1. 幼少期と柔道キャリア
パウエル・ナツラは幼少期に柔道を始め、その才能を開花させ、世界の頂点に立つ柔道家として名を馳せました。
1.1. 幼少期と柔道入門
ナツラは1970年6月26日にポーランドのワルシャワで生まれた。10歳の時にAZS AWFで柔道訓練を始め、競技生活に入った。
1.2. 主要な柔道における実績
ナツラは1996年アトランタオリンピックの男子95kg級で金メダルを獲得した。また、世界柔道選手権大会では、1995年の千葉大会と1997年のパリ大会で-95kg級の金メダルを獲得し、1991年のバルセロナ大会では-95kg級で銀メダルを獲得している。
彼はヨーロッパの大会でも優れた成績を収め、ヨーロッパ柔道選手権大会では1994年グダニスク、1995年バーミンガム、1996年デン・ハーグと3年連続で-95kg級の金メダルを獲得した。1999年にはブラチスラヴァ大会の-100kg級で銀メダルを、ヨーロッパジュニア柔道選手権大会では1989年アテネと1990年アンカラで-86kg級の銅メダルを獲得している。
特に注目すべきは、1994年2月から1998年3月までの1,220日間にわたる312連勝という圧倒的な無敗記録である。この期間中、彼は出場した全ての柔道大会で優勝し、柔道界における歴史的な偉業を成し遂げた。彼の連勝記録は、体重カテゴリーが-95kgから-100kgに変更されたことで途絶えた。彼は1992年バルセロナオリンピック、1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピックと、3大会連続でオリンピックに出場した。その立ち技(一本背負投や朽木倒しなど)の技術に加え、寝技の実力はヨーロッパ随一と評された。

1.3. 柔道からの引退
パウエル・ナツラは2004年に競技柔道から引退した。
2. 総合格闘技キャリア
柔道競技からの引退後、パウエル・ナツラは総合格闘技の世界へと舞台を移し、そのキャリアは日本の主要プロモーションを含む様々な団体で展開されました。
2.1. 総合格闘技への転向
ナツラは2002年に吉田秀彦とホイス・グレイシーの最初の対戦を観戦したことをきっかけに、総合格闘技に興味を抱いた。その後すぐに日本のプロモーションであるPRIDE FCと契約を締結し、高田道場に所属することになった。高田道場では桜庭和志をはじめとする多くの選手から総合格闘技の基礎を学んだ。柔道での輝かしい実績から、彼はブラジリアン柔術のヒクソン・グレイシーに匹敵すると比較された。
2005年2月20日には、夫人であるヨアンナと共にPRIDE.29をリングサイドで観戦し、総合格闘技への強い関心を示した。
2.2. PRIDE FCでの活動
ナツラはPRIDEの舞台で厳しい歓迎を受けた。最初の試合では、PRIDEのトップヘビー級選手であり経験豊富なアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦することになった。健康上の問題と経験不足から、ナツラはPRIDE武士道ルール(より短い試合時間で柔道着を着用)での対戦を希望したが、ノゲイラがこれを拒否したため、通常のルールで試合を行った。
試合ではナツラはグラップリングで互角に渡り合い、ラウンド前半を優勢に進めたものの、経験不足が露呈し、ノゲイラが打撃で優位に立ち、頭部への膝蹴りを連打した。強烈な右拳を受けた後、ナツラはテイクダウンに成功したが、疲労が激しく攻勢を維持できなかった。ノゲイラはほとんど抵抗なくパウンドを浴びせ、レフェリーストップによるTKO負けを喫した(2005年6月26日、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND)。
2戦目は、さらに手強い相手であるサンボの熟練者であり、伝説的なエメリヤーエンコ・ヒョードルの弟であるエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦した(2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005)。ナツラは立ち技でもグラウンドでも序盤から主導権を握り、腕ひしぎ十字固めを狙い、アレキサンダーのバックを奪うなど健闘した。しかし、またしてもスタミナ不足が響き、疲労したナツラは逆転を許し、マウントポジションを奪われた後に裸絞で一本負けを喫した。
