1. 生涯
ドミンゴ・アルベルト・タラスコーニの生誕から死去までの人生、そしてサッカー選手としての初期の歩みについて詳述する。
1.1. 幼少期と初期
タラスコーニの幼少期に関する詳細な記録は少ないが、彼はブエノスアイレスで育ち、早くからサッカーへの才能を見せていた。
1.2. サッカーキャリアの始まり
タラスコーニはCAアトランタでサッカー選手としての第一歩を踏み出し、1921年にプロデビューを果たした。アトランタでの初期のキャリアを通じて、彼はその得点能力と才能を広く知らしめることとなった。
2. 主な活動と功績
タラスコーニがクラブとアルゼンチン代表チームで達成した主要な功績とタイトルを概観する。
2.1. クラブキャリア
タラスコーニのプロサッカー選手としてのキャリア、特にボカ・ジュニアーズでの輝かしい活躍と、その後のクラブでのプレーについて記述する。
2.1.1. ボカ・ジュニアーズでの活躍

CAアトランタでデビューした翌シーズン、タラスコーニはボカ・ジュニアーズに移籍した。彼はボカ・ジュニアーズで10年間プレーし、クラブの歴代得点者だけでなく、プリメーラ・ディビシオンの歴代得点者リストにも名を連ねる選手となった。ボカ・ジュニアーズ在籍中、タラスコーニは226試合の公式戦に出場し、186ゴールを記録した。彼はこの期間にボカ・ジュニアーズで9つのタイトルを獲得した。クラブの歴代得点ランキングでは、マルティン・パレルモ、ロベルト・チェロ、フランシスコ・バラージョに次ぐ4位である。
2.1.2. 1925年欧州遠征
1925年、ボカ・ジュニアーズはヨーロッパ遠征を行い、タラスコーニもこの遠征に参加した。彼はこの遠征で7ゴールを挙げ、チーム内でマヌエル・セオアネに次ぐ2番目の得点者となった。この遠征はクラブの国際的な評価を高める上で重要な役割を果たした。
2.1.3. その他のクラブ
1932年にボカ・ジュニアーズを退団した後、タラスコーニの公式戦出場記録は1934年まで途絶える。1934年にはスポルティーボ・バラカスに加入し、当時のアマチュアリーグである公式協会(AFA)に所属するチームでプレーした。ここでは6試合に出場したが、得点はなかった。その後、彼はヘネラル・サン・マルティン(一部の資料ではサン・マルティン・デ・トゥクマンと誤記されているが、タラスコーニがプレーしたのはブエノスアイレス州のヘネラル・サン・マルティン・パルティードに本拠地を置く同名のクラブである)に移籍し、同シーズン中に20試合で16ゴールという高い得点率を記録した。
1935年、タラスコーニは再びスポルティーボ・バラカスでプレーした後、アルヘンティノス・ジュニアーズに移籍し、1936年シーズンに8試合に出場したのを最後に現役を引退した。
2.2. 代表チームキャリア
ドミンゴ・アルベルト・タラスコーニのアルゼンチン代表としての国際舞台での貢献と、主要な大会での成績に焦点を当てる。
2.2.1. 1928年アムステルダムオリンピック

