1. 概要

ホセ・フルクトゥオーソ・リベラ・イ・トスカーナ(José Fructuoso Rivera y Toscanaホセ・フルクトゥオーソ・リベラ・イ・トスカーナスペイン語、1784年10月17日 - 1854年1月13日)は、ウルグアイの将軍、そして愛国者であり、リオ・デ・ラ・プラタ副王領の東方州(バンダ・オリエンタル)をブラジル帝国の支配から解放するために戦いました。彼は三度にわたりウルグアイの大統領を務め、ウルグアイの歴史に大きな影響を与えましたが、その行動はしばしば論争の的となりました。特に、長きにわたるウルグアイ内戦の引き金を引き、コロラド党の創設者としても知られています。彼の功績は独立国家の礎を築いたものと評価される一方で、1831年のサルシプエデスの虐殺で先住民族チャルーア族をほぼ完全に絶滅させたという極めて批判的な決定を下しており、この行為は人道的な観点から厳しく問われ続けています。
2. 初期生涯と軍歴の開始
ホセ・フルクトゥオーソ・リベラは1784年10月17日に生まれました。彼は元々牧場主として生計を立てていましたが、1810年、ラテンアメリカ独立運動の指導者であるホセ・ヘルバシオ・アルティガスの軍隊に参加し、軍歴をスタートさせました。その天性の指導力と軍事的才能により、彼は急速に昇進し、最終的には将軍の地位にまで上り詰めました。1820年にバンダ・オリエンタルがポルトガル・ブラジル連合王国の占領下に置かれ、アルティガスが敗北して亡命を余儀なくされた後も、リベラは新たに設立されたシスプラチナ州に留まりました。
3. 独立闘争における役割
リベラは、ブラジル支配からの東方州の解放を目指す運動において、重要な役割を果たしました。1825年には、リベラはフアン・アントニオ・ラバジェハと「モンソンの抱擁」(Abrazo del Monzónアブラソ・デル・モンソンスペイン語)として知られる歴史的な会談を行いました。同年、ラバジェハ率いる「東方三十三士」とアルゼンチンの支援者たちがブラジル帝国に対する戦いを開始すると、リベラも彼らに加わりました。彼が自発的に参加したのか、あるいは強制されたのかは定かではありませんが、彼はすぐにシスプラチナ戦争における重要な軍事指揮官となり、リンコンの戦いやサランディの戦いといった主要な戦闘に参加し、ブラジル軍に対して大きな成果を上げました。しかし、他の指導者たちとの意見の対立から、彼は1827年のイツアイーゴの戦いには参加せず、一時的に国を離れていました。
4. 第一次大統領任期
1828年のモンテビデオ条約の結果、ウルグアイの独立が宣言されると、リベラとラバジェハの間の対立は激化し、戦闘に発展しました。このような状況下で、アルゼンチンの将軍ホセ・ロンドーが初代暫定総督に就任しました。最終的に、リベラは1830年11月6日から1834年10月24日まで、ウルグアイの初代大統領として最初の任期を務めました。この任期中、彼は国内の安定化と新国家の制度構築に尽力しました。任期終了後、リベラはマヌエル・オリベ将軍を自身の後継者として支持しました。
5. 政治的対立と第二次大統領任期
リベラは再びラバジェハとの、そして新たにオリベとの対立に巻き込まれることになりました。1838年10月、リベラはオリベを破り、彼をブエノスアイレスへの亡命に追いやりました。この一連の紛争の中で、ウルグアイの二大政党の原型が形成されることになります。リベラの支持者たちは赤い腕章を身につけ、オリベの支持者たちは白い腕章を身につけていたことから、それぞれ「コロラドス」(赤)と「ブランコス」(白)と呼ばれるようになりました。これらの派閥は後に正式な政党として組織されました。リベラは、1839年3月1日から1843年3月1日まで、二度目の大統領任期を務めました。
6. ウルグアイ内戦と亡命
亡命したオリベは、ブエノスアイレスの実力者フアン・マヌエル・デ・ロサスの支援を受けて新たな軍隊を組織し、ウルグアイに侵攻しました。これにより、ウルグアイ内戦が勃発しました。1842年12月、オリベはアロヨ・グランデの戦いでリベラを破り、モンテビデオ大包囲戦を開始しました。この時点でリベラの権力は首都に限定され、国の残りの地域はオリベの支配下に置かれました。内戦の最中、リベラは苦境に立たされ、1847年にはブラジルへの亡命を余儀なくされました。彼は1853年までブラジルに滞在しました。
7. 最終的な復帰と死
1853年、ウルグアイ大統領フアン・フランシスコ・ヒロが打倒された後、同年9月25日、ベナンシオ・フローレス、フアン・アントニオ・ラバジェハ、そしてリベラの三名で構成される統治三頭政治が樹立され、リベラはウルグアイの政治舞台に復帰しました。しかし、この三頭政治は長くは続きませんでした。ラバジェハは10月22日に死去し、リベラも1854年1月13日、モンテビデオへ向かう途中に死去しました。これにより、ベナンシオ・フローレスのみが権力を維持することになりました。
