1. 概要
テューリンゲンのユディト(Judita Durynskáユディタ・ドゥリンスカーチェコ語、1135年頃 - 1210年頃)は、ルードヴィング家の出身で、ボヘミアのヴワディスワフ2世の2番目の妃として、1158年から1172年までボヘミア王妃を務めました。彼女は、1085年に王妃の称号を得たポーランドのスヴィエントスワヴァに次ぐ、ボヘミアで2番目の王妃となりました。王妃としての彼女は、夫の不在中に国政を代行するなど政治に深く関与し、またプラハに石橋を架けたり、テプリツェに修道院を設立したりするなど、公共事業や宗教機関への多大な貢献を果たしました。その知性と積極的な姿勢は、当時の年代記編者からも高く評価されています。
2. 初期生い立ちと家族
ユディトは、テューリンゲン方伯のルートヴィヒ1世(1140年没)と、その妻グーデンスベルクのヘドヴィヒの娘として、1135年頃に生まれました。彼女には、ロレーヌのベルタという姉妹がいました。ユディトは、ヴァルトブルク城にあるテューリンゲン方伯領の宮廷で育ちました。
3. 結婚と王妃時代
ユディトは、ボヘミア公であったヴワディスワフ2世の最初の妃であるバーベンベルクのゲルトルートが亡くなった3年後の1153年に、ヴワディスワフ2世と結婚しました。
この結婚の主な理由は、ユディトが兄であるルートヴィヒ2世とその妻ホーエンシュタウフェンのユディトを通じて、新しくドイツ国王となったフリードリヒ・バルバロッサと親戚関係にあったためでした。結婚当時、ユディトは約18歳で、ヴワディスワフは彼女より15歳から20歳年上でした。
ヴワディスワフがフリードリヒ皇帝から王の称号を得て、1158年にボヘミア王として戴冠すると、ユディトも王妃となりました。彼女の戴冠が公式に文書化されているわけではありませんが、年代記には「王妃ユディト」として記されています。
3.1. 教育と知性
プラハの律修司祭であるヴィンチェントは、年代記の中でユディトを「並外れた美しさと知性を持つ女性であり、ラテン語と政治に精通していた」と記しています。
3.2. 政治的役割と摂政
ユディトは、夫であるヴワディスワフが不在の際には、しばしば国政を代行しました。1155年頃、結婚の2年後には最初の息子を出産しました。中世の慣習では、子供の名前は主に母親が選んだため、伝説的なプシェミスル朝の創始者にちなんで息子をプシェミスルと名付けたのは、ユディトの発案だったと考えられています。
プラハの王位を巡る争いが続く中、ユディトは自身の息子プシェミスル・オタカルの継承権を支持しましたが、ヴワディスワフ公は異母弟のフレデリックを後継者に指名しました。
4. 主要な貢献と後援
ユディトは、その治世中に公共事業や宗教機関に対して重要な貢献と財政的支援を行いました。
4.1. ユディト橋

ヴワディスワフの統治時代、1160年頃からプラハのヴルタヴァ川に新しい橋が建設されました。この橋は現在の有名なカレル橋が立つ場所に位置しています。これは中央ヨーロッパにおける最初の石橋の一つであり、ユディトがその建設費用を支援したため、彼女に敬意を表してユディト橋(Juditin mostユディティン・モストチェコ語)と名付けられました。
ユディト橋は1342年の洪水によって破壊されましたが、現在でもいくつかの橋脚やアーチの残骸が確認できます。また、マラー・ストラナ側には保存された橋の塔であるユディト塔(Juditina věžユディティナ・ヴィエシュチェコ語)が残されています。
4.2. テプリツェ修道院設立
ユディトは1164年頃、テプリツェにベネディクト会の修道院を設立しました。彼女の遺骸は後にこの修道院の跡地で発見されました。
5. 子女
ユディトとヴワディスワフ2世の間には、以下の3人の子供がいました。
- オタカル(1155年頃 - 1230年): 1192年から1193年および1197年からボヘミア公となり、1198年には世襲のボヘミア王となりました。
- ヴラジスラフ3世(1160年頃 - 1222年): 1197年にボヘミア公となり、また同年から死去までモラヴィア辺境伯を務めました。
- リケザ(1182年没): オーストリア公ハインリヒ2世の末息子であるメートリングのハインリヒ1世と結婚しました。
6. 晩年と亡命
1172年に夫ヴワディスワフ2世が退位すると、ユディトは夫と共にテューリンゲンへの亡命に同行しました。ヴワディスワフは2年後にメーラーネ城で亡くなりました。
7. 死亡
ユディトがどこで亡くなったのかは不明ですが、彼女の遺骸は自身が1164年頃に設立したテプリツェの旧ベネディクト会修道院で発見されました。歴史家のエマヌエル・ヴルチェクによると、彼女は1210年頃、75歳で亡くなり、長男オタカルの成功した治世を見届けることができたとされています。
8. 遺産
ユディト・オブ・テューリンゲンは、ボヘミア王妃として、その美貌と並外れた知性、そして政治的洞察力で知られています。彼女は夫の代理を務めるなど積極的に国政に関与し、特にプラハのユディト橋建設への財政的支援やテプリツェ修道院の設立といった公共事業と宗教的後援を通じて、ボヘミアの発展に大きく貢献しました。彼女の功績は当時の年代記にも記録され、その行動は後世に多大な影響を与えました。