1. 生涯と背景
ブルーノ・エドムント・ペッツァイは1955年2月3日に、オーストリアのフォアアールベルク州ラウテラッハで生まれた。
彼は1994年12月31日、オーストリアのインスブルックの病院で、アイスホッケーの試合中に心臓発作を起こし、39歳で突然の死を迎えた。これは彼の40歳の誕生日をわずか数週間後に控えての出来事であった。彼は妻と2人の娘を残してこの世を去った。
2. 選手経歴
ブルーノ・ペッツァイのプロサッカー選手としてのキャリアは、オーストリア国内リーグから始まり、その後ドイツ・ブンデスリーガで活躍し、国際舞台でもその名を馳せた。
2.1. クラブキャリア
ペッツァイは地元のクラブであるFCフォアアールベルクでプロキャリアを開始し、わずか1シーズンを過ごした後、1974年にオーストリア・ブンデスリーガの名門FCヴァッカー・インスブルックへ移籍した。インスブルックでは、主力選手としてオーストリア・ブンデスリーガで2度の優勝(1974-75、1976-77シーズン)と、オーストリア・カップでの1度の優勝(1974-75シーズン)に貢献し、UEFAチャンピオンズカップでは準々決勝に進出した。
1978年にはドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトへ移籍し、ここでも守備の要としてチームを支えた。フランクフルトではUEFAカップ(1979-80シーズン)とドイツ・カップ(1980-81シーズン)の優勝に貢献した。
1983年にはヴェルダー・ブレーメンに移籍し、4シーズンにわたり守備の中心選手としてその実力を発揮した。「オーストリアにペッツァイあり」と評され、ドイツ・ブンデスリーガのベストイレブンにも度々選出された。ヴェルダー・ブレーメンではリーグタイトルを獲得することはなかったが、2年連続(1984-85、1985-86シーズン)でドイツ・ブンデスリーガの準優勝を果たした。
1987年には古巣のインスブルックに戻り、スワロフスキー・チロル(現在のFCヴァッカー・インスブルック)でプレーした。ここではエルンスト・ハッペル監督の下で再びオーストリア・ブンデスリーガで2度の優勝(1988-89、1989-90シーズン)とオーストリア・カップでの1度の優勝(1988-89シーズン)を経験し、1990年に現役引退を表明した。
2.2. 代表キャリア
ペッツァイは20歳だった1975年6月に、チェコスロバキア戦でオーストリア代表としてデビューした。以降15年間にわたり、オーストリア代表の中心選手として、そして守備陣のリーダーとして活躍した。
彼は1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会と1982年FIFAワールドカップ・スペイン大会の2大会に出場し、両大会で全試合に出場した。特にアルゼンチン大会では、前回優勝国である西ドイツを破るという「コルドバの奇跡」を実現させたチームの一員であった。スペイン大会では、マドリードのビセンテ・カルデロンで北アイルランドと対戦した2次リーグで、後半5分にヒールキックから先制ゴールを決めた(試合は2対2の引き分けに終わった)。
彼はオーストリア代表として通算84試合に出場し、9得点を記録した。2024年時点でもフリードリッヒ・コンシリアやユリアン・バウムガルトリンガーと並び、オーストリア代表の歴代最多出場記録の8位タイにランクインしている。彼の最後の代表戦は、1990年8月に行われたスイスとの親善試合であった。
2.3. プレースタイルとポジション
ブルーノ・ペッツァイは、その多才なプレースタイルで知られるディフェンダーであった。彼の主要なポジションはリベロであり、守備ラインの最後尾からチームを統率した。
彼は卓越した守備能力に加え、積極的に攻撃にも参加することを特徴としていた。特に身長188 cmの長身を活かしたヘディングは、相手チームにとって脅威となり、多くの得点機に絡んだ。彼の攻撃参加は、単なるロングボールだけでなく、パスワークによる組み立てにも貢献し、チームの攻撃に奥行きを与えた。
3. 受賞歴と功績
ブルーノ・ペッツァイは、その輝かしい選手生活の中で数多くのチームタイトルと個人タイトルを獲得し、オーストリアサッカー界に多大な功績を残した。
3.1. チームタイトル
ペッツァイが獲得した主要なチームタイトルは以下の通りである。
- FCヴァッカー・インスブルック / スワロフスキー・チロル
- オーストリア・ブンデスリーガ優勝:4回(1974-75、1976-77、1988-89、1989-90)
- オーストリア・カップ優勝:2回(1974-75、1988-89)
- アイントラハト・フランクフルト
- UEFAカップ優勝:1回(1979-80)
- DFBポカール優勝:1回(1980-81)
- ヴェルダー・ブレーメン
- ドイツ・ブンデスリーガ準優勝:2回(1984-85、1985-86)
3.2. 個人タイトルと選出
ペッツァイの個人的な功績と評価は、以下の選出歴や候補歴に示されている。
- Sport Ideal European XI: 1979年
- キッカー ブンデスリーガ年間ベストイレブン:1980-81、1985-86シーズン
- FIFA世界選抜:1979年
- UEFA欧州選抜:1982年
- バロンドール候補:4年連続(1979年 - 1982年)で最終候補のベスト10に残った。ディフェンダーというポジションを考慮すると、これは特筆すべき快挙である。
- 20世紀オーストリアベストイレブンにも選出された。
4. 死没と遺産
ブルーノ・ペッツァイは1994年12月31日にインスブルックの病院で、アイスホッケーの試合中に心臓発作を起こし、39歳でこの世を去った。彼の突然の死は、オーストリアサッカー界に大きな衝撃と悲しみをもたらした。
彼は妻と2人の娘を残した。現役引退後、オーストリアサッカー協会は彼に新しい育成コンセプトの作成を依頼しており、彼のサッカーに対する情熱と知識は高く評価されていたことがうかがえる。現在でも、彼は「第二次世界大戦後のオーストリア最優秀ディフェンダー」と高く評価され続けており、その功績と記憶はオーストリアサッカー史に深く刻まれている。
5. 記念と追悼
ブルーノ・ペッツァイの功績を称え、彼の名前を冠した記念事業が行われている。彼のユースクラブであったFCラウテラッハは、そのスポーツ施設に彼の名を冠し、「Sportanlage Bruno Pezzey」(ブルーノ・ペッツァイ・スポーツ施設)と名付けた。これは、彼が育った地で、後進の育成にも貢献した彼の存在を後世に伝えるための追悼活動の一環である。