章1級を授与された。カザケヴィチは1988年11月28日に死去し、ミティノ墓地に埋葬された。
8. 遺産と記念
2011年3月25日、ベラルーシ大統領令により、フロドナ国境警備隊第12国境哨所がカザケヴィチの名を冠するようになった。2013年1月4日には、その国境哨所にカザケヴィチの胸像が除幕された。