1. 生涯
カエサリオンの個人的な背景と幼少期、そして母クレオパトラ7世およびガイウス・ユリウス・カエサルとの関係は、彼の短い生涯を通じてローマの政治情勢に深く影響を与えた。
1.1. 誕生と出自
プトレマイオス・カエサル、通称カエサリオンは、紀元前47年の半ばから後半にかけてエジプトで生まれた。彼の母であるクレオパトラ7世は、彼に「テオス・フィロパトル・フィロメトル(Θεὸς Φιλοπάτωρ Φιλομήτωρ現代ギリシア語、父を愛し、母を愛する神)」という王名を与え、彼がローマの政治家にして独裁官であったガイウス・ユリウス・カエサルの息子であると主張した。彼はカエサルの容姿や立ち居振る舞いを受け継いでいたとされるが、カエサルは彼を公式には認知しなかった。しかし、カエサルはカエサリオンに自身の名を使用することを許可していた可能性がある。
カエサリオンがカエサルの庶子であるという非難はローマの視点からなされており、その目的は、彼がエジプトの王位に不適格であると描写することではなく、むしろローマ法においてカエサルの法定相続人ではないと否定することにあった。カエサルの支持者の一人であるガイウス・オッピウスは、カエサルがカエサリオンの父ではありえないことを証明しようとするパンフレットさえ書いた。この問題は、カエサルの養子であるオクタウィアヌスとクレオパトラとの間で対立が生じた際に、特に議論の的となった。現代の学者のほとんどは、カエサリオンがカエサルの実子であるという説を受け入れている。
1.2. 幼少期と共同統治の開始
カエサリオンは紀元前46年から紀元前44年までの2年間をローマで過ごし、母と共にカエサルの別荘であるカエサルの庭園に滞在した。クレオパトラは、息子が最終的にローマ共和国とエジプトの双方の指導者として父の跡を継ぐことを望んでいた。
紀元前44年3月15日のガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺後、クレオパトラとカエサリオンはエジプトへ戻った。紀元前44年9月2日、カエサリオンは3歳にして母によってプトレマイオス朝の共同統治者に指名された。しかし、彼は名目上のファラオであり、実際の権力はクレオパトラが保持していた。クレオパトラは、自身と息子の関係を、エジプトの女神イシスと彼女の神の子ホルスの関係になぞらえていた。
紀元前44年から紀元前36年のアンティオキアの寄進までの間、カエサリオンに関する歴史的記録は存在しない。その2年後にはアレクサンドリアの寄進にも登場する。クレオパトラとマルクス・アントニウスは、ローマとパルティアの支配下にあった土地を、カエサリオン、双子のアレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネ2世、そしてプトレマイオス・フィラデルフォス(後者3名はアントニウスを父とする異父弟妹)といったクレオパトラの子供たちに贈与するためにこれらの「寄進」を行った。オクタウィアヌスは紀元前36年のアンティオキアの寄進に公的な承認を与えたが、これはクレオパトラが持つセレウコス朝の王統という特異な血筋を寄進された地域で利用し、東方を統治しようとするアントニウスの戦略であったとされている。
2. 治世と政治的意義
カエサリオンがファラオとして統治した期間は短かったものの、ローマ共和政末期の地政学的状況において、彼は重要な象徴的役割を果たした。
2.1. 王としての宣言と称号
紀元前34年、アントニウスはアレクサンドリアの寄進において、カエサリオンとクレオパトラとの間の3人の子供たちに、さらなる東方の土地と称号を与えた。カエサリオンは「神」であり、「神の子」であり、そして「諸王の王」であると宣言された。この壮大な称号は「ローマの属王関係の運営において前例がない」ものであり、「ローマ人民の『偉大さ』を脅かす」ものと見なされ得るものであった。アントニウスはまた、カエサリオンをカエサルの真の息子であり相続人であると宣言した。
2.2. ローマの権力闘争における位置付け
アントニウスによるカエサリオンの真の息子であるとの宣言は、カエサルの大甥であり養子としての地位に基づくオクタウィアヌスの権力主張に対する直接的な脅威であった。これらの宣言は、アントニウスとオクタウィアヌスとの関係における致命的な亀裂の一因となった。オクタウィアヌスは「寄進」に対するローマの不満を利用し、アントニウスとクレオパトラに対する戦争の支持を得ることに成功した。カエサリオンは、オクタウィアヌスとの正統性を巡る抗争において、まさにその道具とされたのである。
3. 死