8. 主要な論争
リベラの生涯は、ウルグアイの独立と建国に深く貢献した一方で、その政治的・軍事的な行動が数々の論争を巻き起こしました。特に、彼の統治下で発生した特定の出来事は、その倫理的・社会的な影響から現在に至るまで厳しい批判の対象となっています。彼は国内の対立を深め、結果として長期にわたる内戦を引き起こした「先動者」の一人と見なされています。
8.1. サルシプエデスの虐殺
1831年4月11日、フクトゥオーソ・リベラがウルグアイ大統領であった時期に発生した「サルシプエデスの虐殺」(Masacre de Salsipuedesマサクレ・デ・サルシプエデススペイン語)は、彼の生涯において最も暗く、そして最も論争の的となる出来事です。この事件は、ウルグアイの先住民族であるチャルーア族に対する組織的な暴力であり、その後のチャルーア族の絶滅につながったとされています。
この虐殺の背景には、新しく独立したウルグアイ国家が、牧畜業の拡大を阻害すると見なした先住民族の土地に対する伝統的な権利を排除しようとした意図がありました。リベラ大統領は、チャルーア族の指導者たちをサルシプエデスの渓谷に招集し、平和的な合意を装いました。しかし、これは彼らを罠にかけるための策略でした。チャルーア族の戦士たちが武装を解いた後、ウルグアイ軍は突然攻撃を開始し、多くの先住民が無抵抗のまま殺害されました。女性や子供たちは捕らえられ、奴隷として売り飛ばされるか、強制的に労働に従事させられました。
サルシプエデスの虐殺は、チャルーア族の社会と文化に壊滅的な影響を与え、彼らの人口をほぼ完全に消滅させました。この出来事は、ウルグアイの国家形成史における先住民族に対する残虐行為の象徴として記憶されており、人権と倫理の観点から現在でも激しい批判が寄せられています。ウルグアイ社会では、この虐殺の記憶を通じて、先住民族の歴史と国家建設における暴力的な側面について、深い反省と議論が続けられています。
9. コロラド党の創設
ホセ・フルクトゥオーソ・リベラは、ウルグアイの最も長く支配的な政治勢力の一つであるコロラド党の創設において中心的な役割を果たしました。彼の支持者たちが対立するブランコ党の支持者と区別するために赤い腕章を着用したことが、党名の由来となっています。コロラド党は、1865年から1958年まで途切れることなくウルグアイを統治し、その政治的景観を形作りました。リベラが党の基盤を築いたことは、ウルグアイの民主主義と政治発展において計り知れない影響を与えました。
10. 遺産と歴史的評価
リベラのウルグアイ政治史における遺産は、強力な個人のリーダーシップとして特徴づけられます。彼の影響力と功績はウルグアイの独立と建国に不可欠であったと広く認識されていますが、彼の行動に対する評価は多様であり、現在も議論の対象となっています。
10.1. 政治的遺産と「リベリスタ」傾向
コロラド党内部には、長らく「リベリスタ」と呼ばれる派閥が存在してきました。これは、リベラの強固なリーダーシップとカリスマ性を重視し、それを模範としようとする傾向を指します。この派閥は、ホルヘ・パチェコ・アレコやボルダベリー家といった政治家によって代表され、コロラド党内の「バトリスタ」などの他の派閥に対する対抗勢力として機能してきました。彼らはリベラを国家の創設者、そして強力な指導者として尊敬し、その政治思想と実践を継承しようと努めています。
10.2. 全体的な歴史的評価
リベラの生涯と行動に対する歴史的評価は複雑で多角的です。肯定的な側面としては、彼がブラジルからの独立闘争において果たした決定的役割、そして独立ウルグアイ国家の初代大統領としてその基盤を築いたことが挙げられます。彼は疑いなくウルグアイの独立と主権の確保に貢献した重要人物です。
しかし、同時に彼はウルグアイ内戦の勃発に深く関与し、長期にわたる国内の分断と紛争を招いた責任も問われています。特に、1831年のサルシプエデスの虐殺は、彼の評価を決定的に複雑にしている要素です。この出来事は、彼のリーダーシップの残酷な側面と、国家建設の過程で先住民族に対して行われた不正義を浮き彫りにしています。現代の視点からは、この虐殺は人道に対する罪として厳しく批判されており、リベラの歴史的遺産にはこの暗い側面が常に付随しています。
全体として、リベラはウルグアイの歴史において避けられない、しかし賛否両論の多い人物として記憶されています。彼の功績は国家の独立と形成に不可欠でしたが、その代償として生じた暴力と人道に対する侵害は、ウルグアイ社会が現在も向き合わなければならない歴史的な傷跡となっています。