タラスコーニは1928年アムステルダムオリンピックのサッカー競技にアルゼンチン代表として出場した。この大会で彼は4試合で11ゴールを挙げ、大会の得点王に輝いた。アルゼンチンは決勝でウルグアイに敗れたものの、銀メダルを獲得した。彼のこの大会での11ゴールという記録は、オリンピック単一大会の最多得点記録として現在も破られていない。
2.2.2. コパ・アメリカ
タラスコーニはアルゼンチン代表としてコパ・アメリカに2度出場し、いずれも優勝に貢献した。彼は1925年のコパ・アメリカと1929年のコパ・アメリカでタイトルを獲得し、南米サッカーにおけるアルゼンチンの優位を確立する上で重要な役割を果たした。
3. 個人記録とタイトル
ドミンゴ・アルベルト・タラスコーニが獲得した個人タイトル、特にリーグ戦得点王としての記録、そしてクラブと代表チームで勝ち取った栄誉を一覧する。
3.1. 個人記録
タラスコーニが達成したリーグ戦および代表チームでの得点記録に焦点を当てる。
3.1.1. リーガ得点王
タラスコーニはプリメーラ・ディビシオンにおいて、1922年、1923年、1924年、1927年、そして1934年の5度にわたって得点王に輝いた。彼は1921年から1934年の間にリーグ戦で289試合に出場し、通算208ゴールを記録しており、これはリーグの歴代得点者の中でも上位に位置する。
3.1.2. 代表チーム歴代得点ランキング
アルゼンチン代表では、1922年から1929年の間に24試合で18ゴールを挙げた。この得点数は、アルゼンチン代表の歴代得点者ランキングで13位に相当する。
3.2. タイトル
タラスコーニがクラブとアルゼンチン代表チームで獲得した主要なタイトルを列挙する。
3.2.1. クラブタイトル
タラスコーニはボカ・ジュニアーズで以下の公式タイトルを獲得した。
- プリメーラ・ディビシオン (5): 1923年、1924年、1926年、1930年、1931年(LAF)
- コパ・イバルグレン (2): 1923年、1924年
- コパ・コンペテンシア・ジョッキー・クラブ (1): 1925年
- コパ・エスティムロ (1): 1926年
3.2.2. 代表チームタイトル
アルゼンチン代表として、タラスコーニは以下のタイトルとメダルを獲得した。
- コパ・アメリカ (2): 1925年、1929年
- 夏季オリンピック銀メダル (1): 1928年
4. ポップカルチャーでの言及

タンゴ歌手の伝説的存在であるカルロス・ガルデルは、1928年に『パタドゥラ』(Pataduraスペイン語)という曲を発表した。この曲は、サッカーを比喩として使い、不器用な人物を描写するユーモラスなタンゴである。『パタドゥラ』という言葉は、現在でもサッカーの才能がない人を指す現地語として使われている。
この曲(作詞はエンリケ・カレラス・ソテロ、作曲はホセ・ロペス・アレス)では、タラスコーニが「タラスカ」という愛称で呼ばれ、「中盤からゴールを決める」と歌われている。これはタラスコーニの強烈で正確なシュート能力を指している。当時、この曲に登場する他の著名なサッカー選手には、マヌエル・セオアネ、ルイス・モンティ、ペドロ・オチョア(ガルデルと親交があり、ガルデルは彼を称えるタンゴ『オチョイタ』を作曲した)などがいた。
ガルデルは1929年にパリで『パタドゥラ』の新しいバージョンを録音した。この際、歌詞がわずかに変更され、元のアルゼンチン人選手に代わってFCバルセロナの選手たち(ビセンテ・ピエラ、リカルド・サモラ、ジョゼップ・サミティエール、フランツ・プラトコ)が言及された。ガルデルはFCバルセロナのファンとなり、特にサミティエールとは親交を深めた。彼はクラブの名誉会員でもあり、1928年のコパ・デル・レイ決勝など、いくつかの試合を観戦している。
5. 評価と遺産
ドミンゴ・アルベルト・タラスコーニは、アルゼンチンサッカー史において最も偉大なフォワードの一人として高く評価されている。彼のボカ・ジュニアーズでの長年にわたる活躍と、クラブの歴代得点ランキング上位に位置する記録は、彼がクラブの象徴的な存在であることを示している。プリメーラ・ディビシオンでの5度の得点王獲得は、彼の卓越した得点能力とリーグにおける支配力を証明している。
特に、1928年アムステルダムオリンピックでの11ゴールという記録は、彼の国際舞台での輝きを象徴しており、現在も破られていない偉業である。また、アルゼンチン代表としてコパ・アメリカを2度制覇したことは、彼がナショナルチームの成功に大きく貢献したことを示している。
タラスコーニは、その強烈なシュートと正確な得点感覚で知られ、当時のアルゼンチンサッカーに大きな影響を与えた。彼の名前がカルロス・ガルデルのタンゴに登場することは、彼が単なるスポーツ選手に留まらず、アルゼンチンの国民的文化の一部として記憶されていることを物語っている。彼の遺産は、数々の記録とタイトルだけでなく、アルゼンチンサッカーの黄金時代を築いた選手の一人としての記憶の中に生き続けている。