3戦目(2006年7月1日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND)では、それまで無敗だった総合格闘家エジソン・ドラゴを容易に破り、PRIDE初勝利を挙げた。ナツラは下からのインバーテッドアームバーでドラゴを脅かし、その後マウントポジションを奪ってパンチを浴びせ、相手の目にカットを負わせた。最終的に、ナツラは下から腕ひしぎ十字固めを極め、ドラゴをタップさせた。
PRIDEでの最後の試合は、キャッチレスリングの強豪ジョシュ・バーネットとの対戦だった(2006年10月21日、PRIDE.32 "THE REAL DEAL")。ナツラは再び素晴らしいパフォーマンスを見せ、バーネットを複数回テイクダウンし、効果的な左フックをヒットさせた。しかし、試合後半にバーネットに逆転を許し、アンクルホールドで一本負けを喫した。
試合後、ナツラはネバダ州アスレチック・コミッション(NSAC)が実施した薬物検査で陽性反応を示したことが発表された。彼は禁止薬物のナンドロロンに加え、禁止されている興奮剤であるフェニルプロパノールアミン、プソイドエフェドリン、エフェドリンに陽性反応を示した。ナツラは検査結果の正確性を否定し、興奮剤は市販のサプリメントから体内に吸収されたものであり、筋肉増強剤であるナンドロロンはPRIDE参戦以来筋肉量が増えていないため、彼にとって有用ではないと主張した。彼はこの状況を解決するために弁護士を雇ったと報じられている。この件により、ナツラはNSACから9ヶ月間の出場停止と6500 USDの罰金を科された。
2.3. World Victory Roadとその他プロモーション
PRIDEが消滅した後、ナツラは日本の新興プロモーションであるWorld Victory Roadと契約し、戦極 ~第四陣~(2008年8月24日)に出場した。この試合ではヤン・ドンイと対戦し、物議を醸すTKO負けを喫した。ナツラはヤン・ドンイの腕ひしぎ十字固めを辛うじて逃れた後、試合中に多数の金的攻撃を受けていたため、股間を押さえて膝を突いた状態でレフェリーの立ち上がる指示に応じることができなかった。この時、ナツラはファウルカップに問題があることを示したが、レフェリーはそれを確認することなく不可解にも試合を中断し、ヤン・ドンイをTKO勝ちとした(これは「疲労によるTKO」と記録された)。
2008年にはポーランドの新たなプロモーションMCC(Martial Combat Club)と契約し、5月のイベントでコウジ・カネチカと対戦する予定だったが、プロモーションが解体されイベントは中止となった。その後も、ポーランドの様々なプロモーションとの交渉が報じられた。特にKSWはナツラとの複数回の交渉を公表し、マリウス・プッツナウスキーとの対戦がKSW XIII(後にKSW XIVに変更)で予定されたが、プッツナウスキーがティム・シルビアに敗れた後、この試合から撤退した。
2008年8月の戦極での敗戦以降、リングに復帰できない状態が続いたものの、パウエルはワルシャワで自身のクラブ「ナツラ柔道フィットネスクラブ」を運営し、ロバート・ヨッチ、ヤン・ブラホヴィッチ、クリストフ・クワックといったファイターたちとのトレーニングを続けるなど、活動を続けていた。しかし、プッツナウスキーがKSW XIVから撤退した後、ナツラは2010年に試合ができなければ引退すると表明した。
2.4. 後期の総合格闘技キャリア
2010年7月、ナツラはポーランドの新たなプロモーションであるFighters Arenaと契約した。同年9月3日、ポーランドのウッチにあるアトラス・アリーナで開催されたこのプロモーションの旗揚げ興行で、吉田秀彦の練習パートナーであった増田裕介を相手にメインイベントで待望の復帰戦(ポーランドでの初のリング登場)を行った。ナツラは万全のコンディションであることを証明し、素早く相手をノックダウンさせ、グラウンドでのパンチ連打を浴びせ、わずか1ラウンド0分26秒でレフェリーストップによるTKO勝利を収めた。
