1. 概要
ダマソ・マルテ・サビニョン(Dámaso Marte Sabiñónダマソ・マルテ・サビニョンスペイン語、1975年2月14日生まれ)は、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手であり、主に救援投手として活躍しました。彼はそのキャリアにおいて、シアトル・マリナーズ、ピッツバーグ・パイレーツ、シカゴ・ホワイトソックス、そしてニューヨーク・ヤンキースという複数のメジャーリーグ球団でプレーしました。特に、2005年のワールドシリーズ第3戦で勝利投手となり、また2009年のワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースの優勝に決定的に貢献するなど、重要な局面でその実力を発揮しました。引退後は、自身の名前を冠した児童財団を支援し、社会貢献活動にも力を入れています。本稿では、彼の野球選手としての軌跡と、引退後の社会活動について、中道左派的な視点からその功績を詳述します。
2. 幼少期とキャリアの始まり
ダマソ・マルテは、プロ野球選手としての道を歩み始める前から、その才能の片鱗を見せていました。
2.1. 生誕と初期の成長
ダマソ・マルテは1975年2月14日にドミニカ共和国で生まれました。彼の生い立ちに関する詳細は少ないものの、幼少期から野球に親しみ、その才能を育んできたとされています。
2.2. アマチュアキャリアとメジャーリーグデビュー
マルテは1992年にシアトル・マリナーズとアマチュアフリーエージェントとして契約を結び、プロとしてのキャリアをスタートさせました。その後、1999年6月30日にオークランド・アスレチックス戦でメジャーリーグデビューを果たしました。この試合では、1イニングを投げて3自責点を記録しています。
q=Seattle, Washington|position=left
3. プロ経歴
ダマソ・マルテはメジャーリーグにおいて、複数の球団を渡り歩きながら、印象的な成績を残し、チームの勝利に貢献してきました。彼のプロ経歴を時系列に沿って詳細に見ていきます。
3.1. シアトル・マリナーズ
1992年にアマチュア自由契約選手としてシアトル・マリナーズと契約したマルテは、着実に経験を積み、1999年にメジャーリーグデビューを果たしました。しかし、マリナーズでの期間は短く、その後のキャリアを形作る転機を迎えることになります。
3.2. ピッツバーグ・パイレーツ (第1期)
2000年11月16日、マルテはニューヨーク・ヤンキースと契約を結びましたが、翌2001年6月13日にはエンリケ・ウィルソンとのトレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍しました。パイレーツでのデビュー戦では、モントリオール・エクスポズを相手に1安打ピッチングで3イニングを投げ抜く好投を見せました。さらに、シンシナティ・レッズ戦では、14イニングを投げてわずか1失点に抑え、自己最多タイとなる5奪三振を記録するなど、印象的な活躍を見せました。
q=Pittsburgh, Pennsylvania|position=right
3.3. シカゴ・ホワイトソックス
2002年3月27日、マルテはエドウィン・ヤンと共にマット・ゲリアとのトレードでシカゴ・ホワイトソックスに移籍しました。ホワイトソックス時代は彼のキャリアにおける全盛期となりました。
2003年には、自己最高のシーズンを送り、防御率1.58、4勝2敗という成績で、79.7イニングを投げて自己最多の87奪三振を記録しました。また、2004年も好調を維持し、対戦打者の打率を.217に抑え、特に左打者に対しては.143という驚異的な打率を記録しました。この年、フロリダ・マーリンズ戦では、1試合での自己最多奪三振記録である5奪三振に並ぶ活躍を見せています。
q=Chicago, Illinois|position=left
最も特筆すべき功績は、2005年のワールドシリーズでの活躍です。当時ワールドシリーズ史上最長試合であった第3戦において、彼は勝利投手となりました。この試合でマルテは1.2イニングを無失点に抑え、3奪三振を奪う好投を見せ、ヒューストン・アストロズを相手にした14回に及ぶ激戦での勝利に貢献しました。この勢いに乗り、ホワイトソックスは4試合でアストロズを下し、ワールドシリーズ優勝を飾りました。
3.4. ピッツバーグ・パイレーツ (第2期)
2005年12月8日、マルテはロブ・マッコウィアックとのトレードで、再びピッツバーグ・パイレーツに復帰しました。