紀元前31年のアクティウムの海戦でマルクス・アントニウスとクレオパトラが敗れた後、クレオパトラはカエサリオンを「母なしで単独の支配者」として育成しようとしていたようである。彼女は、おそらくアントニウスと共に亡命するつもりで、アントニウスもレピドゥスのように引退を許されることを望んでいた可能性がある。
カエサリオンは紀元前30年に再び歴史記録に登場する。この年、オクタウィアヌスがエジプトに侵攻し、彼を捜索した。クレオパトラは、当時17歳であったカエサリオンを安全のため紅海の港であるベレニケへ送り、おそらくインドへの脱出計画の一部であったと考えられる。古代ギリシャの歴史家プルタルコスは、カエサリオンがインドへ送られたものの、テオドロスのようなもう一人の家庭教師であるロドンによって、オクタウィアヌスがエジプト王国を与えるという偽りの約束で呼び戻されたと記している。
オクタウィアヌスは紀元前30年8月1日にアレクサンドリア市を占領し、この日付はエジプトがローマ共和国に正式に併合された日とされている。この頃、マルクス・アントニウスとクレオパトラは、伝統的に自殺によって死亡したとされる。カエサリオンの護衛や教師は彼を裏切った。オクタウィアヌスは一時的にカエサリオンが母の跡を継いでエジプトを統治することを許すことも考慮したとされるが、最終的には紀元前30年8月下旬、おそらく8月29日にアレクサンドリアでカエサリオンの処刑を命じた。これは、彼の側近アリウス・ディディモスが「あまりに多くのカエサルは良くない(ouk agathon polukaisarie古代ギリシア語 (ラテン文字))」というホメーロスの詩句を捩った助言をしたことに従ったものとされる。カエサリオンの死に関する現存する情報は少ない。
カエサリオンは、オクタウィアヌスと同じく「カエサルの後継者である」可能性を持っていたため殺害されたと見られている。この殺害の事実から、少なくともオクタウィアヌスは、カエサリオンがカエサルの実子であると認識していたようである。この後、オクタウィアヌスはエジプトの絶対的な支配権を掌握した。紀元前30年は、エジプトの伝統的な年代体系において、新しい支配者の治世の最初の年とされた。クレオパトラがマルクス・アントニウスとの間にもうけていた子供たち、例えばクレオパトラ・セレネ2世などは、アントニウスの前妻である小オクタウィアに預けられ、ローマでオクタウィアヌスの親族として手厚く遇された。
4. 肖像と表現

カエサリオンの現存する肖像は少ない。
紀元前1997年にアレクサンドリア港で発見された部分的な彫像は、カエサリオンを描いたものと考えられている。また、デンデラ神殿のハトホル神殿では、成人したファラオとして母と共に2度レリーフに描かれている。幼少期の姿は、クレオパトラの一部の青銅貨にも登場する。


紀元1世紀半ばのポンペイのローマ壁画には、ウェヌスがクピドを抱いている姿が描かれており、これはクレオパトラ7世をウェヌス・ゲネトリクスとして、カエサリオンをクピドとして描いたものである可能性が極めて高い。この絵画がある部屋は、紀元前30年のオクタウィアヌスによるカエサリオンの処刑後、おそらく直ちに壁で封鎖されたとされ、カエサリオンの芸術的描写が当時の支配体制にとって「デリケートな問題」と見なされたことを示唆している。
また、プタハの高位聖職者の石灰岩製石碑には、クレオパトラとカエサリオンのカルトゥーシュが刻まれている。エドフのエドフ神殿には、ハヤブサの神ホルスの2つの彫像の後ろに、カエサリオンのより小さな描写が施されている。
5. エジプトの王名
カエサリオンは、ギリシャ語の名前や愛称に加えて、エジプト語で以下のような正式な王名を持っていた。
- イウアパネチェル・エンティネヘム(Iwapanetjer entynehem) - 「救う神の相続者」
- セテペンプタハ(Setepenptah) - 「プタハに選ばれし者」
- イルマアテンレ(Irmaatenre) - 「ラーの支配を遂行する者」または「正義の太陽」
- セケムアンクアムン(Sekhemankhamun) - 「アメンの生ける姿」
6. 家系
カエサリオンの家系は、プトレマイオス朝および共和政ローマの貴族家との複雑な血縁関係を示している。
世代 | 氏名 |
---|---|
1 | カエサリオン |
2 | ガイウス・ユリウス・カエサル(父) クレオパトラ7世(母) |
3 | ガイウス・ユリウス・カエサル・ストラボ(父方祖父) アウレリア・コッタ(父方祖母) プトレマイオス12世(母方祖父) クレオパトラ5世(母方祖母) |
4 | ガイウス・ユリウス・カエサル1世(父方曾祖父) マルキア(父方曾祖母) ルキウス・アウレリウス・コッタ(父方曾祖父) ルティリア(父方曾祖母) プトレマイオス8世(母方曾祖父) クレオパトラ3世(母方曾祖母) プトレマイオス10世(母方曾祖父) ベレニケ3世(母方曾祖母) |
7. 遺産
カエサリオンの短い生涯は、歴史に大きな影響を与えた。彼はプトレマイオス朝最後のファラオであり、彼の死は、エジプトがローマに併合されるという時代の転換点を確定させた。彼の存在は、ローマの権力闘争において極めて象徴的な意味を持ち、オクタウィアヌスがローマ帝国の初代皇帝として絶対的な権力を確立する上で、その競争相手を排除するという重要な役割を果たした。彼の処刑は、ヘレニズム世界の終焉と、ローマによる地中海世界の完全な支配の始まりを象徴している。