2013年9月28日のKSW 24では、初代KSWヘビー級王座をかけてカロル・ベドルフと対戦したが、2ラウンド2分25秒、疲労によるパンチ連打でTKO負けを喫した。
キャリア最後の試合となったのは、2014年12月6日にクラクフで開催されたKSW 29でのマリウス・プッツナウスキー戦である。この試合は3ラウンドを戦い抜き、判定0-3で敗れたが、この試合は「ファイト・オブ・ザ・ナイト」に選ばれた。
3. 私生活とパブリックイメージ
パウエル・ナツラは競技生活引退後も多方面で活動しており、私生活においても充実した日々を送っています。
3.1. 家族と栄誉
パウエル・ナツラは既婚者であり、2人の娘がいる。スポーツにおける功績が評価され、1996年にはポーランドの最高勲章の一つであるポーランド復興勲章の騎士十字勲章(5等)を受章した。
3.2. メディア出演とビジネス活動
ナツラは、自身の柔道技術や組み合わせを解説した著書『My Judo』(2000年)を出版している。また、2009年にはポーランド版のダンシング・ウィズ・ザ・スターズに出演し、最終的には総合6位の成績を収めた。
現在、彼は自身の名を冠した柔道フィットネスクラブ「ナツラ柔道フィットネスクラブ」をポーランドのワルシャワで経営しており、実業家として成功を収めている。このクラブには柔道場も併設されており、ナツラ自身が初心者、一般、女性、子供たちに柔道を指導するクラスも開講している。彼は母国ポーランドでは国民的英雄として知られており、テレビ出演の依頼が絶えず、通りを歩けば頻繁にサインを求められるほどである。

4. 獲得タイトルと受賞歴
パウエル・ナツラは柔道と総合格闘技の両分野で数多くのタイトルと栄誉を獲得している。
柔道
- オリンピック
- 1996年アトランタ:-95kg級 金メダル
- 世界柔道選手権大会
- 1995年千葉:-95kg級 金メダル
- 1997年パリ:-95kg級 金メダル
- 1991年バルセロナ:-95kg級 銀メダル
- ヨーロッパ柔道選手権大会
- 1994年グダニスク:-95kg級 金メダル
- 1995年バーミンガム:-95kg級 金メダル
- 1996年デン・ハーグ:-95kg級 金メダル
- 1999年ブラチスラヴァ:-100kg級 銀メダル
- ヨーロッパジュニア柔道選手権大会
- 1989年アテネ:-86kg級 銅メダル
- 1990年アンカラ:-86kg級 銅メダル
- その他国際大会での主な実績(95kg級)
- 韓国国際:1991年(3位)、1993年(3位)
- ポーランド国際:1992年(優勝)、1994年(優勝)、1995年(優勝)、1996年(優勝)
- 嘉納杯:1992年(優勝)
- フランス国際:1993年(5位)、1994年(3位)、1995年(優勝)、1996年(優勝)
- オーストリア国際:1993年(3位)
- その他国際大会での主な実績(100kg級)
- ポーランド国際:1998年(2位)、1999年(2位)、2000年(5位)、2001年(優勝)
- 嘉納杯:1999年(2位)
- フランス国際:2000年(3位)
- ドイツ国際:2000年(2位)、2002年(5位)、2004年(3位)
- オランダ国際:2000年(優勝)
- チェコ国際:2002年(優勝)
- グルジア国際:2004年(2位)
総合格闘技
- KSW
- ファイト・オブ・ザ・ナイト(1回)
- Streetfighters Team Cup
- Streetfighters Team Cup ヘビー級王座(1回)
5. 評価と影響
パウエル・ナツラは、その輝かしい柔道キャリアを通じてポーランドスポーツ界における国民的英雄としての地位を確立した。特に、1994年から1998年にかけての312連勝という偉業は、彼の柔道家としての伝説的な存在を決定づけた。彼の技術力、特に一本背負投や朽木倒しといった立ち技、そしてヨーロッパ随一と評された寝技の能力は、多くの柔道家にとって模範とされた。