2006年には、ワールド・ベースボール・クラシックにドミニカ共和国代表として3試合に救援登板しましたが、肩の炎症に見舞われ、早期に大会を離脱しました。レギュラーシーズンでは、救援投手として7連敗を喫するなど苦しい時期もありましたが、9イニングあたりの奪三振率は9.7を記録するなど、高い奪三振能力は健在でした。
2007年は再び好調を取り戻し、特に左打者に対しては打率.094に抑え込みました。また、左打者を相手に32打席連続無安打という記録を達成し、これはメジャーリーグにおいて、左打者がどの投手に対しても記録した連続無安打打席数の中で最長記録となりました。一時期、マット・キャップスの負傷に伴い、パイレーツのクローザーを務め、ニューヨーク・ヤンキースへのトレードまでに5セーブを挙げました。
q=Dominican Republic|position=right
3.5. ニューヨーク・ヤンキース
2008年7月26日、マルテはゼイビア・ナディと共に、ホセ・タバタ、ロス・オーレンドルフ、ジェフ・カーステンス、ダニエル・マカッチェンという4人のマイナーリーグ選手とのトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。ヤンキースでのデビュー戦では、ホセ・ベラスの後を受けて登板し、デビッド・オルティーズを三振に仕留める活躍を見せました。
q=New York City, New York|position=left
2008年シーズン後、ヤンキースはマルテとのオプション契約を破棄しましたが、その後、2012年のオプションを含む新たな3年契約を締結しました。
2009年レギュラーシーズンでは防御率9.45と期待を裏切る結果に終わりましたが、プレーオフでは一転して目覚ましい活躍を見せました。アメリカンリーグ・ディビジョンシリーズ第2戦での不安定な立ち上がり(ミネソタ・ツインズに連続安打を許し交代)以降、ポストシーズンで対戦した残りの12人の打者を全てアウトに打ち取る完璧な投球を披露しました。2009年のワールドシリーズ第6戦では、フィラデルフィア・フィリーズのスター選手であるチェイス・アトリーとライアン・ハワードをわずか6球で連続三振に仕留めるという決定的な仕事をし、ヤンキースはこの試合に勝利し、球団史上27度目のワールドシリーズ優勝を飾りました。
4. 負傷とキャリアの終焉
マルテのキャリア後半は、度重なる負傷との闘いとなり、それが彼の選手生活に終止符を打つことになりました。
4.1. 主要な負傷
2010年シーズン、マルテは左腕の炎症のため、シーズンの大半を欠場しました。さらに、2010年シーズン終盤には左肩の手術を受け、その影響で2011年シーズンは全休を余儀なくされました。2011年6月下旬には、リハビリテーションの一環としてキャッチボールを再開するなど、懸命な回復努力を続けました。
4.2. 野球選手としての引退
2011年シーズン終了後、ニューヨーク・ヤンキースはマルテの2012年オプション契約を破棄し、買い取り金として25.00 万 USDを支払いました。これにより、マルテは事実上のフリーエージェントとなり、長年の選手生活に幕を下ろすことになりました。
5. 引退後の活動
選手としてのキャリアを終えたダマソ・マルテは、社会貢献活動に積極的に取り組んでいます。
5.1. 児童財団
マルテは、自身の名前を冠した「ダマソ・マルテ児童財団」を支援しており、その活動を通じて社会に貢献しています。この財団は、未来を担う子どもたちの育成と支援を目的としており、彼の社会に対する責任感と奉仕の精神を示しています。具体的な活動内容や支援を受けた子どもの数は公表されていませんが、このような取り組みは、彼が野球界に残した功績だけでなく、人道的な側面でも評価されるべきものです。
6. 遺産と評価
ダマソ・マルテは、メジャーリーグの歴史において、特に重要な局面でのリリーフ投手としての役割を全うした選手として記憶されています。彼のキャリアは、一貫して支配的というわけではありませんでしたが、シカゴ・ホワイトソックスでの2005年のワールドシリーズ優勝や、ニューヨーク・ヤンキースでの2009年のワールドシリーズ優勝における決定的な貢献は、彼の価値を証明するものです。特にポストシーズンで見せた集中力と、強打者を封じる能力は高く評価されています。また、引退後に自身の名を冠した児童財団を支援していることは、彼が野球界だけでなく、社会全体に対してもポジティブな影響を与えようとしている姿勢を示しており、その人間性においても高く評価されるべき遺産と言えるでしょう。