柔道からの引退後に総合格闘技へ転向したことは、彼が新たな挑戦を恐れないアスリートであることを示し、ポーランド国内だけでなく、世界中の格闘技ファンからの注目を集めた。日本のPRIDE FCやWorld Victory Roadでの活動は、彼の名声を国際的に広げる一助となったが、総合格闘技キャリアは厳しい対戦相手やスタミナの問題、さらには薬物検査での陽性反応といった論争にも見舞われた。特にPRIDE.32での薬物問題は、彼のキャリアにおける大きな汚点となり、彼が検査結果を否定し法的措置を取ったにもかかわらず、その評価に影を落とした側面もある。
しかし、これらの課題にもかかわらず、ナツラは故郷ワルシャワで自身の柔道フィットネスクラブを運営し、初心者から子供たち、一般の人々まで柔道を指導し続けている。これにより、彼は柔道への情熱を後進に伝え、ポーランドにおける柔道の普及と発展に貢献している。彼のキャリアは、偉大な功績と同時に、アスリートが直面する様々な試練を示すものであり、その複雑な軌跡は、スポーツ界における彼の多角的な影響を物語っている。
6. 戦績
決着 | 戦績 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 | ラウンド | 時間 | 開催地 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
負 | 5-6 | マリウス・プッツナウスキー | 判定0-3 | KSW 29 | 2014年12月6日 | 3 | 3:00 | クラクフ、ポーランド | ファイト・オブ・ザ・ナイト。 |
負 | 5-5 | カロル・ベドルフ | TKO(疲労) | KSW 24 | 2013年9月28日 | 2 | 2:25 | ウッチ、ポーランド | 初代KSWヘビー級王座決定戦。 |
勝 | 5-4 | ケビン・アスプルンド | キーロック | KSW 22: Pride Time | 2013年3月16日 | 1 | 2:33 | ワルシャワ、ポーランド | |
勝 | 4-4 | ジミー・アンブリッツ | ギブアップ(腕の負傷) | STC: Bydgoszcz vs. Torun | 2011年10月1日 | 1 | 1:50 | ブィドゴシュチュ、ポーランド | Streetfighters Team Cup ヘビー級王座獲得。 |
勝 | 3-4 | アンジェイ・ウロンスキー | TKO(パンチ連打) | Wieczór Mistrzów | 2011年8月20日 | 1 | 1:09 | コシャリン、ポーランド | |
勝 | 2-4 | 増田裕介 | TKO(パンチ連打) | FAL: Fighters Arena Lódz | 2010年9月3日 | 1 | 0:26 | ウッチ、ポーランド | |
負 | 1-4 | ヤン・ドンイ | TKO(疲労) | 戦極 ~第四陣~ | 2008年8月24日 | 2 | 2:15 | さいたま、日本 | |
負 | 1-3 | ジョシュ・バーネット | アンクルホールド | PRIDE.32 "THE REAL DEAL" | 2006年10月21日 | 2 | 3:04 | ラスベガス、ネバダ州、アメリカ合衆国 | 試合後、ステロイドの陽性反応が検出された。 |
勝 | 1-2 | エジソン・クラース・ヴィエイラ | 腕ひしぎ十字固め | PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND | 2006年7月1日 | 1 | 4:33 | さいたま、日本 | |
負 | 0-2 | エメリヤーエンコ・アレキサンダー | スリーパーホールド | PRIDE 男祭り 2005 | 2005年12月31日 | 1 | 8:45 | さいたま、日本 | |
負 | 0-1 | アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ | TKO(マウントパンチ) | PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND | 2005年6月26日 | 1 | 8:38 | さいたま、日本 |